変わること、変わらないこと

2007-04-22 20:59:42 | Notebook
     
書籍のレイアウトでも、装丁の場合にしても、こちらはかなり綿密なイメージトレーニングをしてからデザインをつくる。仕事の流れによっては、かなりかちっと堅めのレイアウトにする。ときには左ページと右ページが入れ替わっても大丈夫なフォーマットをつくる。このごろは、緩急や流れを考えてページデザインをつくるひとは少なくなったが、いまでもそういう仕事をするひともいる。全体のなかでアクセントをどうするか、ページによる演出をどう変えるか、イメージの流れをどうするか、視線の流れをどうかんがえるか、どこでリードを読ませるか、プランを立てていく。これは判型によってまったく正反対の手法をとる場合もある。A5の本と四六判ではまったく違うこともある。

そういうわたしの方の苦心を、じつは理解してもらおうとは思っていない。説明してくださいと言われたら、かえって困る。何日もかけてデザインの講義をしなくてはならないからだ。そんなヒマはない。

それにわたしだって、いつもチャレンジする気持ちを忘れたくないから、自分のアイデアだけで本を作りたいとは思わない。スタッフにもアイデアを出してほしい。それに、自分にはなかったような考え方に出会うと感動する。気持ちを開いていれば、それなりに発見というものがあるものだ。それがまたわたしの仕事にも反映されて、すこしずつ変化していく。わたしのプランを活かしながら、それに手を加えて、さらに良いものにしてくれるようなアイデアがあれば、喜んで変更だってする。

むかしむかし、わたしがまだ編集者だったころは、明朝で組まれた本のなかに小見出しをゴシックで入れる場合、そのゴシックは本文より一回り小さく入れていた。本文とおなじ大きさも、大きく入れることも考えられない。そんな本は下品だと思っていた。それから、本のなかに図版が入るときは、その図版のなかでメインにする文字の大きさは、本文より一回り小さくする。図版のなかの文字がバラバラだったり、本文より大きい文字をつかっていたりしたら、ずいぶん甘い制作をしているものだと呆れていた。いまのわたしは、あえて逆の作り方に挑戦することがある。
それから縦組みの本で、本文を13級(文字によるけど3ミリくらい)で組むときは、行間をどうとるか。この議論はずいぶん繰り返したもので、けっきょくいちばん洗練されているのは、やはり最もベーシックな、行送り21歯(文字によるけど、行間で言うならば2~3ミリくらい)とかんがえた。いまでもわたしのフォーマットはこれが基準になっている。中ゴシック12級で横組みのコラムの場合は行送り18歯にして密度を濃いめにするとか、そんなことをもうずいぶん長いあいだ考え続けてきた。

しかし、あたりまえだけど、まったく正反対の考えをもつ編集者もいる。ある年輩のベテラン編集者と出会って、わたしとまったく正反対の本づくりを見せられて感心した覚えがある。ときには本文より大きい文字で図版をつくり、でっかい文字で小見出しを立てる。まだ駆け出しだったわたしは仰天したが、それでも、そのひとなりの考えというものが、よく見えたものだった。長年よく考えられてつくられているスタイルは、やはり見れば分かるものなのである。そして、そういうひとは、やはり、自分と違うスタイルを理解する頭ももっている。彼はすぐに、わたしの考えとスタイルを理解してくれたし採用してくれた。やり方がまったく違うのに、理解できる。そうしてすぐに採用できる。そういうものだ。

ところが、まったく融通が利かないタイプの人種もいる。自分のなかに構築されたスタイルから、一歩も出られないひと。そういうタイプの人種に共通するのは、仕事のレベルが趣味の領域で止まっているということだ。だからレイアウトのことなどはなから理解できていないし、好き嫌いと前例でしかものを見られない。書籍の表現というものは、じつはもっとずっと自由なものだ。いまわたしの頭のなかにあるプランを見せたら、たぶんみんなびっくりすることだろう。しかしきっとみんなついて来られないし理解できないだろうから、いつも黙っている。

