再三すれば汚る

2009-10-21 00:30:38 | Notebook
     
つい先週のこと、あるひとがイタリア旅行から帰ってきて、こんなことを言った。

「厄払いの旅でしたよ。
僕は自分の文学作品のなかで、夢の世界にかかわりすぎていたんだ。それをいったん清めるためにイタリアへ行ったようなものでした。
僕は向こうの文化のなかで自分をつくってきた。だからイタリアは自分と精神そのものでもあります。その土地を巡ることで、僕は厄払いをしたんですね。
しかし、これでもう大丈夫。ひとつの円環が閉じられたような気持ちです」

だしぬけにこんなことを言われたら、ふつうは面食らうのかもしれない。しかしわたしは、その方が何をおっしゃっているかよく理解できたので、すぐにこういう話をした。

「『易経』のなかに『再三すれば汚る』という言葉があるんです。
それはたしか『山水蒙』という卦のなかにある言葉なんですが……」

彼は「易経」にはまったく興味を示さなかったが、
「サイサンスレバケガル」
という言葉の音に惹かれたようだった。

「……『再三すれば汚る』というのは、ふつうは、『おなじ質問を、繰り返し占ってはいけない』という意味です。
くよくよ迷って、おなじ問題について何度も占ってしまっては、易が汚れてしまう。そんなふうな意味です。じっさい、易の解説書をみるとそう書かれてあるし、占い師たちもそう解釈しています。

しかし、わたしは、これは違う意味なんじゃないかと思っているんです。

これは、ちょっと飛躍して言えば『夢を濫用してはいけない』ということなんですよ。

占いをする行為は、ようするに自分の無意識を覗き込むことです。この無意識を覗き込むということは、危険なことでもあります。つまりは濫用してはいけないんです。無意識を濫用すること、それはそのまま『汚れ』なんですよ。

わたしは、この『再三すれば汚る』というのは、ほんとうはこの問題について警告しているんじゃないかと思っているんです。実感として。

だって、子供じゃあるまいし、『おなじ問題を何度も占ってはいけませんよ』なんて、変じゃありませんか。わざわざそんな幼稚なことを『易経』が警告するものでしょうか。またそれを、文字どおり受け取って信じるというのは、いかがなものでしょう。

夢を濫用すること、それは汚れなんです。たぶん、この問題について、こういうふうに表現する占い師はすくないでしょうけれども、わたしはずっと以前から、こういうふうに思っているんです」

その方は、最初はすこし戸惑っておられたが、わたしの話の意図を察してくださったようだった。

そしてふかく頷き、古い革製の鞄から、ひらりと手帳を取り出してペンをとった。
「ええと、『サイサンスレバケガル』でしたね、再三、それからケガレは穢れでいいんですか、どう書くのでしょう?」

文体というメガネ

2009-10-07 01:05:26 | Notebook
     
かなり以前のことになるけれども、さる著名な整体師の本を読んでいたら、
「風邪をひいたときは風呂に入ったほうがいい」
というようなことが書かれてあった。

感心したわたしは、風邪をひいたときにこの言葉を思い出し、さっそく風呂に入ってみた。すると次の日には体調が改善し、2日ほどのうちに治ってしまった(そのあとまた、ぶり返したような気もするがよく思いだせない)。

ところが風呂に入っていたときに、わたしがぼんやりとかんがえていたのは、まったく意外なことで、
「これは、まんまと騙されたということだなあ」
という感想だった。

「風邪をひいたときには風呂に入ったほうがいい」と言おうが、
「風邪をひいたときには風呂に入らないほうがいい」と言おうが、
どちらも正しい。
どちらも、それなりに根拠(のようなもの)があって、それなりに場と条件に合うことがあるだろうし、合わない場合だってあるだろう。
そんなあたりまえのことに、あらためて気づいたということだった。

風邪にはアイスクリームが効くという場合もあるだろうし、アイスクリームが体を冷やし、弱った胃を荒らしてしまうことだってあるだろう。

風邪ぐらいで横になっていないで、働いたほうがいいと言っても正しいし、いやゆっくり休養をとったほうがいいと言っても正しいだろう。

そもそも、体は海のように深く広く、深淵なものなので、ひとつの文体で把握すること自体がナンセンスなのだということなのだろう。

海は蒼い。海は碧色。海は灰色。海は水色。海は白い。海はまぶしい。海は暗い。……どれも当たっているように、体について何を言ったところで、どうせ当たらずといえども遠からず。そんなものではないか。

このごろのお医者さんたちは、かならずしも「風邪をひいたときには風呂に入らないほうがいい」とは言わないのだそうだ。その根拠は、「入ったほうがいい場合もある」ということらしい。

昔のお医者さんは、みな一様に「入らないほうがいい」と言っていた。広くそう信じられていたからだ。つまり、悪い言い方で恐縮するが、いまのお医者さんにくらべると、むかしのお医者さんのほうが「風邪と風呂の関係」についてはすこしだけ「無知」だったということになる。

むかしのお医者さんが、あえて強く「入らないほうがいい」と指導していたのは、ようするに無知だったということであって、悪気があったわけではない。これがいまのお医者さんによる指導だとしたら、ウソをついているということになってしまう。

その整体師も無知だったのかもしれない。真相は分からない。しかし、わたしは根性がひねているので、その整体師は何もかも分かっていたにちがいない、という印象をもったのだった。彼の信者たちが、これを金科玉条のように受けとめ、ますます彼に依存するであろうことまでお見通しだったに違いない。そう感じてしまったのだった。どちらにせよ、わたしは、うっかり自分の体を、わけのわからない薄っぺらな文体に預けてしまっていたのだ。

これまで正体不明の「健康」やら「自然」やら「ノンストレス」やら「無農薬」、「玄米で病気が治る」、「癒し」、はては「母なる地球」などの、あふれるばかりの粗末な文体に、くりかえし自分を預けてしまってきたように。生まれてこのかた何十年も、こんな軽薄なことばかりやって生きてきたような気がする。