ものを視るということ(年末のごあいさつ)

2005-12-31 06:01:01 | Notebook
      
カネィギ・ダンさんという写真家がいて、眼が開いた瞬間に見えるものをずっと見続けているような写真を、撮り続けている。レンズに映った、最初の光。脳が際限のないお喋りを始める前の、静かな光景。そんな写真を数枚、つい昨日の夜、西瓜糖というギャラリーで観てきた。これまでのダンさんの写真も静かだったけれど、今年の作品はさらに静かだった。
静かな静かな写真を眺めながら、わたしは視るという行為について考えていた。

年の瀬の夜おそく、街はしんしんと冷えて、年末の透明感があった。ひっそりと瞑目する街のなかで、ギャラリーの白い光が、夜の海のなかの船のように浮かんでいた。


ひとの眼には制限があって、光をすべて見ているわけではない。耳がすべての音域を受けられないのとおなじように、眼は瞳から受ける情報をあらかじめ選択している。もちろん脳がそれをやっている。

わたしたちが見上げる空は、わたしたちが見ているとおりに存在しているわけではない。あの月は、海は、山は、ほんとうはまったく違った姿をしているはずなのだ。つまり、人間の眼は最初から真実を伝えていないということになる。脳の働きによって。

では、わたしたちの眼は何を伝えているのか、客体の姿を歪めてまで? 決まっているじゃないか、脳の働きを伝えているのだよ、と禅の世界ではいわれている。客体(見えるもの)は即ち主体(脳のはたらき)なり、という主張は、禅の世界では当たり前にいわれている。しかし、わたしのような説明をしたひとはあまりいないと思う。

わたしの眼にうつっているものが、そのまま、わたしの脳のしていることを見せている。

静かに、注意深く座り、ゆっくり眼を開ける。目の前のものに静かに注意を向ける。力を入れてはいけない。力を入れると脳が複雑な働きをするからだ。集中してはいけない。集中すると力がはいるからだ。それに集中しているとき、ひとは何も観ていないものだからだ。静かであれ。そのためには呼吸をふかく、ゆっくりする。
ゆっくり、見る。できるだけ意識をやすめて、心にお喋りをさせないようにしたほうがいい。だから眼を半眼にして瞬きをせず、視点を動かさないようにする。視点を動かすと脳が暴れ出すからだ。

その花の美しさを味わう。その色を、質感を味わう。その存在そのものを味わう。その空を、海を、味わう。美しさを、醜さを、味わう。空気を味わう。自分の呼吸を、味わう。
その行為は、そのまま、自分の脳がしていることを味わうことになる。

そのときひとは、知る。見えるものが自分であるということを。そして自分の脳がしていることを知るのは、自分自身について学ぶことであり、それはとてつもなく重要で、終わりがないのだということを。


ボルヘスがマリア・コダマさんに捧げた詩に「月」というのがある。とても短く美しい作品だ。

 その黄金は、ふかい孤独を宿している
 夜ごとに浮かぶ、あの月は
 最初の人アダムが、見た月ではない
 長いながい年月におよぶ、人々の不眠が
 年をへた涙で、月を満たしたのだ
 ごらん、あれは君の鏡だ


今夜おそく、夜の街は新年を迎える。

※写真は、カフェギャラリー西瓜糖のホームページからお借りしました。

ハッピーバースディ(矢野絢子さんの歌との出会い)

2005-12-25 03:34:50 | Notebook
                         
今日12月25日は矢野絢子さんの誕生日だ。

わたしの耳に彼女の歌が入ってきたのは、初夏のこと。蝉時雨のなか、ある神社の境内。ひんやりとした神木の根本で、ポケットのiPodから聴こえてきた。ニーナという歌だった。長い長い歌で、最初は意味がよく分からなかったし、自分とは関係のない歌だと思っていた。それがiPodのなかに入っていることさえ忘れていた。
しかしふいに、涙がこぼれた。なにが起きたのか分からなかった。
トレーシングペーパーの上からなぞった線が、ふいに透けて見えてきたような感覚だった。

わたしはそのころ、あるものを終わらせようとしていたのだった。神社の境内でそれを見つめていた。ながい年月をかけてやるはずだったことが思いがけず終焉をむかえ、つぎつぎと目の前で幕が下ろされていった。これまで続けてきたことが、いままでのやり方ではできなくなっていた。それなのに、なにをするにしても、わたしは何年も以前までさかのぼって、昔の自分を探し出してくる必要があった。わたしは自分自身にとってまったく時代遅れであり、引退すべきだった。なにか新しいものを探そうにも、手のひらには何もなかった。つぎのものはまだ何も始まっていなかった。わたしは途方に暮れていたのだ。
しかしその日突然に、なにかが始まったのだった。ニーナという歌のなかから。

