きのうも夏らしい一日だった。夕暮れ時に広い草地に坐っていると、気持ちのいい風を感じることができた。空気中には陶然とした蝉の声が満ちている。
たぶん大学生らしい男女のグループが走りまわり、つかみかかったり、逃げまわったり、転げまわるようにして遊んでいた。あれはどういうゲームなのだろう?
おそらく歩き始めたばかりの赤ちゃんを歩かせているお母さんもいる。
老人の夫婦らしい二人連れが、静かな顔をして歩いている。
日灼けした6、7歳くらいの女の子が、毛玉みたいな子犬を連れて嬉しそうに歩いている。子犬は懸命に短い脚を動かし、ずいぶん一所懸命に歩いている。
風を感じながら、風についてかんがえていた。空の上の、風が吹いてくる方向を見やる。どこから吹いているのだろう? この風は、どれほど多くの場所に吹いているのだろう? どれほど多くのひとの髪を揺らせているのだろう? よくよく見ていると、この小さな風が、とても強い力でここへ運ばれていることに気づく。絵筆を走らせたような白雲が棚引いていた。
周りには甘い草のかおりがあった。蟻が腕のうえを伝って歩く。小さな蠅もやってきた。なにかの匂いをかぎ分けるようなしぐさをしていたが、まもなく飛び去っていった。
それを頭のなかで考えるのではなく、イメージするのではなく、直接それを見てみよう。味わってみよう……。
風が吹いたり、雲が流れたり、気持ちがよかったり、草の香りを感じたり、陶然とした蝉の声で空気がはち切れそうに満ちていたり、若者が走っていたり、彼らの健康そうな筋肉が動いていたり、思い思いの服をまとっていたり、日に灼けていたり、色白だったり、それぞれの声色をしていたり、べつべつの顔立ちをしていたり、べつべつの体つきをしていたり、親密だったり、よそよそしかったり、蟻が歩いていたり、蠅が飛んできては飛び去ったり、薄黄色の蝶が漂っていたり、女の子の細くて小さな体が跳ねるように歩いていたり、長い髪が風のなかを流れていたり、赤ちゃんが立ち上がったり、老人が連れ立って歩いていたり、……。
ひとはいつも、圧倒されるのだ。この世界があまりにも、とてつもない世界だから。それは驚嘆すべき場所であり、過剰な豊かさ、豊潤さをもっている。
どんなに悲嘆に暮れていても、たとえ絶望していたとしても、たとえいま息をひきとろうとも、取り返しのつかない過ちを犯したとしても、誰かを台無しにしてしまったとしても、人生をまるごと殺してしまったとしても、この「過剰さ」「とてつもなさ」「驚嘆すべき世界」はいつもここにあって、これは一人一人のなかに、圧倒的な力で吹き込まれていく。それは人が期待するような「救い」などではなく、「救い」以前の時点で、すでに人を、大きな力で満たしている。わたしの腕は動き、脚は大地をふみしめ草を踏みしだく。この強度近視の目はあの傾いた夏の陽をぼんやり見つめる。気まぐれな心臓はなんとか動き続け、痛風気味の血液は体を満たす。これらの驚異的な力は、風をおくる強い力と、おなじように力強い。
きっと老人は、小さな子供たちが駆けまわる姿を見て、圧倒されることがあるに違いない。なぜなら、彼がもう何十年も、長い長い人生を生きたというのに、あとからあとから新しい命が生まれてくる。そうして人生をまた繰り返す。その事実に、そのとてつもない現象に、老人はきっと圧倒される瞬間が、あるに違いない。彼はそのとき、とてつもない世界の、とてつもない力に気づいているのだ。その驚嘆すべき力を、人類は「慈悲」と呼んできた。それを「愛」と呼ぶひともいる。
小さな子供が転んで泣く。しかしそれを見て老人は微笑むことがある。愛らしい姿に感動するからだ。そのとき老人は、気づいているのだ。その子がどんなに泣いていても、どんなに悲嘆に暮れていても、世界中から祝福されているのだということに。
慈悲とは、おそらく優しさのことではなく、哀れみのことでもない。それは気分や感情のことではなく、風のように圧倒的で、力強いものだ。それは小さな風のように、ひとの頬に触れる。