オヤジという病い

2008-10-14 04:32:22 | Notebook
     
われわれオヤジという生き物は、いろいろ知ってしまっているせいで、すぐになんでも分かってしまうという欠点をもっている。
ある種のジャーナリストやインテリみたいに、なんでも知っている、すぐになんでも分かってしまうということは、とても酷いことだ。

ゆえにオヤジは、時間をかけてじっくり味わい観察するという美徳を失いがちだ。ほんらい長くあるべき思考も短くなってくる。この点において、なにも知らない若いビギナーよりはるかに人間的に劣る場合がある。オヤジは物事をよく見ないし、ひとの話をよく聞かない。せめてその自信と貫禄を、ふだんは棚上げにして忘れ去ることができればいいのに。できれば青年のように不安定で、空疎で、まるで風にさらされたような心を取り戻しておればいいのにと思うことがある。どうせオヤジなんだから、ほんものの青年よりずっと上手に立ち向かえるはずなのだから。

受難に遭ったオヤジは、そのことに気づいている。リストラされたり、むずかしい病気に罹って空を仰ぐとき、じつはオヤジたちはこっそり気づいているものだ。あの青年のころに吹いていた風は、いまも変わらず吹いているのだということを。自分は青年時代からすこしも成長していないのだということを。

そしてさらに気づくのだ。ひとをほんとうに成長させるのは経験値でも引き出しを増やすことでもなく、この風の味わいなのだということに。

目を瞑る。風のなかでそっと目を瞑る。そうしてオヤジは、やっとオトナになる。

空を、つかもうとする手

2008-10-02 11:08:18 | Notebook
     
赤ちゃんが、生まれたての目で、なにか光をみる。
みえない赤ちゃんも、ぼんやりとなにかに反応する。
空を、つかもうとする手のように。
しかし触れようとした光は、手のなかにはない。

手のなかに返ってくるのは、はてしない虚空。音。風。温度。あるいはお母さんの手。ひとのぬくもり。気配。毛布の感触。抱き上げられて空に浮かぶような感覚。

光のようなものをみて、反応する。なにかが返ってくる。
空を、つかもうとする手が求める。なにかが返ってくる。
求める。そして返ってくる。
求める。そして返ってくる。
くりかえし、くりかえし。

しかし、つかもうとした空は手のなかにはない。

こころの水平線は、ここに引かれる。
ひとは、あらかじめ手と空のあいだで、引き裂かれている。
ひとは、ここから始まる。



引き裂かれたこころの記憶が、無数に蓄積される。
その記憶の倉庫は、のちに意識となる。
やがて意識には集約点がつくられ、「私」が生まれる。
わたしは私をつうじて、地面のうえに素足で立ち、世界へと目をひらく。
これは名前や観念によって力をあたえられ、より強固にかたちづくられる。
だから自我は、この観念の複合体(コンプレックス)といわれる。

水平線。
あらかじめ引き裂かれた意識。
ここに光と影が生まれる。
陰と陽。天と地。彼岸と此岸。
恩寵の母体であり、受難の母体でもある。
赤ちゃんの目は、はじめからこれらを、みつめている。

この世界が、苦い丸薬のような味をもつ理由がここにある。
青年の不安といらだち。かれらが存在に素手で立ち向かう愚かさと神聖さ。
その火傷の痛み。凍った傷跡の充実。
みえない額の傷、そして声による祝福。



今日わたしは、2006年6月19日にみた夢について瞑想していた。

夜明け前の空に、きれいな星が無数に流れている。おおきく、またたきながら、深く澄んだ水鏡のような空を自由に泳いでいる。
その星のひとつが手のひらのうえに、ぽたりと落ちてきた。

よくみると、それは銀色に光る30~40ミリほどの小魚のような、あるいは昆虫のような、見知らぬ美しい生き物だった。柳の葉のようなかたちをした透明の羽根をばたつかせ、手のひらのうえで跳ね上がっている。

空にまたたいていた星たち。
わたしがこの世ではじめてみた光。
時間も私もいない世界。

その美は、つねにそこにある。そのひとの生涯を照らしつづける。
その美は、人間の世界の言葉では「死」と呼ばれている。