それからわたしはその歌ばかり、来る日も来る日も、何十回も聴き返した。やがていろいろなことが分かってきた。
目の前の真実を見つめることについて。ほんとうに美しいものについて。時間を超えて存在するものについて。そのほか、いろいろ。どれもこれも、はるか昔に、わたしも考えていたことだった。しかし確かな視点を得ることができずに忘れ去られていたものだった。わたしは昔からずっと独りだったから師匠がいなかった。それがわたしの強さであり、弱さでもあった。確信をもつまでに時間がかかる原因でもあった。彼女の確信がたのもしかった。
彼女が歌のなかに吹き込んだものが、わたしのなかに眠っていたものを呼び覚ましてくれたのだ。それ以来、わたしの生の質が、まったくかわってしまった。それは懐かしい感覚だった。死んでしまったとおもっていたものが、目の前に立ち現れたようだった。

その20日後、わたしは高知市にいて、小さな小屋のなかで彼女のライヴを観ていた。びっくりするほど神聖な小屋だった。しかしその神聖さも予想どおりだった。
目の前で見る彼女は写真よりずっと綺麗だったけれど、とてもとても若い女性で、なんとまあ可愛らしい娘さんだろう、と思い、とまどってしまった。彼女の歌だけをたよりに、その小屋を訪ねていったのに、いい年をして娘さんに惹かれて観にいったひとみたいだなと感じて、恥ずかしかったのだ。
あなたのしていることが大好きなんですよ、と言うべきだったのだが、たとえ言ってみても正しく伝わらないような気がした。

その小屋で、ずいぶんいろいろなものを見た。とてもとても多くのものを。彼女の精神が育まれた背景をみたとおもった。
つぎの日に観た、その小屋の先輩歌手といわれている池マサトさんのライヴも素晴らしかった。ほとんどわたしとおなじ年なのに、あんなにきれいな目をした男性ははじめて見た。
池さんのライヴを見終えてからしばらくして、彼と矢野さんが、まったく似ていないのにもかかわらず、同じ地下茎をもった別々の花のようだったことに気づいて、あっ、と思った。

高知を離れるとき、白昼の太陽の下でその小屋の前に立ち、ふとカメラを向けて写真を撮ろうとしたが、やめた。あまりにも無垢で、はばかられたのだ。神聖さがとても無防備で、むきだしのままそこにあって、乱暴に写真を撮ることができなかったのだ。

彼女の、ソリダスターという歌のなかに、「おまえが咲かせた花を、いつかここへ持っておいで、約束しよう」という言葉があって、わたしはいま、自分が咲かせることのできる花についてかんがえている。
いや、それはきっともう目の前にある。じっと目をこらせばその輪郭が見えてくる。その眼を、ほかでもない彼女の歌が、そして池マサトさんの精神が、与えてくれたのだ。

わたしがもし100年後の人間だったとしても、彼らの音を聴けばおなじものを得ただろう。それにきっと、別の誰かが同じことをしているだろう。そのことがわたしを感動させた。

※写真:矢野絢子『窓の日』ジャケット

酒は、飲まないほうがいい(2)

2005-12-24 13:33:43 | Notebook
     
いまさら言うまでもないが酒や煙草はドラッグである。マリファナやアヘンとおなじように意識に変容をもたらす効果をもっている。意識の変容などというとピンとこないが、ようするに気分が変わるという効能をもっている。

この意識の変容にもいろいろなタイプがあって、なんとなくリラックスして気持ちよく落ち着いてくる(鎮静)タイプのドラッグと、元気がでてきて血の巡りがよくなり頭も冴えてくる、というタイプのドラッグ(興奮)がある。しかしこの効果には個人差もあって、たとえば酒を飲むことで鎮静するひとがいる一方で、やたらと元気が出て愉快になり独りで盛り上がっていくひともいる。まあおめでたいことである。