小さな小さな趣味の世界で仕事をしているひとにかぎって、「それはうちのスタイルじゃない」とか「このデザインではうちは困る」などと言う。ひどい場合は「こういうのは好きじゃない」と言われることもある。デザイナーはみな好き嫌いで仕事をしているものだと思っているらしい。こういう趣味の世界を何年やっていても、まったく進歩することはない。それに斬新なアイデアを目にすると理解できず怖がる。そのアイデアのなかに、長年の議論や思索があることにさえ気づかない。そうしてだんだん、なんだか不幸な顔つきになっていく。仕事にうんざりしたひとのような顔つきになってくる。さぞ退屈なことだろう。

これはきっと、どんな仕事でもそうだが、打ち込んでいるひとは変化する。いままでやったことのない方法を試したがる。そういうものだと思う。
打ち込んでいれば、発見がある。だから変化する。逆に言えば、変化しないひとは発見していない。発見がないということは、本気で打ち込んでいないということだ。

インスピレーション

2007-04-18 12:01:49 | Notebook
     
インスピレーション。瞬時にいろいろなことを嗅ぎわける能力のようなもの。それはどこから来るのだろう。いつも不思議におもう。とても不思議なものだから、わたしはそれを神秘的な現象だと感じる。しかし神秘はこちらがそう感じているだけのことで、じっさいはなにかべつのことが起きている。神秘のなかにリアルはない。

ところでわたしは、手軽な易経占いを無料で公開しているあるホームページを利用して、ワンクリックで占いをして遊ぶことがある。いちいち卦を立ててやるのが面倒なので、ついワンクリック。なんとふまじめな占い師であろうか。

つい先週のこと、こんな出来事があった。
あるクライアントから昼ごろに電話があり、わたしが宅急便で届けた書類に不備があるという。確かにぜんぶ耳を揃えて送ったはずなのに、一部届いていないものがあるとのことだ。急を要する内容なので、さっそく仕事場にもどって探してみたが、見つからない。1時間さがしても、2時間さがしても、見つからない。まったく途方に暮れてひと休みしているときに、なにげなく易経のサイトをひらいて、戯れにワンクリックで占ってみた。書類はどこにあるのだろう? ひょっとしたら捨ててしまったのだろうか。するとこんな答えが出た。
「震為雷から風火家人」
まず震為雷。そして変爻がかなり多く、風火家人へと変化する。

易占いでまずたいせつなのは、いきなり意味を読むのではなく、自分がそれをどう感じるか。まずはじぶんの胸に訊いてみることだ。わたしはぼんやりと、出た答えを眺めていた。やがて胸のなかから浮かびあがってくるものがあった。

震為雷には「声あって姿なし」というような意味があって、それがまずわたしのなかに浮かんできた。なるほど、失せ物の占いにぴったりではないか。しかしそのあとに続いてわたしのなかに浮かんできた意味は「見かけほどじゃない」「こけおどし」という震為雷のもつ別の意味だった。それから、明るいイメージがあった。

そうして、なんとなくわたしは安堵した。いま目の前で起きている問題は、見かけほどのことはない。実体もない。だから最悪の事態はまぬかれそうだ。書類をごみと間違えて捨ててしまったわけではなさそうだ。そうおもった。

じっさいのところは、かなり最悪の事態を「震為雷」から読み取ることだってできるはずなのだが、わたしはなぜかここで安堵してしまったわけだ。「ほっ」としてしまった。これがインスピレーションなのである。

震為雷という卦には、膨大な意味がある。そのなかから、ひとつの暗示をひろいあげるのはいつも、こちらのインスピレーションなのだ。
このことを「占いはそれじたいが当たるのではなく、占い師が当てているのだ」というひとがいる。しかしそう言い切ってしまうと、いま「震為雷」が出てきていることの説明がつかない。

さて、その震為雷が変化して風火家人となる。

風火家人とは、「家のなかや家族の問題に注意せよ」という意味だ。わたしはこれを見たとき、なんだか「ふだんから部屋をきたなくしているから、こういうことが起きるのじゃ」と叱られたような気分になった。やれやれ。
しかし、「家」「家族」とはこの場合、仕事のスタッフのことだ。スタッフに問題がある。そう読むこともできる。しかし確証はない。もちろんこのスタッフには、自分自身も含まれるし、クライアントも含まれる。

