顕われるもの

2007-02-14 05:59:30 | Notebook
      
何年か前のこと、内海朗さんという画家と話していたら、こんなことをおっしゃった。どうしてこういう話になったのか覚えていない。
「絵には何もかも出てくるんだよね、すごいよ」
絵には、それを描くひとが考えていることや、思っていること、人柄など、いろいろなものが顕われてしまう。そういう意味だ。

絵を描くひとにかぎらず、ものを創るひとはみな、いろいろな顔をさらけだす。よそいきの顔。手の込んだ顔。笑顔。軽薄な顔。おすまし。気取り。悪びれた顔。いろんな顔をさらしているものだ。この「顔」について、石川淳という作家が、そのものずばりの「顔貌について」という随筆を書いている。これはそのまま、すぐれた芸術論でもあった。

どうせ顔をさらすなら、できるだけ綺麗な、気の利いた顔をさらしたい。そう思うひとは正直になれない。かえって、あさましい化粧のあとを見せてしまい、作品の息の根をとめる(おなじことを石川淳は「自分自身が目障りだ」と書いた)。そのあさましさや作為がそのまま、そのひとそのものなのだけれど、これは恥ずかしいことだ。お化粧がずいぶんお上手ですね、などと褒められたら、どんな美女でも複雑な気分になるだろう。
かといって、正直な顔をみせたいと思ったとしても、これが案外むずかしい。正直であるためには綺麗な顔をつくる以上の天分が必要だ。

グラフィック・デザイナーなどの場合は、自意識を無批判にさらけだしていて、それを当人は美意識だと思いこんでいるという、とても恥ずかしい例が意外なほど多い。演技そっちのけで顔を売り込む俳優みたいなものだ。俳優やデザイナーに人相の悪い人物がとても多いのは、理由のないことではないのかもしれない。

ああ正直な作品だな、とおもわせるもの。そういうものに巡り逢ったら、それは幸運なことだ。そして、その作品の背丈と作り手が合っていたら、なお幸運だと思う。
顔は正直なのに、奇妙に背伸びをしていたら、それはそれで目障りだ。ふつうに立って自然な目線でものを言うべきだろう。
正直で、背丈が合っている。そういう作品があったら、それだけで値打ちがある。

ここで何度も紹介している矢野絢子さんが、数年前に「てろてろ」という歌をつくった。

知らないとこに行きたいな
嘘だよ、ほんとうはね
ここにいたい、ここに、いたいんだ

なんだか不思議だけど、とても正直で美しい歌だった。知らないところに行きたいという歌でもあり、どこへも行かず、ここにいたい、という歌でもある。この街を愛しているよ、という歌でもある。あんまり愛せてないけど、いつかもっと愛したいよ、という歌でもある。いろんな気持ちの動きが、本人の正直な気持ちにあわせて歌われている。そういう思いをあれこれ、ぜんぶ一緒に歌うことが、彼女の胸にかなった行為だったのかもしれない。正直な作品は思いがけないちからを持つ。

この歌はその後、作り手を乗せて旅をし始めた。そして、この歌手はこの歌のとおりの運命を生きることになった。
それは「ここにいたい」という言葉と「知らないとこに行きたい」という言葉の間を、行ったり来たりするような旅だった。

正直な、そして背丈の合った作品は、作り手でさえ驚くようなちからを持っているものだ。とりわけ、本人の未来を予見していることがある。

手放すこと

2007-02-11 10:11:38 | Notebook
     
べつに言霊信仰を信じているわけではないけれども、こうして文章を書いたり考えたりしたことは、残る。その影響がちゃんと本人のなかに残っていて、ちからを持ち続ける。

静かに坐って、自分のなかを掘り下げていく作業をずっとやっていると、やがて気づくのは、産まれてからこのかた、考えたり思ったりしたことが、ことごとく自分のなかに残っているということだ。おそらく、すべてが。意識は記憶にすぎない、と言ったのはクリシュナムルティだった。逆に言えば、すべて記憶は残っていて、それが自分自身(=現在=意識)を創りあげているというわけだ。それを手放しなさい、と彼は言っているのだ。しかしこれは記憶をなくせと言っているわけではないから、とても難しい。

とくに、祈ったこと、書いたことは強く残る。これはもう歴然としていて、その事実を前に怖ろしくなる。ほとんど途方に暮れていると言ってもいい。

わたしはここに坐っていて、それを感じることができる。いつでも。かつて祈ったこと。愚かな祈願。その神々。書いたこと。それを一掃しなくてはいけない。澱が残るように、それは意識の底部で腐り始め、人生をだいなしにする。わたしはそれで自分をほとんど棒に振ったようなものだ。わたしは腐り始めた水をたたえて傷みはじめた紙コップのようなものだ。しかしそれを消し去ることはできない。できるのは、神道の言葉で言うと、せいぜい「祓い清める」だけだ。しかし消えるわけではない。

ひとに会うと、そのひとの背後に神がみえることがある。いや神と言うと語弊があるから、まあ精神と言い換えてもよい。それが陽気な山河の精霊のような無邪気なものだと嬉しくなる。そういう精神をもったひとは周囲と自分を幸せにするからだ。音楽を奏でるひとがよくそういう精神をもっている。しかし同じことを繰り返すようになったり、なにか信念のようなものをもちはじめると、台無しになる。ひとはすぐに台無しになる。