ここで注意しておきたいのは、ドラッグの恩恵により、意識がどれほどアップしようが、素晴らしいインスピレーションが湧いてこようが、見たこともない美女が目の前に降臨しようが、それは本人の脳が自力でやっているということである。ドラッグが作用しているけれども、その作用を受けて脳が自力でやっているのだ。この時点で脳は、そして人間の意識は、ある種の無理をしている。無理をして鎮静したり、無理をして盛り上がっているわけである。当然、ある種のエネルギーの消耗をしている。

そのツケは、ドラッグが切れるときにやってくる。それを一般に副作用という。たとえば、マリファナの副作用は脱力感といわれる。わたしは会ったことも見たこともないが、マリファナ常習者はまったりと幸福そうないい雰囲気をまとったひとが多い(らしい)が、あれは内面的なパラダイスに住んでいるわけではなくて、たんに脱力している状態を本人がリラックスと勘違いしている場合もある。その証拠に、かれらはちょっとしたストレスに弱くなる。精神力のある部分が副作用で摩耗しているので、一般的なストレスに耐えられなくなっている(のだそうである)。精神力の消耗・衰弱とリラックスはどう考えても両立するわけがない。本人は繊細で傷つきやすいボクと思っているかもしれないが、繊細さと衰弱は違う。衰弱して弱くなっているだけのことである。しぜんとかれらは面倒な社会を嫌い、ノンストレスなパラダイスを希求する。よく考えないで戦争反対、街に緑を、などと言い始める。

では酒、つまりアルコールの副作用は何かというと、嫌悪感といわれている。酒が抜けていくと、一種の自己嫌悪や不安感に陥るひとはよくいる。この嫌悪感や不安感が他者に投影されると、社会や他人にたいする嫌悪感となる。本人が知らないうちに、世の中を見る目が微妙に偏屈になっていったり、奇妙に煮詰まったものの考え方をするようになるのはこのためである。夕暮れ時、仕事を終えて家路につくサラリーマンの群れを見て、ああ、今日も平和でよかったなあと思えるひとはいいのだが、飲酒の習慣のあるひとはあまりそういう精神状態にはならない(飲んでいるときは違う)。こんなに無能なやつが大勢いて日本はどうなるのだろうとか、そんなしょうもない方向へ考えが向いていく。アル中の患者が、なんだか眉をひそめて気難しそうな顔をしているのは、なにも体調が悪くて気分がわるいからああなっているだけではなくて、アルコールの副作用のせいで、人生観が暗くなり、ものを見る目が極端に偏屈になっているだけのこともある。こうであらねばならない、絶対に、というような極端な文脈でしかものを考えられなくなったり、まだ仕事を覚えていない新入社員が未熟なのは当たり前なのに、それが気になってしかたなくなってきて、いらん小言をぶつぶつ言って周囲を不幸にしたりするような、迷惑な人格障害を引き起こす。自分がつめたい、嫌なやつになっていないか、飲酒の習慣のあるひとは振り返ってみる必要がある。また、あなたの上司が、とても優しいひとなのになぜか目は笑っていない、そんなコワイひとだったりしたら、飲酒の習慣がないか、あるいはニコチンにやられていないか、よく観察する必要がある。この社会にはそうした病人がうようよゴキブリのように歩きまわっていて、社会を不幸のどん底に陥れているのだと思って間違いない。

……おお、今日はクリスマス・イヴではないか。まさに、この良き日にふさわしい話題であった。
ぜひ、わたしの忠告を受け入れ、ノンドラッグで平和なイヴを過ごしていただきたいものだ。

酒は、飲まないほうがいい(1)

2005-12-23 01:36:05 | Notebook
   
わたしが花のように美しく可愛い紅顔の少年だったころ、ある美しい書物のなかで、さる粋人が酒の美学について語っていた。飲酒の作法や飲み方、酒の素晴らしさ、酒の歴史。すでに15歳にして日本酒の旨味を覚え、ビールの苦みを愛し、好きな食べ物といったら酒の肴みたいな料理や食材ばかりだった当時のわたしは、両親の心配をよそに、将来これから飲むであろう酒のかずかずに思いをいたし、小鼻と夢をふくらませていた。ワインって美味しいんだろうな。上等のスコッチって、どんな味がするんだろう。酒のある人生はなんと素晴らしいのだろう。

むかしから酒を讃美する書物は多く、酒を語る名文も多い。それらを探しだし目をさらすのに時間はかからないだろう。文豪と呼ばれるひとや、粋な作家たち。ランボーの詩のなかのビールのかおり。ボードレールの愛したアブサン。

