最高の拍手を!(年末年始のごあいさつ)

2006-12-31 10:03:08 | Notebook
      
ライヴ会場での演奏会へ足を運んでいて、あらためて気づいたことがある。気づいた、と言っても、それはわたしが今さら気づいたというだけのことで、とうの昔からご存じの方は、きっと大勢いらっしゃると思う。

それは、拍手について。

音楽をつくったり、演奏したりするひとにとって、拍手は「音楽の成就」を意味するのですね。わたしは最近まで気づきませんでした。うかつでしたね。

たとえば、独りの部屋で、作詞をする、作曲をする、演奏の練習をする。そこで自分の心と技のなかから、いいものを叩き出して形にしていく。
音楽そのものは、その孤独な作業のなかで完成しているわけです、いうなれば。いままでわたしは、その完成された音楽を披露する場が会場なのだと思っていた。そして、その音楽に感動したひとは拍手をするし、うんざりしたひとはブーイングをする。そんなものだと思っていた。

でも、ちょっと違うのですね。
音楽は、ひとの耳にとどいて共有されたとき、はじめて音楽になる。音楽にはそういう成立の仕方もある。というより、その成立の仕方のほうが古くて本当なんですね。そして、耳と胸で受け止めたひとは、その音に対して拍手という音で返事をする。このとき音楽は聴き手との間で共有され「成就」するわけです。うーん、言葉で説明すると堅いですねえ。

歌手の矢野絢子さんが、なにかのエッセイのなかで「最高の拍手を」と書いておられたことがある。
それを読んだとき、わたしは「披露された音楽が良ければ、黙っていても最高の拍手が与えられるだろうし、そうでなければ、お義理の拍手になるだろうし、なんだか無駄なことを言っているなあ」と思った。
しかし、そうではなかったのですね。
拍手することは、音楽の成立を共有するということ。音楽の「成就」に参加するということ。

そう思い至ってから、あれこれ考えていて気づいたのですが、拍手で成立するなんて、すごく素敵な芸術ではないでしょうか。とても精神的で、美しくて、人間らしい。
ほかには、こういう芸術は、ありそうで、ないんですね。

文学や絵画や、建築などは、そういうものではない。もうすこし違ったかたちで「成就」するものです。映画もちょっと違う。映画館で拍手が湧き起こるという素晴らしい瞬間もあるけれど、あれは音楽の「成就」のしかたとはちょっと違う。演劇は近いかもしれない。しかし、すこし違うような気がする。
精神から精神へと、じかに共鳴しあうような醍醐味。それは音楽特有のものかもしれない。

というようなことを、先日、河村悟さんという詩人のかたにお会いしたときに話したら、
「それは、まだみなさん気づいていないのではないですか」
とおっしゃった。しかしわたしはこう言った。
「いえ、たぶん演奏家の方々は知っていると思うんです。成就という言葉で表現しているかどうかはべつとして、会場で拍手を受けた瞬間に、その成就を体験しているはずですよ」
すると河村さんは、ふかくうなずいて、こうおっしゃった。
「拍手は浄化でもありますね」
なるほど、たしかに浄化でもある。とても日本的な考え方だ。

そして、拍手は「柏手」でもある。かしわで。神社でパンパンとやる、あれですね。二礼二拍手一礼。わたしたちは初詣のとき、年の節目に柏手を打つことで、往く年と来る年を浄化しているのかもしれません。

というわけで、この一年の出来不出来はともかく、行く年へむけて、そして新しい年へむけて、
「最高の拍手を!」

焼きの入った優しさ

2006-12-20 02:03:45 | Notebook
    
優しさには、強い優しさと弱い優しさの二種類がある。

弱い優しさは、あてにならない。それはちょっとした余興みたいなもので、気分であり、気まぐれであり、信用できない。本人でさえ信用していないだろう。ときに美しいけれど、はかない子供の優しさ。そういう優しさならば、世間のどこでも、いくらでも見ることができる。

もうすこし成熟した人格は、優しさの基盤に強さを据えるようになってくる。こうしてひとは、ほんとうの優しさを探求し学び始める。どう優しくあるべきか、どう優しくすべきかという問題は、生涯にわたって、本人が自らの胸に問いかけつづけるだけの値打ちのある質問だ。

たとえば、そのひとがもつ優しさの質をみると、そのひとの強さの質がみえてくる。

空威張りの、怒りっぽく子供じみた強さなのか。
偏狭な思いこみから来た強さなのか。
自己満足のための強さなのか。
良心に気兼ねをしているだけの強さなのか。
社会のなかでの役割に我を忘れた強さなのか。
仕事に死んだひとがもつ演劇的な強さなのか。
こころを閉じた強さなのか。
依頼心から来る強さなのか。

優しさを養うためには、その「強さ」に焼きを入れなくてはいけない。焼きの入った優しさ。それをあるひとは「苦労人の優しさ」と思うかもしれないし、あるひとは「親や英雄を乗り越えた優しさ」と言うかもしれない。あるいは「しっかりとした社会人の、見識のある優しさ」というイメージで捉えるかもしれない。「子育てを知った母親の優しさ」と言うひともいるかもしれない。
いずれにせよ、そのひとの人格がどれだけ健全で、まっすぐに大きく成熟しているかが優しさの質を決めるのだろう。わたしがそれを自分のなかにみることのできる日が来ればいいのだが。

尊敬に足る優しさ。
筋金入りの信念からくる優しさ。
深い洞察からきた優しさ。
大きな優しさ。

青春と老い

2006-12-02 05:27:46 | Notebook
    
青年の未熟さと受難。

世界にまるごと素手で立ち向かおうとする青年の受難。
炎をじかに口に入れて呑み込もうとする未熟さ。

しかしその未熟さが、その受難が、いまのわたしには必要だ。
あの青年の尊い精神が、いまのわたしには必要だ。

太陽をじかに、まっすぐ見据えて眼を損なう愚かさ。
月があたえたものを、まるごと持ち帰ろうとする無謀さ。

おまえはすべて間違っていたんだぞと警告する声。
あのきれいな恋は、あの無垢は、欺瞞に満ちていたんだぞと責め立てる声。
社会で汚されるよりも前から、すでに汚辱にまみれていたんだと告発する声。
おまえは死人よりも汚らわしいと、真実をつげる声。

若者の宝石は、若者には見えない。その強い薬は、ほとんど毒にしかならない。
しかし、それがわたしたちにこそ必要なのだということに、気づく時に辿り着いておきながら、それを見つめる大人も見当たらない。
本人が言うほどのこともない大安売りの経験や体験。
キャッシュカードと、玩具みたいな人生。

わたしの仲間はみな途方にくれて、街をさまよい歩いている。
ぜんぶ背負うのは難しい。醜い真実の顔をはっきり描くのは難しい。
ねえボウヤたち、オジサンにはボウヤたちの愚かな精神が必要なんだ。

罪をぜんぶ背負うのは難しい。それができる人間はいない。
しかし、すべてを背負わない罪人には、罪人の資格がない。
償うことのできる罪、許される罪は、罪とはいわない。

わたしたちの年齢では、ある扉に辿り着く。
その扉を開くためには、きみたちの精神が必要だ。
しかしそれを開くのは、とても難しいことなんだ。ほとんど誰もが、失敗している。
その失敗は、やがてくる死を呪い始める。

わたしはノートパソコンをかかえて、かんがえながら、見つめながら街を歩きまわる。
どこかへ置いてきてしまった青年の精神を探して、きたない新宿の路地裏を歩きまわる。