自分もふくめたスタッフに、なにか問題がある。それは人格の問題なのか仕事の仕方の問題なのか、関係性の問題なのか、分からない。しかしそういう内部の問題に注意しなくてはいけないと、易経は警告しているわけだ。この暗示はわりと抜き差しならない。わたしはすこし緊張した。なにより自分の姿勢や在り方を問われているような気もした。

しかし、このわたしの「緊張」も、インスピレーションだ。この卦からまったくべつの暗示を読み取るひとだってたくさんいるだろう。ここでも膨大な意味をもつ「風火家人」から唯一の意味を汲み上げているのは、わたし自身なのである。インスピレーション。

狂信的な占いの信者は、そういうインスピレーションもすべて、易経の神秘的な力によるものだという。わたしは易経の神秘の、大きな手のひらの上で転がされているだけの存在だというわけだ。なるほど、そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。分からないではないか。それに、神秘に自分を預けてしまうと、なにもかもが「あべこべ」になってしまう。人間を損なってしまうのだ。神秘に自分を預けてしまった人物は、まず目の前のものがちゃんと見えなくなる。

ちょうど以上のような暗示を読み取ったあたりで、先ほどのクライアントからまた電話が来た。書類が届いていないというのは間違いで、ちゃんと先方にすべて届いていたのだそうである。なるほど、いくら探しても見つからないわけだ。よかった、よかった。時計をみたら夕方の4時ごろだった。

土佐源氏

2007-04-14 05:41:43 | Notebook
     
宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)のなかに、高知県梼原(ゆすはら)村に住む乞食の話が出てくる。もう八十歳をとうに過ぎた身体の小さな盲目の老人で、橋の下に粗末な小屋を建てて暮らしている。宮本がこの乞食に取材したのは昭和十四年から終戦までのあいだのことらしい。老人の生い立ちを語り口調のまま「土佐源氏」としてまとめている。

わたしはこれを読んだとき、つい涙が出た。そして何度も読み返した。なにに感動したのかというと、ひとりの人間の豊かさだった。
とはいえ、この乞食の生涯には、色と欲しかない。たんに、がつがつ生きただけ。いや、それどころか彼の生き方は詐欺師のようなものだった。わたしの小さな人生観からみると、ある意味対極にあるような老人だ。ところが、それがこんなに豊かであることが衝撃だった。人間って、ただ生きただけで、こんなに素晴らしいものなんでしょうか。ただ生きるだけで、いいんでしょうかね? たとえ詐欺師でも? 疑問が次からつぎへと湧いてきて、ずいぶんいろいろ考えさせられた。おおげさに聴こえるだろうけど(じっさいおおげさだけど)生き方の根底をゆさぶられる事件だった。

それから、彼の人生の豊かさはもともとあったものなのか。あるいは、それを見出したのは宮本さんの文章なのだろうか。たぶん、どちらでもある。物語るということと、それを書き残すということの根源的な意味。「思い」が語られることで「成仏」あるいは「昇天」する。シテとワキ。二重写しのリアリティ。語り手とは、聴き手とは何か。そんなことも考えたのだった。

「わしは八十年何にもしておらん。人をだますことと、おなごをかまう事ですぎてしまった」

彼は生涯「ばくろう」を営んだ。といっても、まっとうなばくろうではない。山から山へわたり歩き、農民をだまして、あまり上等じゃない牛を売りつけたり、替わりに良い牛を巻き上げたり、というようなことをして生活を立てていたらしい。

生まれたときは、すでに父がいなかった。夜這いで身ごもった子で、母親は堕胎しようとして手を尽くしたのだが失敗した。その後母は子どもをかえりみず余所の家に嫁いでいき、やがて事故にあって亡くなっている。彼を育てたのは祖父祖母であった。
少年のころすでに少女との遊びのなかで性交を経験していた彼は、生涯にわたってさまざまな女性とかかわった。ある権力者の奥さんとの情交など、忘れがたい場面がある。やがてかれは中年のうちに目が見えなくなってしまい、それまで見捨てていた妻のもとへ帰る。