わたしはほとんど酒浸りの半生をおくってきた。酒を飲んだこと以外に、この世で何をしてきたのか、あまり覚えていないくらいだ。20代で早くも脂肪肝をわずらい、それでも身体を騙しだまし、酒を絶やしたことはなかった。

そうやってさんざん飲んできて、いま言えることは、たったひとつ。
酒は、飲まないほうがいい。


まず、酒の作法とか、酒とのつきあい方とか、そういう綺麗事を言うやつは信用しないほうがいい。たいてい嘘だからである。
たとえば、適量を知りなさい、などと言うやつは、そもそも本気で酒を飲んでいない。酒に適量なんか、あるわけがない。これは飲んべえのたわごとであり幻想にすぎないのだ。ふだん酒を飲んでいれば、酒量はどんどん増えていく。しかし身体の耐久力は年々反比例して劣っていく。適量のラインがどこにあるかは、飲んで失敗して、はじめて気づくものである。しかもつねに変化している。だから適量を守るなどということが、そもそもできるはずはないのである。酒を飲むという行為自体が、飲み過ぎて後悔するという経験をかさねるに等しいのだ。

それから、ひとに迷惑をかけるな、などとほざくやつは、これまた本気で飲んだことがないか、よっぽど厚顔無恥で反省心が欠けているだけの人物である。信用するにあたいしない。じっさいに、飲み方にうるさいやつが酒場では嫌われ者だったり、もうすっかり飽きて帰りたがっている部下を相手に長話をして迷惑がられているのに何とも思わなかったり、その手合いである。ちゃんと反省しましょうね。

ただし、特殊体質のひともいないことはない。古い表現で言うと、うわばみみたいに、いくら飲んでもけろりとしている酒豪たちである。しかし、こういう酒豪たちは、やはり失敗するまで何トンも飲む。トラック1杯分、プール1杯分も飲んで、やっぱり失敗する。おなじことである。それにそもそも、こういう人種は酒代がかかってしょうがないので、気の毒なことに、めったに酔えない。いちばん酔いたい人種が、めったに酔えない。かわいそうなものである。


どんな麻薬中毒患者でもそうだが、中毒の度合いが酷いほど自覚が甘い。中瓶500mlもビールを飲んでおいて、さあもう1本、などと言うやつは、わたしに言わせればみな重度の中毒患者である。1リットルも飲んでどうするの? おいおい、もう適量は過ぎているよ。

というわけで、もしもあなたが下戸に生まれたのなら、それがいかに幸福なことかを知るべきである。ほんの少しなら飲める、というひとはなお素晴らしい。ちょっとだけ舐めて、あるいは1杯だけ。味を知ればそれでいい。それ以上に学ぶことや感動することなど、じつはほとんどないのである。飲酒というものは、中毒患者たちが言うほどのものではない。とるに足りないものなのである。


ただし、酒を飲む作法のようなものが、この世にまったくないというわけではない。
わたしの知るかぎり、たった1つだけある。それは別の機会に、あらためて語ろう。

易経とパラドックス

2005-12-20 20:56:29 | Notebook
   
中国の古典のひとつ、易経はおもに、占いの本として知られている。
この易経といささかでもつきあったことのあるひとならば、その奇妙さに気づくことだろう。
その本のなかでつねに起きているのは変化だからである。そしてその変化のなかでとくに目につくのはパラドックスだ。

易経のなかでは、容易に主体と客体が入れ替わる。被害者について占ったのに、加害者の暗示が出てくる、というようなことがよくある。まったく逆さまの意味が顕われるのだ。
それから、意味も容易に逆転する。遅れる夫は凶なり(遅れてはだめだ)という暗示が容易にそのまま、遅く行ったほうがいい、という意味をもつ。しかも頻繁に。まったく正反対の変化というものが、ほとんどいつも顕われてくるものなのである。
占い師はだから、その変化がどう動くかを注意深く見つめることになる。一見主体について語られているものが、客体についてのことなのかどうか、右から左へ動くという暗示が、いつ左から右へ、に変化するかどうかを、秘かに吟味する。山澤損(損をする)という暗示の意味が、風雷益(得をする)を含まないかどうかを見きわめる。そして、そのダイナミックな変化を、パラドックスを、目の当たりにすることになる。