ときに、ある種の信仰心をもっているひとと会うと、暗澹とした気持ちになることがある。よっぽどの心構えがないと、その信仰心が澱になって、ほとんど呪いのようになっていることが少なくないからだ。これは度を越した怒りや厳格さや冷淡さ、あくの強い性格や、不信や不和をもたらす。ときには、なにもかも台無しにしてしまう。これほど破壊的なものはちょっとほかに見当たらない。文筆業をいとなんでいるひとも、似たような神をかかえていることがある。彼らに必要なのは「何をすべきか」「何を信じるべきか」ではなく、手放すことなのだ。しかし無理だろう。それはとても難しいことだからだ。



この「澱」のことを、はじめて注意してくれたひとがいる。

もうずいぶん昔のことだ。わたしはまだ二十代の青年で、宗教への興味からいろいろな信仰に首を突っ込んだすえ、ある老人に会った。まったく偶然に、ひょんなことから出会ったのだ。ある秋のこと、東北の山のなかで。
静かな静かなお婆さんだった。肉体は老人なのに、清流がきらきら光るような、精神の輝きがあった。数人のひとびとが彼女を慕って集まり、話を聴いていた。

お婆さんは、お茶をすすめてくれて、そして、こんなことを言い始めた。穏やかな声だった。

「あんたはカミケが強い。なにも拝まないほうがいい」

そのときは、言われたことの意味が分からなかった。しかし強い印象があった。
そのほかに二、三の注意をうけた。注意といっても世間話のようなものだったが、わたしのための忠告であることはあきらかだった。しかしそれも意味が分からなかった。ふしぎなものだ。ありふれた簡単な言葉なのに、ほんとうの意味が分からないのだ。それから数年たって、お婆さんから言われたとおりのことが起きて、さらに時がたって、はじめて意味が分かるのだった。

風がやみ、森が静まりかえるように、話が終わった。そのお婆さんの神さまは白い龍だったので、その龍神にお礼を言うために参拝しようとしたら、こう言われた。
「手をあわせないでお帰りなさい。なにも拝まないほうがいい。ああ、お礼なんかいらないよ」
お礼に包もうとしたお賽銭も受け取らなかった。お婆さんは静かに微笑んでいた。

象の墓場

2007-02-05 18:00:07 | Notebook
       
誰が言い始めたのか知らないが、わたしが子どものころ、象には墓場があるという話があった。

野生の象たちのあいだでは墓場が決められていて、それはジャングルの奥にある。誰も足を踏み入れたことのない場所で、ほかの動物に侵されることもない神聖で静かな場所だ。
死期が近づくと、象は本能的に、その墓場へと赴く。そしてその地に横たわり、やがて死をむかえる。
なんとも神聖で神秘的な話だが、どうやらこれは事実ではないらしい。

にんげんの世界には、そうした墓場はあるだろうか。死をむかえるための場所。民族によってはあるだろうし、そういう話を聞いたこともある。しかし、現代のわたしたちにはない。
いまのニホンの社会には、「死をむかえるための場所」はない。それははたして、まっとうなことなのだろうか。わたしには分からない。

むかしのニホンのある地方には、姥捨て山という風習があったらしい。村の足手まといになった老人をそこへ捨てて見殺しにするわけだ。なんとも悲しい話だが、ひとの気持ちというのは複雑なもので、そういう風習を老人みずから求める声があった。姥捨て山は、たんに余計者を捨てる場所なんかではなくて、この世の役目を終えたと思うものが、赴くべき安住の地でもあるというのだった。

自分はもう生きていたくない、もう十分だ、死に場所がほしい。たんに自殺願望のようなものではなくて、そういう声もある。姥捨て山があったころは良かった、という声もあったそうだ。これらはある民俗学者から聞いたことだ。この言葉がそのまま事実どおりであるかどうかは分からない。

いままで、いろいろな老人と話してみて、気づくことがある。彼らはみな一人ひとり、自分なりに死の恐怖と向きあっている。くちには出さなくとも、それと向きあっている。
そして、どうやらみんな考えが違う。死に場所も、それはあるひとにとっては養護施設だったり、自宅だったり、病院と決めている場合もある。いつも胸をうつのは、その姿がみな、それぞれ、とても孤独なことだ。死が孤独であるのは当たり前じゃないかと言われそうだが、どうしてみなこうまで孤独でなくてはいけないのだろう、と首をかしげることもある。

今日も、トーキョーのある駅で人身事故が起きた。誰かが線路に飛び込み、電車がまた遅れた。気の毒な話でもあり、迷惑な話でもある。その人物にとっての死に場所は線路の上だったというわけだ。いや死に場所という考えすらもなかったのだろう。死に場所を持たないひとの哀しさのようなものを感じるのは、わたしだけだろうか。

「これが人間の世界だから電車の遅れですんでいるけど、象の世界だったら、たいへんなことになるよな。墓場と勘違いした象がつぎつぎやって来て、線路の上に横たわったりしてさ」
いつだったか、そんな冗談を友人に言ったら、彼女は、あははは、と笑って、しかし何も言わなかった。へんなことを言う男だと思ったのだろう。