由来

2009-12-30 23:01:32 | Notebook
     
わたしはその眼球のことをよく知っている。
それは緑内障と白内障を患っており、彼はもうずっと長い間、ある鍼灸師と、ある眼科医の手当を受けてきた。
彼がその眼を守るために、どのような目薬をさしてきたか、どういう生活をしてきたかを、よく知っているのだ。

彼の耳にはめられた、その小さな補聴器のこともよく知っている。
どの店で、どのようなひとに手入れをしてもらっているのか、わたしは知っているのだ。

彼が着ている、そのすっかり古びてしまったパジャマが、どういうものかよく知っている。むかし伊勢丹で買った、値段の張るものだった。
彼がかぶっている、手編みの帽子がどういうものか、知っている。なぜそんなものをかぶっているのかも、よく知っている。

どのように自分の体を守り、自然のものを食べているかを知っている。どのように体を動かし、どれほどまじめに生活してきたかを、よく知っている。

むずかしい病気と闘っていたときに、先生たちが、どれほどよくしてくれたかを、知っている。
そして最初の病院の、あの看護師さんたちがどれほど心配してくれて、どれほど暖かく、よくしてくれていたかを、知っている。とりわけ彼の担当だったあの看護師さんには、驚くほど親身に世話をしていただいたと、彼がどれほど感謝しているか、よく知っている。

彼のたのしみのいくつかを、わたしは知っている。
畑の作物を育てること。孫の顔をみること。ある店の焼き餃子。ある街の立ち食いそば屋。相撲の名勝負。巨人軍が負けること。

彼の願いのいくつかを、わたしはよく知っている。
彼の悲しみのいくつかを、わたしはよく知っている。
彼が何に失望し、何を悲しみ涙を流していたかを、わたしはいくつか知っている。

彼がどんな気持ちで退院したのか、どんな気持ちで、これから一緒に仲良く生活しようと言ったのか、わたしはよく知っている。

退院してから、彼がどんな気持ちで食生活をすこし変更し、なぜ飲みつけない牛乳を買ったのか、わたしは知っている。彼がどんな気持ちで、弱った体をいたわろうとしてきたのか、わたしは知っている。

たくさんの由来を、わたしはよく知っている。

生きるひとが、日々いとなみつづける、由来。
それらの由来は、今日も、明日も、つづいていく。今日は晴れてよかったなあとか、雨が降って悲しいとか、暖かいとか、寒いとか、さまざまな想いをともないながら、ひとは空を見上げ、そして生きていく。由来は歴史となり、そして明日へと続いていく。



119番に電話しながら、わたしは彼の首にそっと手をあてる。そして、か細い腕を持ち上げ、それが痩せた鶏のもも肉のように冷えて硬直していることを確かめた。パジャマ姿で、毛糸の帽子をかぶって、めがねをかけたまま、胎児のような格好で床に横たわる、その白濁した眼球をのぞき込んだ。

彼はもう、餃子を食べることはない。立ち食いそば屋に行くこともない。
もう相撲をみることはないし、巨人が負けても喜ばない。
暑いなあとも、寒いなあとも想わない。

かぞえきれないほどの由来の一つひとつが、永遠に絶たれてしまったのだ。
残されたひとは、その死よりも、その不在よりも、絶たれてしまった由来の深さ、長さ、膨大さを前にして、途方に暮れる。

彼が父親だからではなく、血のつながりがあるからでもなく、その死は、骨身に応える。絶たれてしまった膨大な由来の数々が、こちらの生をも圧倒し、強く揺さぶりつづける。
それは悲しみよりも強い力で、物理的に、生理的に作用する。わたしの心臓を締め上げ、血管を細くし、視力を弱め、歯をもろくする。

わたしたちは、その由来の一つひとつが、どういうものだったかを確かめようとする。彼が何を考えていたのかとか、そのときに何を感じていたのかを、さぐろうとする。

それから、絶たれてしまった由来の一つひとつを、べつの何かで埋め合わせようとする。たとえば自分の思いや、自分の生のいとなみの、自分の由来で、埋め合わせようとする。
そして、とても埋め合わせることなんかできないと気づき、暗然とする。

しかたなく、やりようもなく、わたしは手をあわせる。花をたむけ、そして、たどたどしく般若心経を誦える。
一つひとつの骨を拾うように、一つひとつの由来を、わたしは拾い上げる。
そして、それを空へ放り上げ、わたしはこう呟く。

「親父よ、この青い空のようになれ!」