占い師はこうして、事象のある本質を掴む。世界が、自我を中心には動いていないことを。現実は、その場によって成るものであって、その場に有るものはみな互いに変化し影響を与え合い、我と他の区別はないのだということを知るのである。損をしたものが同時に得をしているのだということを、知るのである。不幸には幸福がふくまれ、幸福には不幸がふくまれる。男性には女性が宿り、女性には男性が宿る。晴れた空には雨の精が宿り、雨のなかには晴れが宿る。加害者が同時に、被害者であることを。傷つけたものが同時に、ふかく傷ついているということを。聖者が本質的により多くの悪をふくむことを、恐ろしい祟り神が同時に優しい恩寵の神であることを、悟るのである。
この世がパラドックスに満ちていることを、占い師は知るのである。


ところで、すぐれた詩人の才能が、そのパラドックスを丸ごと掴み、表現してみせるという荒技をやってのけることがある。

アメリカのポップ歌手、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の作品「ジョーカーマン(Jokerman・1983年)」が何を歌ったものなのか、いまだに議論にけりがついていない。ここには聖なるものと邪悪なもののパラドックスが、ジョーカーというキーワードの周りで鮮やかに表現されている。ただし、本人がどこまでこれを認識しているかは分からない。こういう歌詞は無意識のちからによって書かれるものだからだ。本人の表層意識が説明を始めたとたん、まったく貧弱なことしか考えていなかった、ということが詩の場合にはよく起こるのである。朝食の歌をつくっているつもりが、祖先の霊を崇拝した歌に仕上がった、などということがよく起こる。おなじようにディランの「愚かな風(Idiot Wind・1974年)」は国民の怒りの歌だと、当時アレン・ギンズバーグから絶賛されたが、あれはもともと離婚の歌にすぎなかった。しかしギンズバーグが間違っていたわけではない。本人の無意識がやっていることを、本人の表層意識があんがい把握していないことは多い。だからわれわれにはこの歌を、本人の意図から離れて自由に議論する権利がある。

悪意に満ちていて、同時に美しく神聖な、ジョーカーマンとは何者なのか。神なのか、悪魔なのか、かれの精神なのか、という議論が続いている。わたしはそれらすべてが、かれの心の鏡に映ったまま歌われているのだと思っている。心について語る言葉がそのまま神を語っていることだってあるし、その逆もある。特筆すべきは彼の精神的態度であって、彼はそうしたパラドックスに素手で挑み、ぶつかり、苦しんでいる。そう、これは彼の信仰告白の歌である。しかも古今東西例を見ないほど生々しく、誠実で、美しい。彼は神を前に、苦しみ、悩み、崇拝し、あこがれている。それが神なのかどうかさえ疑いながらも。ジョーカーとしか呼びようがなかったのだろう。あるいは誰かが指摘したように、タロットカードのジョーカー(Fool)からイメージが広がっていったのかもしれない。つよい信仰心を示しながらも、まったく正気であり、誠実であり、まったく狂信的なところがないのも、特筆すべきである。
このことについてはべつの場で詳しく語りたい。話をもどそう。


さて、ボブ・ディランが歌にしてみせたように、人間の意識は、そして心に映し出されるこの世界はパラドックスに満ちている。これが人間の本質の一部なのだということ。易経はその瞬間に、存在そのものに、じかに切り込もうとする。

この真実に気づいたとき、占い師は占いを放棄する。占いが当たろうがはずれようが、どうでもよくなってくるのである。そんなことよりも、ある本質のようなものを考察するために、ものを見、考えるために、かれは易の卦を立てるようになる。

わたしはなにも高尚なことを言っているのではない。易経とつきあったことのあるひとなら誰でも、うすうす感得していることを、まっすぐに表現しているだけのことである。

耐震強度偽装事件で身につまされる

2005-12-20 00:57:55 | Notebook
  
今日はとても寒かった。東京ではこの朝はじめて氷点下の気温を記録した。12月でここまで寒くなるのは10年ぶりだそうだ。
ぶるぶる震えながら、最近のあの事件の被害者のことをかんがえていた。あのひとたち、この寒空の下でどうしてるのかな。

