カネィギ・ダンさんという写真家がいて、眼が開いた瞬間に見えるものをずっと見続けているような写真を、撮り続けている。レンズに映った、最初の光。脳が際限のないお喋りを始める前の、静かな光景。そんな写真を数枚、つい昨日の夜、西瓜糖というギャラリーで観てきた。これまでのダンさんの写真も静かだったけれど、今年の作品はさらに静かだった。
静かな静かな写真を眺めながら、わたしは視るという行為について考えていた。
年の瀬の夜おそく、街はしんしんと冷えて、年末の透明感があった。ひっそりと瞑目する街のなかで、ギャラリーの白い光が、夜の海のなかの船のように浮かんでいた。
ひとの眼には制限があって、光をすべて見ているわけではない。耳がすべての音域を受けられないのとおなじように、眼は瞳から受ける情報をあらかじめ選択している。もちろん脳がそれをやっている。
わたしたちが見上げる空は、わたしたちが見ているとおりに存在しているわけではない。あの月は、海は、山は、ほんとうはまったく違った姿をしているはずなのだ。つまり、人間の眼は最初から真実を伝えていないということになる。脳の働きによって。
では、わたしたちの眼は何を伝えているのか、客体の姿を歪めてまで? 決まっているじゃないか、脳の働きを伝えているのだよ、と禅の世界ではいわれている。客体(見えるもの)は即ち主体(脳のはたらき)なり、という主張は、禅の世界では当たり前にいわれている。しかし、わたしのような説明をしたひとはあまりいないと思う。
わたしの眼にうつっているものが、そのまま、わたしの脳のしていることを見せている。
静かに、注意深く座り、ゆっくり眼を開ける。目の前のものに静かに注意を向ける。力を入れてはいけない。力を入れると脳が複雑な働きをするからだ。集中してはいけない。集中すると力がはいるからだ。それに集中しているとき、ひとは何も観ていないものだからだ。静かであれ。そのためには呼吸をふかく、ゆっくりする。
ゆっくり、見る。できるだけ意識をやすめて、心にお喋りをさせないようにしたほうがいい。だから眼を半眼にして瞬きをせず、視点を動かさないようにする。視点を動かすと脳が暴れ出すからだ。
その花の美しさを味わう。その色を、質感を味わう。その存在そのものを味わう。その空を、海を、味わう。美しさを、醜さを、味わう。空気を味わう。自分の呼吸を、味わう。
その行為は、そのまま、自分の脳がしていることを味わうことになる。
そのときひとは、知る。見えるものが自分であるということを。そして自分の脳がしていることを知るのは、自分自身について学ぶことであり、それはとてつもなく重要で、終わりがないのだということを。
ボルヘスがマリア・コダマさんに捧げた詩に「月」というのがある。とても短く美しい作品だ。
その黄金は、ふかい孤独を宿している
夜ごとに浮かぶ、あの月は
最初の人アダムが、見た月ではない
長いながい年月におよぶ、人々の不眠が
年をへた涙で、月を満たしたのだ
ごらん、あれは君の鏡だ
今夜おそく、夜の街は新年を迎える。
※写真は、カフェギャラリー西瓜糖のホームページからお借りしました。