「わしはなァ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさだった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出あうと必ず啼(な)くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけはうそがつけだった。女もおなじで、かまいはしたがだましはしなかった」
「女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない」
「ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かまうた女のことを思いだしてのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった」

冬山8000メートルのリーダー

2007-04-06 03:35:08 | Notebook
     
1981年のこと、北海道大学冬季ヒマラヤ遠征隊が、厳冬期のヒマラヤ、ダウラギリ1峰(8,167メートル)に世界初の登頂に成功した。
そのときのメンバーの一人と知り合い、いっしょに働くことになったのは1989年、わたしが27歳のときのことだ。当時そのひとは40歳前後だったと思う。最初の社員はわたし一人。上司はそのひとと、もう一人だけ。その後1、2人の増減があった。

それまでは上昇志向のかたまりみたいな、戦い続けるオオカミのような上司の下で仕事を覚えたわたしにとって、こんどはまた、ずいぶん性質が違うというか、まったく正反対の人間くさい上司だった。家族のおさがりのフラワーハットに、昔のデザインのジーンズ上下、サンダル履き。薄手のビニールのトートバッグ。そんな格好で、ピカピカの大手出版社へ打ち合わせに行く。しかし魅力があるから、行く先々で人気があったし、とくに若い女性にずいぶんもてた。

そのひととわたしの性格はだいぶ違うと思う。でも根気よく、ずいぶん可愛がってくれた。なつかしいひとだ。
髪がすこし薄くなったアタマを撫でながら、「愛もない、カネもない、毛もない」とよく嘆いていた(笑)。見かけはぶっきらぼうな山男だが、やさしくて繊細すぎるひとだった。ときどき見ていて痛くなるくらい繊細だった。
ある時期は毎日毎日、飽きもせずいっしょに飲んでいた。小銭を数えながら安い居酒屋で飲むのは楽しかった。ずいぶんいろいろな話を聞いた。おもしろい話ばかりだった。

あるとき、リーダーシップの話が出た。リーダーシップとは何ぞや?
痩せ我慢だ、とそのひとは言った。それから、こんな話をしてくれた。

厳冬8000メートルのリーダーと、6000メートルのリーダー、4000メートルのリーダー、それぞれ違うのだそうだ。たとえば6000メートルのリーダーシップで8000メートルの登山をしてしまうと、かならず遭難する。リーダーシップには格があって、その人物がどのていどのリーダーか、見ればすぐ分かるのだという。はったりを言わないひとだったから、きっとほんとうにそうなのだろう。

そういえば、わたしたちが普段仕事でやっているようなリーダーシップは、たとえばボーイスカウトの引率みたいなものだな。わたしは、そう思い到った。
スケジュールからきっちり管理して、お互いにできたことやルールなど確認し合い、打ち合わせをする。時間配分を考える。まるで子どもたちに「はい、ここで休憩しましょう」「みなさん体調はいかがですか、気分のわるいひとはいませんか?」と言っているみたいだ。
ボーイスカウトの引率は言ってみれば、まあ1000メートル級のリーダーということになろうか。

しかし、そういうリーダーシップをやっていると、たとえば4000メートルの山では遭難してしまう。まして厳冬8000メートルで「みなさん体調はいかがですか」などとやっていては、すぐ遭難してしまうのだろう。とても印象的な話だった。
そして、そうしたリーダーの格の違いは「痩せ我慢」の度合いや内容からくるものだと言う。

当時のわたしも、そのひとにずいぶん痩せ我慢をさせてしまった。わたしはチンピラみたいな社員だったが、怒られたことは一度もなかった。それどころか、公私にわたり、ずいぶん親切にしてくれた。いつも暖かい目で迎え入れてくれた。甘いわけではないのだ。厳しいところもあるひとだった。