姉歯さんという一級建築士だったひとが、マンションやホテルの耐震強度計算を偽装していた事件が発覚してからもう1か月以上も経った。行きすぎたコストダウンを追求する建設会社の要求から、やむなく姉歯さんが鉄骨の本数を大幅に減らした建物を設計してしまい、それがそのままチェックを通ってしまい、現実に建物として建てられてしまい、そこにたくさんのひとの生活や仕事が携わってしまい、この年末の大問題になっている。
かわいそうに、新しい生活に夢をもって2か月前に引っ越しをした若い夫婦は子どもを連れてマンションを出なくてはいけないし、閉鎖されたホテルをおっぽり出されたひとは別の仕事を探さなくちゃいけない。
無茶苦茶なコストダウンを要求していた建設会社の実態や、その背景でそうした精神を吹き込んでいた経営コンサルタントの姿が浮き彫りにされたりして、誰にどのくらいの責任があるのか、という議論と調査がなされている。

最初はただ、ずいぶんひどいことをしたもんだと呆れていたわけだが、証人喚問で証言する姉歯元建築士の顔を見ているうちに、たいへん不謹慎な話かもしれないが、わたしは姉歯さんに同情してしまったのだ。被害者のみなさん、ごめんなさい。
なんと、かれの顔が、自分の顔に見えてきたのですよ(笑)。
身につまされたんですね。ようするに。

姉歯さんの、あの頼りない感じとか、繊細そうな雰囲気とか、ゆるんだ感じ。あの感じは、どことなく、わたしに似ているなあ、やだなあ、と思ったのでした。
それにわたしの目には、かれは内向的な人間に見える(内気という意味ではなく分析心理学で言われているところの内向です)。内向的な人間のもつ危うさのようなものが感じられて、そういうところも、わたしに似ているなあと思ったのでした。もしそうだとしたら、彼の言葉はかなり内向していて、現実とリンクしていないという危険もある。つまり彼の認識には誤解が多いということですね。だとしたら建設会社のひとたちは本当の被害者という可能性が大きくなる。

わたしは肉親や生活をすべて捨ててまでも、ああいう偽装を断る勇気をもっている。いつでも首をくくれる覚悟ができているからだ。自分の運命と仕事を信じているからだ。しかし、わたしのようなものは異常な人間であって、そうしないひとのほうが人間らしいと思う。わたしは姉歯さんを指さし糾弾するだけの無邪気さを持ち合わせていない。
なぜその偽装をことわって、事務所をたたんで、病気の妻といっしょに路頭に迷わなかったのですか、と言えるほどには単純じゃないし無邪気じゃない。
同じように、立場上やむをえず不正をはたらいているひとを、それだけでは何とも思わないし、かれらと友人にすら、なれる。いやな世の中に生まれてしまったね、としか言うことはない。

もちろん、いまわたしは、わざと話をねじまげてものを言っている。

いっぽう建設会社の社長と支店長だったひとたちや、経営コンサルタント会社の社長たちは、わたしとは別世界の人間だった。彼らの顔を見ているうちに、ああ、こんなふうなひとに何人も会ってきたなあと思ったのだ。

あの建設会社の元社長・元支店長のようなひとはたくさんいる。とても素朴で、善良で、平凡だったはずなのに、まったく想像力が欠けていて思想がないために、無茶苦茶なことを言うひとは、たくさんいる。ときには部下に対して、死ね、とまで言うひとだっている。じっさいに危険な現場に平気で部下を行かせるひとだってざらにいる。そこに凡百の経営コンサルタントが関わって、いらぬ智恵を吹き込みだすと、ろくなことがない。そうして潰れていった会社はたくさんある。

たった2万円のデザイン料金で、何十点もデザイン案を出させて、それを全部ボツにしたと見せかけておいて、あとでそれを生かして使っていた事務所もあった。べつに彼らが悪人だとは思っていない。たぶん想像力と、仕事への誇りというものを学ばずに来てしまっただけだと思う。逆にそういう立場にいたら、わたしも同じことをしていたかもしれない。ほとんど無料に近いデザイン料金で、多くの効果を上げているわけだから、担当者の評価もさぞ上がったのだろうと思う。しかしこういう会社は案外うだつが上がらない。仕事の芯が腐っていくからだ。

医者にかからずにガンが治る、という本をデザインしたとき、この本を読んで死ぬひとが出るだろうな、と思った。でも、わたしはその仕事を引き受けた。姉歯さんの場合とはだいぶ違う。著者と版元には責任があるが、デザインには責任がないと判断したからだ。しかし根っこにあるものは同じだ。担当編集者にはまったく想像力と誇りが欠けていた。しかしいいひとだった。
ちょうど同じころ、他でもないわたしの父が、胃ガンにかかった友人のところへいって同じような本を読ませ、医者にかからないほうがいいと説得したことがあった。その友人はやがてガンが悪化して死んでしまい、わたしの父は遺族の方々からたいへん恨まれている。

