「坊や」という歌がある。大きくて、小さくて、ふしぎな歌だ。矢野絢子さんのアルバム『ナイルの一滴』で聴くことができる。しかしこれは彼女の作品ではなく、池マサトさんという方が書いた歌だ。
ある時期のわたしは、この歌ばかりを繰り返し、繰り返し聴いていた。いま久しぶりに聴き返しても、まるではじめて聴いたように聞こえる。
静かやね、十二月やのに
静かやね、足音もせん
季節の街に、あふれかえした
どこもかしこも、自転車ばかり
横断歩道、一歩手前で
坊やは煙草に、火を点ける
静かやね、十二月やのに
静かやね、真っ昼間やのに
煙草に火を点ける瞬間は、ほんの一瞬であると同時に、永遠でもある。またそのひとの人生の、ほんのひとときであり、同時にすべてでもある。永遠のなかでは、誰の魂もみな若造であり「坊や」だ。
胸のボタンの取れたコートで
頼りない夜に坐り込み
強い涙の一歩手前で
坊やは煙草に火を点ける
破産、失業、難病などの、なんらかの理由で人生から蹴落とされたものたちは、身の置き所もなく、張り裂けそうな心をかかえて街をさまよう。そして知るのだ、自分が「坊や」であることに。しかしその感覚こそが、人生の味わいそのものなのだ。かれらは人生を失ったからこそ、逆に強烈にそれを感じとっている。喪失したからこそ、わたしたちはそれをほんとうに得ることができるのだ。
失われた愛情、失われた家族、失われた生活、失われた夢、失われた希望、失われた財産、失われた明日こそが、強くつよく魂に刻み込まれる。それは個を超えており、死者たちがあの世へ持っていくことのできるものだ。わたしはそれを偉大なる書物と呼んだことがある。それこそが詩だ、と言ったひともいる。そしておそらく世界は、生者たちの側ではなく、喪失の側に、死者たちの側にある。ただしそれでも、生は、この肉体は、そんな世界の果実であり、そのまま祝福なのだ。だから生者は命あるかぎり、飲みかつ歌い、笑い、愛し、思う存分この世で遊び呆けるべきだ。そして死の闇は、そんな生者の光を必要としているのだ。供養とは、その一形態にすぎない。
そして、すべての死が犬死にであり、野垂れ死にであるように、すべてのひとは路上で孤独に行き倒れる。野垂れ死にこそが、まっとうな死であり、生の美がそこに集約された瞬間だ。残された者たちの手前勝手な祈りも、儀式も、死とは無関係であり、その美をそこなうことはできない。
「坊や」の作者が、その自らの魂と孤独を見つめぬき、張り裂けた心のなかから生みだした歌が、そのまま孤独な魂たちの胸にとどいている。そして矢野絢子さんの若い閃きは、それを綺麗に歌うのではなく、がなりたてるように、上へ上へと、遠くへ遠くへと、孤独な魂たちの胸に、時空を超えて届かせようとする。
目の前の小さな小さな、マッチの火のように小さな生への、深い共感が、深くあればあるほど、大きな永遠へと通じていく。そしてわたしは驚くのだ、わたしたちの誰もが、最初からそれを知っているということに気づいて驚くのだ。なぜなら、それが生きることだからだ。空気を呼吸しながら、いつも感じているのがそれであり、誰もがそうであるからだ。わたしたちはみな、胸のボタンの取れたコートを着て、頼りない夜に坐り込み、強い涙の一歩手前で、煙草に火を点けているのである。