あのとき、あのひとが、あそこまで痩せ我慢してくれなかったら、わたしはとうの昔に「遭難」していただろう。それを悟ったのはずいぶんあとになってからのことだ。とても感謝している。

骨身に染みる批判

2007-04-01 10:45:42 | Notebook
     
いちばんたいせつな批判、あるいは忠告。
そのひとにとって、いちばん必要な、いちばん言わなくてはいけない忠告があるとする。
それは、そのひとにとって最も大きな欠点であったり、弱点であったりする。
周りのひとたちが「この欠点さえ、なんとかしてくれたら、あのひとはずっと救われるのに」とおもうところから来るような、そういう批判。
しかし、そういう批判のなかには、本人の痛いところをついてしまうような、存在そのものを否定したり揺さぶってしまうような、もっとも言ってはいけないものがある。骨身に染みる批判。

わたしがこの言葉と出会ったのは、ずいぶん昔のことで、ユングの講義録だった。たしかこんなふうな内容だった。
「骨身に染みる批判をしてはいけないんです。
そんなことをしていい人間はいません、していいのは神だけです」
そして彼は具体例として、友人の死の話をする。

ユングの友人にリヒァルト・ヴィルヘルムというひとがいた。彼に易経を教えた人物で、宣教師として中国へわたった西洋人だ。東洋の精神を愛し、自分が東洋人を一人も洗礼しなかったことをむしろ誇りに思っているような人物だった。
ところがある日、ユングは彼の死が近いことを悟る。
その友人は、すっかり東洋の心に染まりすぎていたために、西洋人としての精神の基盤が危うくなってしまい、いわゆる魂の喪失状態に陥っていた。かなり危険な状態だったらしい。誰よりも先に、親友であったユングがそれを悟ったのだ。

しかしユングは、そのことを忠告しなかった。やがて友人は予想どおり、まもなく死をむかえた。なぜだろう。
「きみ、間違ってるよ、いま反省しないと、危ないよ。自分が何者なのかを思い出すことだ」
なぜ、そう言ってあげなかったのか。どうして、死が彼のところへやってくるのをただ見守っていたのか。
ユングが言うには、もし忠告していたとしたら、それはリヒァルト・ヴィルヘルムにとって「骨身に染みる批判」だったからだ。それは許されないことなのだと言う。

わたしはずっと、このエピソードについて考えていた。骨身に染みる批判だろうが何だろうが、ユングはやはり忠告すべきだったのではないか。言うべきことは言い、友人の命をたすけるべきではなかったのか。見殺しにしたようなものではないのか。わたしはこのことについて繰り返し、かんがえてきた。



ところで、いちばん救いがたい欠点こそが、そのひとの人生にとってもっとも貴重な宝石をもたらすことがある。もっとも高貴で希有な、魂のよりどころとなるような、精神的な宝石。
こう言うと、なんだか話がうますぎるような気がするが、このごろ、わたしはこれを真実だと思うようになった。わたしの人生に関するかぎり、どうかんがえても、わたしのいちばん最悪の欠点こそが、わたしをもっとも豊かにしてくれた薬だったのだということ。

パニック障害気味だったり、不安神経症気味だったり、わがままだったり、進学できなかったり、就職できなかったり、締め切りが近づくと行方不明になったり、明日の予定が立たない性格だから習い事もできず、だから車の免許さえとれないようなダメダメな人格だったり、性格が甘かったり、満員電車に乗ったとたんに気を失ったり、いたくない場所にいると即日アトピーができたり、昼寝抜きには生きていけなかったり、それはもう、見ていられないような欠点ばかりで、絶望と後悔ばかりの人生だったけれども、そのなかでもとくに最悪の運命や人格こそが、わたしを豊かにしてくれた。冗談みたいだが事実なのである。もちろんのこと、わたしはこれを喜んで書いているわけではない。はっきりいって、げろが出そうなほど、うんざりするような話なのだ。わたしは自分のなかの最悪な、ダメダメな部分によって、最良のものを得たのだ。美徳や才能によってではなく。やれやれ。

