女のこころが宿す男

2006-03-10 03:32:02 | Notebook
     
既婚者の男性のなかでも、とくに勘のいい方なら、うすうす気づくことがあるだろう。
自分が結婚した相手がじつは、女性ではなかったということに。
いや、じっさいには女性ではあるけれども、どうやらそのなかに、誰かべつの、見知らぬ人間が棲んでいるということ。そしてその見知らぬ人間は、どうやら男性であるらしいということに。

その女性の父親というのとも違う。誰かべつの男性というのでもない。あえて言えば、そうしたさまざまな男性のエッセンスを混ぜ合わせて、彼女自身が独自につくりあげた、亡霊のような存在。たいていの女のなかには、そういう男の幽霊が棲んでいるものだ。しかしそれはたいてい、誰も知らない。本人がいちばん知らない。そして肉親も知らない。夫も気づかない。ところが不思議なことに、まったくの赤の他人の目には、はっきりと認識されることがある。ほんとうの秘密というものは白昼堂々、ひと目に晒されているものなのだ。人間の真実に限って言うならば。

この亡霊の姿がはっきり見えれば、その女をほとんど理解したと言っていい。
この見知らぬ男とうまくやっていけそうだと思ったならば、あなたはその女性と結婚したほうがいい。しかし、そう思わなければ、その結婚はやめておいたほうがいいかもしれない。これはとても重要なカギなのだ。

人格のすぐれた女性であるにもかかわらず、どこか狭量であったり、どこか人生観がゆがんでいたり、不安定だったり、なにか腑に落ちない、という感情を抱いたことはないだろうか。そんなときは周囲を見渡して、彼女にどのような男性が棲みついているかを嗅ぎつけるようにしたらいい。彼女の人格だけをいくら見つめても、見えてこないもののほうにカギがあるのだ。試みに、彼女がどんなふうに父親のことを語るかを、じっくり観察してみるのもいい。そこに彼女の男性観の影が見えてくるからだ。それが、からりと明るくて、暖かくて、ひろびろとしていれば、その女性は間違いがないだろう。女性の男性観はそのまま世界観や人生観に通じていく。


おなじことを男にも言うことができる。

たとえば、わたしは病いをかかえている。人格が縮小し、精神のエネルギーが衰弱し、まったく頭も体もうごかなくなる、という病いが高校生のころから始まった。そうしていまも、この病いに苦しんでいる。しかしあとになって分かったのだが、これはほんらい、父と母の病いだった。わたしが家を出たとたん、母はほとんど料理も何も手に付かなくなり、外に出るのもおっくうにになり、うつ病のような生活をするようになってしまった。父は急に胃潰瘍を患った。その意味を理解するまで、わたしは20年以上もの年月をかけなければならなかった。わたしはかれらの病いを生きているわけである。べつに親を恨むわけではない。わたしはかなり愛されて育ったから、なんの不満もない。

わたしの恋人たちは昔から、わたしのなかにそうした病いの片鱗を嗅ぎつけて、わたしの生活感の希薄さや、ときおり見せる影の薄さに不安を覚えた(こんなふうに言語化できるまでに相当な思索と苦悩を重ねている)。しかし彼女たちがわたしのなかに見ていたものは、母と父の姿だったのだと言っていい。彼女たちは、わたしが宿していた、いわば母親と父親のエッセンス、あるいは亡霊を見ていたのである。それはひとりの、できのわるい女性の姿をしているはずだ。質のわるい女性を宿す男は、やはり質がわるい。もちろんこれはわたし自身のことを言っている。たとえどんなに素晴らしい男性であったとしても、だめな女を宿している男は質がわるい。
おなじように、だめな男を宿している女性は、質がわるい。

こうしたことは、先祖伝来といっていいほどの長い歴史のなかで培われた、人間の未熟さ、ずるさ、おろかさ、などの性質から来ている。心がけのわるい先祖を持つと苦労するという警句は、こういう意味で真実なのだということを、わたしは40歳をすぎてやっと悟った。しかしこれは宗教家や占い師がかんたんな言葉でもっともらしく語るほど単純なものではない。こうしたことを単純化して語るものは、たぶんほとんど分かっていないのだと思ったほうがいい。わたしは知ったかぶりの宗教家と占い師をかなり憎んでいる。かれらのおかげでずいぶん遠回りをしたからだ。

かえすがえすも残念なのは、こんなにたいせつなことを理解し伝えてくれるような先達に出会わなかったということだ。この世の先達たちはほんとうに、口ほどのこともない。できそこないばかりだったのだと、すこしばかり恨みがましく思っている。女を女としてしか見ない、男を男としてしか見ないということは、まったく何も見ていないにひとしい。

そして、わたしはいまもいい年をして、こういう無駄なことばかり考えている。なんのために? あえてヒンドゥーの言葉をつかうならば、父と母のカルマを精算するためにやっているのだ。どうやらわたしは父と母の無意識と、その病いを生きることだけで人生の大半を終えようとしているらしいが、まあ世間ざらのことではある。しかし、この作業はもうすぐ終焉を迎えつつある。だからこうして文字に書き表すこともできる。