ひとは悪人と善人の間をいともたやすく行き来する。そのひとが善人であるか悪人であるかなんて、じつは本当の問題じゃないんだ。と言ったひとがいる。誰の言葉だったか思い出せないが、狂っていると思う。しかしいま、その狂った言葉を感慨深く思い出す。

日々PowerBookに向かいて……(ブログを始めるにあたって)

2005-12-19 02:05:53 | Notebook
     
むかしむかし、もう30年ほど前のこと、ヒッピーくずれの評論家みたいな人が人類の未来について語っていて、コンピュータは人間の脳に限りなく近づいていき、しかもそれが互いに結び合い、地球規模のネットワークになっていくのだと説いていた。そしてわれわれはみな地球規模でヴィジョンを共有する。そういう時代がやってくる。そんなことを書いていた。グローバル・ブレイン。インターネットやパーソナル・コンピュータの概念は、じつはずいぶん昔からすでにあったのだね。

アメリカの意識革命の時代の、波しぶき………。

その潮流はやがて日本にもやってきて、わたしたちのお兄さんたちの世代は、本気でインドに何かがあると思って片道切符で旅立っていったり、ヨガや禅をやってみたり、田舎暮らしをやってみたり、社会をドロップアウトしたり、へんな宗教にかぶれたり、ビートルズのジョージみたいにハレ・クリシュナを崇拝してみたり、修行のつもりで真剣に麻薬を試してみたり、呪術師の弟子になったりしていた。騒々しい時代だった。そういえばジョン・レノンも、あるセラピストの影響をうけて意識体験をいろいろしていた。「マザー」や「神」の歌詞は、あきらかにセラピーか精神分析の影響を受けて生まれたものだ。

20歳のころのわたしは、そういう怪しい先達たちと出会うところから人生を始めた。だからはじめから、いい学校を出てお金を儲けるとか、そういう人生観とは無縁だった。仏教について読み、運命学をやり、禅や精神分析についてかんがえていた。瞑想をして玄米菜食をやっていた。朝から晩まで、宗教や意識について友と語っていた。

でもそのころの日本は物質的に豊かな国を目指してまっしぐらの時代だったから、そうした社会のアウトサイダーたちの思想はちょっと苦しいところがあった。よけいなことを考えているひまがあったら、さっさと就職してお金儲けに専念したほうが幸せでは? そのとおりだった。それに、朝から晩まで働きづめだったサラリーマンたちのほうが、意識が狭くてセンスの悪いひともいたが、それでもちゃんと現実に関わっていたし、正しかった。

いっぽうドロップアウト組のなかには、とても素晴らしいひとがたくさんいたけれど、たいていは(わたしもそうだけど)たんなる怠け者だったり、人格に問題があって社会に参加できないひとたちだった。わたしはやがて、偉そうに大きな理想は語るけれど何もできないヒッピーのひとたちが嫌いになってしまった。たぶん自己嫌悪だったのだろう。その後遺症からか、安易なエコロジーとか地球意識とか、ガイアとかグローバルとか精神世界とか、そういうたぐいの話を声高に語るひとを信用しなくなってしまった。じっさい、安易でなくマトモなひとは、ドロップアウトしていないほうに多くいた。彼らは、じっくりものを考え、静かに行動していた。

やがて意識革命の波はひいていったが、そのなかからアップルコンピュータが生まれ、パーソナル・コンピュータが生まれ、それがやがて世界へと広がっていった。パソコンというものが、カウンターカルチャーの潮流のなかから生まれてきたという事実が、わたしにとってはすこぶる面白い。旧マックOSなんて、見るひとが見れば分かるだろうが、あの時代の潮流そのもののセンスをしている。アップル創立メンバーで現在CEOの、スティーブ・ジョブズのあの胡散臭さと精神性の二面性は、そのままヒッピー文化とかホール・アース・カタログとか、そういうたぐいの文化の二面性に続いている。………えっ? ウインドウズはどうかって? ばかを言っちゃいけない。語るに落ちるというものだよ。

そうしていま、わたしは静かな部屋のなかで、PowerBookに向かってこれを書いている。今日急に思い立ってブログを始めた。なんだか時代のいちばん隅っこで、ぶつぶつ独り言を言っている老人のような気分だよ。じっさいにそんなものかもしれない。
人生はおもしろい。それに果物のように豊かで薫り高い。