ここにいるのは何だろう?・補足

2010-10-14 11:38:48 | Notebook
     
先の文章「ここにいるのは何だろう?」に、凜さんという方からコメントをいただき、お返事を書いているうちに、立派に新しい文章に仕上がってしまったので、ここに載せてみます。凜さん、ありがとう。



>凜さん

そうです。そんな感じです。なんか難しくてすみません。それは感情というよりも、感情以前のモトみたいなものですが。

親父の供養のために般若心経を誦んでいたとき、ひとはそれに直接はたらきかけているんだなあと気づいたので、こんなものを書きました。
そして、般若心経を誦むとき、ひとは「それ」を、かなり良いほうへ修正しているようなんです。清めているというか。神棚などに手を合わせているときも、そうです。

しかしこれは特別な行為によらなくても、ふだん、ひとが生きながら、泣いたり笑ったりしながら、やはり良くも悪くも、「それ」に働きかけているんだろうなあと思います。
きっとわたしたちの生は、わたしたち個を超えているんだけれども、ふつうに生きて悩んだり苦しんだり笑ったりしたことが、ちゃんとその大きな何かに通じているんだなあという気づきです。そのために孤独な個があるんじゃないかと。

その大きなものに振り回されている個の人生は、凜さんの言うように「やるせない人生」ですが、しかし肉体を通してこの世で生きているひとだけが、その「なにか」に働きかけることができる。ここに人間が生きる値打ちがあるのだろうと思います。泣くことも、笑うことも、絶望することも、ちゃんと大きな意味があるということですね。

それから重要なことは、人生はきっと、たぶん個のもので終わらないということです。これはまだ考えの途中ですが。
そして、ひとの生よりも、その「靄のようなもの」のほうが本当の存在であると仮定するならば(あくまで仮定です)、この個人の人生で失われたものや、絶望も、そして幼くして死んでしまった子どもたちも、その「靄のようなもの」への認識と働きかけを深めるという意味では、生を超えた働きをしている、とかんがえることができます。つまり、この世の生で失われたものは、べつの世界ではむしろ存在し続けるという、昔ながらの宗教的な考え方が、ここで生きてきます。ここに大きな救いがあると思います。(これは生者のための「救い」にはなりませんが)。

生が個で終了するものであるとすれば、絶望はそのまま絶望であり、喪失はそのまま喪失でしかありません。しかし、どうやらそうではない。その絶望と喪失がこの「何か」に働きかける効果のようなものがあります。そして、その「何か」のほうが大きく、ひとの生の根幹のようなものであるとすれば、(それはたぶん、死の世界の側にあるんでしょうけれど)、多くの宗教が言っていることはつじつまがあってくるような気がしているんです。

でも宗教的な言葉で語りたくないんですよ。だって、いまふつうに生きているひとが、そのまま、オーケーなんだもの。それに教義というものは必ず狂信に通じていきますから、宗教観念から入りたくないんです。たとえば仏教のお坊さんが、
「亡くなられた方は、あの世では逆に誕生するんですよ。だから戒名は、あの世で生まれて生きていくための名前なんです」
などと説明してしまうと、それはわたしがここに書いたことをそのまま見事に言い表しているのですが、しかし大きく間違ってしまうんです。

なぜなら、それはこの世を超えた話であって、この世の言葉で表現することじたいが、かなり間違っているからです。教義になってしまった瞬間に、その認識は消えてしまうんです。この、おそらく本当の宗教的精神や認識は、「彼岸」を信じることや、仏教教義を信じたり、あの世の誕生を信じることとは、根本的にまったく違うことなんです。すべての宗教教義は、狂信にすぎないんですよ。わたしたちは宗教の教えをすべて捨てて、最初から自分の胸のなかに発見しなくてはいけません。それもふだんの生活の、苦しみや喜びのなかで。そのために生きてるんですから。

あくまで人間の苦しみの側に立って、なんら出来合いの観念に頼らず、自分の感性や胸の声や絶望だけを頼りに世界に立ち向かおうとするような、たとえば文学的な営みや芸術、そして音楽のほうが、はるかに宗教教義を超えている場合があるということです。

ですからわたしも、あくまで「ここにいるのは何だろう?」という人間の問いかけに、立ち戻り続けたいと思っているんですよ。

ここにいるのは何だろう?

2010-10-03 11:44:18 | Notebook
     
いま死ぬとしたら、ここにいるのは何だろう?



それは青年の、ひ弱な問いかけではなく。

何者、ではなく、何?
わたしは? ではなく、その生き物は、でもない。

わたしはとうに過ぎ去っているのだから。

さまざまな思いを成してきたもの、しかしそれ自体は気持ちや気分でもなく、まだ靄のようなもの、その色合いや味わいを、わたしたちは手から手へと受け渡してきた。

涙と苦しみのようなもの。しかしまだそれは涙も苦しみも結んでおらず、うつろいやすい影のような色をみせる。ぞっとするような、しかし陶然とした、冷たい夜の匂い。

あたたかい希望のようなもの。しかしまだそれは喜びも快楽も生んではいない、椅子にのこされた、誰かのぬくもりのようなもの。



遠いとおい時と場所の人物が、この世のなかにたたずんで、不運の風に吹かれ途方に暮れるようなもの。その行き場のない無念が、まだ無念という気持ちさえ結ばないまま、ひとからひとへと受け渡される。

その無念の色あいをおびた、靄のようなもの。それをはるばる身に受けてしまった父親から、さらに受け渡されてしまった娘が、その暗く、冷たい色あいに染められる。それは生まれる前からの、まだこの世に彼女が存在しない前からの受難。

彼女は冷たく未熟な男に魅せられては、失望をくりかえす。怒りですべてを終わらせてしまうこともある。不当に誰かを軽蔑したり、恐れたり、不安になることもある。彼女に宿った靄のようなものは、希望のない愛にしがみつかせ、稚拙なかんがえに支配させる。

ある朝、彼女は目が覚め、ふいに気づく。わたしが不幸になったのは父のせいだと思っていたが、そうじゃなかった。もっと微細な、こころの色あいのようなものだ。それも一つではなく、混ざり合っている。そのうちのいくつかがわたしの気持ちを沈ませ、なにかを歪め、くせのある見方をさせていたのだ。この色あいのいくつかは、父とそっくりだ。しかし父ひとりの責任ではない。いったいどこから来たのだろうか。こんな運命をになっているわたしとは、いったい何だろう?

彼女は生を超えた靄のようなものを、知らず知らず生きる苦しみを通して見ているのだ。般若心経を誦えるものたちが、じかにそれを見つめるように。聖書の言葉が、死者たちの流儀を示すように。すべての苦しみが、そのまま誰かを救っているように。

わたしたちは太陽の光の美しさを見るように、生きる苦しみをとおして死者たちを見つめる。あの美は、死なのだ。



もしもいま死ぬとしたら、ここにいるのは何だろう?