もしも、こころあるひとが現われて、十代のころのわたしにスパルタ教育でもしてくれて、性根を叩き直してくれていたら、どうなっていただろう。きっといまごろ素晴らしい人生を歩んでいたことだろうが、せいぜいそれはホームドラマの薄っぺらい人情話ていどのものにとどまっていただろう。人格そのものも、いまよりずっと、浅く薄っぺらなものになっていただろうと思う。凡庸で、考えが浅くて、直情的で、なんだか単純で、「彼はいいひとでした。おわり」というような人間になっていたような気がする。がんばれば救われるんだ、報われるんだ、と泣きながら説教して歩く熱血漢みたいな、バカまるだしのオヤジになっていたかもしれない。というか、かなりの確率でそうなっていたような気がする。

「おまえ、かなりダメだぞ。いまこそ反省して心根を入れ替えないと、貧乏なデザイナーくらいにしかなれないぞ」
そう忠告してくれたひとがいたとして、わたしがもし反省し心根を入れ替えて、似合わない努力なんかしちゃったりしたら、たぶんいまごろは、なにか幽霊のような人物になっていただろう。もっとも厳しい忠告は、その人物にいちばん相応しくない努力へと導くことがある。わたしがもし、たとえば職業上の必要から、似合わない営業努力なんかしていたら、きっと数年で、たちまち魂が台無しになっていただろうと思う。仮面のような営業用の笑顔を張り付かせたまま、路上で行き倒れていたかもしれない。さいわい、いいかげんで怠け者だったから、いまこうしてピンピンしているし、お肌ツルツルである。

しかしわたしは、努力がいけないなどと言っているのではない。努力というものは、ふつうに世間で言われているようなものではないということだ。そのひとが、そのひとらしくあること。誰かの真似ではなく、自分らしい生き方をすること。ほんとうの努力というものは、そこからしか生まれてこない。
いま思いかえしても笑っちゃうのだが、万年寝たきり浪人のようなわたしのことを、「ずいぶん努力しているひとだ」と評価してくれたひとがいた。それは、わたしがわたしらしく、そのときやりたいことに夢中になってきた言動と成果が、そのひとにはそう見えたということだ。ここに、ほんものの努力の秘密がある。努力というものは、当人はあまり意識していないものなのだ。わたしがいきなり、行きたくもないカルチャーセンターに通い始めて、好きでもない勉強なんぞに打ち込んでみたところで、そういう評価をいただくことはなかっただろうと思う。
そのひとが仮りに100パーセント「そのひとらしく」生きていたら、それはそのまま100パーセント、朝から晩まで、寝ている間でさえ、「努力の人」となっていることだろう。「あのひとにはかなわないよ、あそこまで努力できるなんて」などと言われていることだろう。



結論を言うと、わたしは、わたし自身をダメ人間のままでいさせてくれて、ずっと大目に見てくれた運命にこそ、かなり感謝しているのである。それこそが、もっとも得がたい宝石を与えてくれた。

これを悟って以来、わたしはダメな人間を許せるようになった。といっても、わたしが許すのは最も「痛い」「ダメダメな」欠点だけである。べつに心が広いわけじゃない。あとで食べようとして楽しみにしていたチロルチョコ「きなこもち味」を勝手に横取りしたガキがいたら、わたしは彼を許さないだろう。それにわたしは、正しいとおもったことは信念をもって主張するし、ぼんやりしているやつを怒鳴ることだってあるかもしれない。夢中になりすぎて神がかったような仕事ぶりをして、ひとを傷つけることだってあるだろう。友人や先輩として忠告すべきことだって、たくさんあるだろう。いやだけどガミガミ言わなきゃいけないことだってあるだろう。
しかし、もっとも痛い、骨身に染みるような批判はしないように注意したいとおもう。もっとも「痛い」欠点にこそ、そのひとの存在そのものの値打ちがかかっているからだ。そのひとの存在の秘密、根っこ、百万の必然が宿っているからだ。わたしたちは、それに敬意を払うべきだ。わたしの運命が、わたしのダメダメな部分を赦し、おおめにみたように。

たぶんユングの言葉の意味には、ここからあと一歩でとどく。