書籍のレイアウトでも、装丁の場合にしても、こちらはかなり綿密なイメージトレーニングをしてからデザインをつくる。仕事の流れによっては、かなりかちっと堅めのレイアウトにする。ときには左ページと右ページが入れ替わっても大丈夫なフォーマットをつくる。このごろは、緩急や流れを考えてページデザインをつくるひとは少なくなったが、いまでもそういう仕事をするひともいる。全体のなかでアクセントをどうするか、ページによる演出をどう変えるか、イメージの流れをどうするか、視線の流れをどうかんがえるか、どこでリードを読ませるか、プランを立てていく。これは判型によってまったく正反対の手法をとる場合もある。A5の本と四六判ではまったく違うこともある。
そういうわたしの方の苦心を、じつは理解してもらおうとは思っていない。説明してくださいと言われたら、かえって困る。何日もかけてデザインの講義をしなくてはならないからだ。そんなヒマはない。
それにわたしだって、いつもチャレンジする気持ちを忘れたくないから、自分のアイデアだけで本を作りたいとは思わない。スタッフにもアイデアを出してほしい。それに、自分にはなかったような考え方に出会うと感動する。気持ちを開いていれば、それなりに発見というものがあるものだ。それがまたわたしの仕事にも反映されて、すこしずつ変化していく。わたしのプランを活かしながら、それに手を加えて、さらに良いものにしてくれるようなアイデアがあれば、喜んで変更だってする。
むかしむかし、わたしがまだ編集者だったころは、明朝で組まれた本のなかに小見出しをゴシックで入れる場合、そのゴシックは本文より一回り小さく入れていた。本文とおなじ大きさも、大きく入れることも考えられない。そんな本は下品だと思っていた。それから、本のなかに図版が入るときは、その図版のなかでメインにする文字の大きさは、本文より一回り小さくする。図版のなかの文字がバラバラだったり、本文より大きい文字をつかっていたりしたら、ずいぶん甘い制作をしているものだと呆れていた。いまのわたしは、あえて逆の作り方に挑戦することがある。
それから縦組みの本で、本文を13級(文字によるけど3ミリくらい)で組むときは、行間をどうとるか。この議論はずいぶん繰り返したもので、けっきょくいちばん洗練されているのは、やはり最もベーシックな、行送り21歯(文字によるけど、行間で言うならば2~3ミリくらい)とかんがえた。いまでもわたしのフォーマットはこれが基準になっている。中ゴシック12級で横組みのコラムの場合は行送り18歯にして密度を濃いめにするとか、そんなことをもうずいぶん長いあいだ考え続けてきた。
しかし、あたりまえだけど、まったく正反対の考えをもつ編集者もいる。ある年輩のベテラン編集者と出会って、わたしとまったく正反対の本づくりを見せられて感心した覚えがある。ときには本文より大きい文字で図版をつくり、でっかい文字で小見出しを立てる。まだ駆け出しだったわたしは仰天したが、それでも、そのひとなりの考えというものが、よく見えたものだった。長年よく考えられてつくられているスタイルは、やはり見れば分かるものなのである。そして、そういうひとは、やはり、自分と違うスタイルを理解する頭ももっている。彼はすぐに、わたしの考えとスタイルを理解してくれたし採用してくれた。やり方がまったく違うのに、理解できる。そうしてすぐに採用できる。そういうものだ。
ところが、まったく融通が利かないタイプの人種もいる。自分のなかに構築されたスタイルから、一歩も出られないひと。そういうタイプの人種に共通するのは、仕事のレベルが趣味の領域で止まっているということだ。だからレイアウトのことなどはなから理解できていないし、好き嫌いと前例でしかものを見られない。書籍の表現というものは、じつはもっとずっと自由なものだ。いまわたしの頭のなかにあるプランを見せたら、たぶんみんなびっくりすることだろう。しかしきっとみんなついて来られないし理解できないだろうから、いつも黙っている。
小さな小さな趣味の世界で仕事をしているひとにかぎって、「それはうちのスタイルじゃない」とか「このデザインではうちは困る」などと言う。ひどい場合は「こういうのは好きじゃない」と言われることもある。デザイナーはみな好き嫌いで仕事をしているものだと思っているらしい。こういう趣味の世界を何年やっていても、まったく進歩することはない。それに斬新なアイデアを目にすると理解できず怖がる。そのアイデアのなかに、長年の議論や思索があることにさえ気づかない。そうしてだんだん、なんだか不幸な顔つきになっていく。仕事にうんざりしたひとのような顔つきになってくる。さぞ退屈なことだろう。
これはきっと、どんな仕事でもそうだが、打ち込んでいるひとは変化する。いままでやったことのない方法を試したがる。そういうものだと思う。
打ち込んでいれば、発見がある。だから変化する。逆に言えば、変化しないひとは発見していない。発見がないということは、本気で打ち込んでいないということだ。