慈悲

2009-08-17 16:17:13 | Notebook
     
きのうも夏らしい一日だった。夕暮れ時に広い草地に坐っていると、気持ちのいい風を感じることができた。空気中には陶然とした蝉の声が満ちている。

たぶん大学生らしい男女のグループが走りまわり、つかみかかったり、逃げまわったり、転げまわるようにして遊んでいた。あれはどういうゲームなのだろう?
おそらく歩き始めたばかりの赤ちゃんを歩かせているお母さんもいる。
老人の夫婦らしい二人連れが、静かな顔をして歩いている。
日灼けした6、7歳くらいの女の子が、毛玉みたいな子犬を連れて嬉しそうに歩いている。子犬は懸命に短い脚を動かし、ずいぶん一所懸命に歩いている。

風を感じながら、風についてかんがえていた。空の上の、風が吹いてくる方向を見やる。どこから吹いているのだろう? この風は、どれほど多くの場所に吹いているのだろう? どれほど多くのひとの髪を揺らせているのだろう? よくよく見ていると、この小さな風が、とても強い力でここへ運ばれていることに気づく。絵筆を走らせたような白雲が棚引いていた。

周りには甘い草のかおりがあった。蟻が腕のうえを伝って歩く。小さな蠅もやってきた。なにかの匂いをかぎ分けるようなしぐさをしていたが、まもなく飛び去っていった。

それを頭のなかで考えるのではなく、イメージするのではなく、直接それを見てみよう。味わってみよう……。

風が吹いたり、雲が流れたり、気持ちがよかったり、草の香りを感じたり、陶然とした蝉の声で空気がはち切れそうに満ちていたり、若者が走っていたり、彼らの健康そうな筋肉が動いていたり、思い思いの服をまとっていたり、日に灼けていたり、色白だったり、それぞれの声色をしていたり、べつべつの顔立ちをしていたり、べつべつの体つきをしていたり、親密だったり、よそよそしかったり、蟻が歩いていたり、蠅が飛んできては飛び去ったり、薄黄色の蝶が漂っていたり、女の子の細くて小さな体が跳ねるように歩いていたり、長い髪が風のなかを流れていたり、赤ちゃんが立ち上がったり、老人が連れ立って歩いていたり、……。

ひとはいつも、圧倒されるのだ。この世界があまりにも、とてつもない世界だから。それは驚嘆すべき場所であり、過剰な豊かさ、豊潤さをもっている。

どんなに悲嘆に暮れていても、たとえ絶望していたとしても、たとえいま息をひきとろうとも、取り返しのつかない過ちを犯したとしても、誰かを台無しにしてしまったとしても、人生をまるごと殺してしまったとしても、この「過剰さ」「とてつもなさ」「驚嘆すべき世界」はいつもここにあって、これは一人一人のなかに、圧倒的な力で吹き込まれていく。それは人が期待するような「救い」などではなく、「救い」以前の時点で、すでに人を、大きな力で満たしている。わたしの腕は動き、脚は大地をふみしめ草を踏みしだく。この強度近視の目はあの傾いた夏の陽をぼんやり見つめる。気まぐれな心臓はなんとか動き続け、痛風気味の血液は体を満たす。これらの驚異的な力は、風をおくる強い力と、おなじように力強い。

きっと老人は、小さな子供たちが駆けまわる姿を見て、圧倒されることがあるに違いない。なぜなら、彼がもう何十年も、長い長い人生を生きたというのに、あとからあとから新しい命が生まれてくる。そうして人生をまた繰り返す。その事実に、そのとてつもない現象に、老人はきっと圧倒される瞬間が、あるに違いない。彼はそのとき、とてつもない世界の、とてつもない力に気づいているのだ。その驚嘆すべき力を、人類は「慈悲」と呼んできた。それを「愛」と呼ぶひともいる。

小さな子供が転んで泣く。しかしそれを見て老人は微笑むことがある。愛らしい姿に感動するからだ。そのとき老人は、気づいているのだ。その子がどんなに泣いていても、どんなに悲嘆に暮れていても、世界中から祝福されているのだということに。

慈悲とは、おそらく優しさのことではなく、哀れみのことでもない。それは気分や感情のことではなく、風のように圧倒的で、力強いものだ。それは小さな風のように、ひとの頬に触れる。

永続する思考

2009-08-11 10:32:35 | Notebook
     
肉体が死んだあとに、そのひとの精神だけが残る。
それはそのひとが生前おこなったことが、この世に残した痕跡であったり、ひとに与え感化させた影響であったり、その影響の連鎖であったりする。
そして、よくよく考えてみると、その「精神」のほうが、肉体をともなった彼(彼女)よりも、より「人間」そのものではないか。

……という考え方が、わたしの考え方です。これはすでにこのブログでも書いていることなのですが。

そして、その「精神」とその「影響の連鎖」のことを、わたしは「偉大な書物」と表現したことがあります。これもここに書いたことがあります。

さらに、この考えを発展させて、ひとの肉体と一生が、いろいろな苦難を味わいながら、この「精神」を磨いていく。そして亡くなったあとは、一生によって磨かれたこの「精神」の輝きだけが残る。ひとの一生というものは、そのためにあるんじゃないか。そんなふうに思っています。

ちなみに、わたしは自殺を否定していません。どんな苦難や試練も、その精神を磨くために与えられたのだから、とにかくそれを生きるべきだ、とは思っていますが、やみくもにその原則を貫くべきだとは思っていないのです。そこまで原初的じゃないんですね(なにごとについても、原初的な思想や解釈について、かなり疑っているところがあります)。だから、たとえば「葉隠」が示すような死に対する考え方も、それなりに立派な考え方だと思っています。

こうしたわたし自身の考えは、長い年月のあいだに、まぎれもなく、わたし自身のなかから生まれ、磨かれてきた考えです。そういう意味ではオリジナルの考えですが、そもそもこの世界にオリジナルのアイデアなど存在するはずがないということも、また一方の真実でもあります。

ですから、自分と同じ考えに、思いがけず出逢うことが、まれにあります。先日もそうでした。



ある本を読んでいたら、こういう一節がありました。

「わたしたちは重要じゃない。
わたしたちの人生とは、それでもって
永続する思考を引っ張りまわしている、たんなる糸、
思考はそのようにして、時を貫き旅をする。」

ああ、これはわたしと同じ考え方をしている。
ここでいう「永続する思考」とは、わたしが「偉大なる書物」と言っているのと同じことです。

この本は、アメリカインディアンの言葉をまとめた有名なもので、ご存じの方も多いと思います。原書は『Many Winters』という素晴らしいタイトルがつけられていますが、残念ながら邦訳のほうは、『今日は死ぬのにもってこいの日』という、大仰でもったいぶったタイトルがつけられています。

「日々が祝福されていますように」

2009-08-10 02:21:27 | Notebook
     
土曜日に、国立市の病院へ行って、親父のガンの病状についていっしょに説明を受けた。



すでに数日前から、できるだけ穏やかな言葉を選びながら、親父には少しずつ現実を伝えておいた。

先月の手術で分かったことは、膀胱内のガンが、検査で認識していたよりずっと多かったこと。だから、ガンだけを切除して膀胱を活かすことは無理だということ。

想像力のない親父のことだから、これだけの現実を突きつけられても、なんとなくピンとこない部分もあるだろうと予想して、むしろそれを幸いに、穏当な表現をつかっておいた。じわじわと日数をかけて現実に気づいていくほうが本人にとって良いだろうと想像したからだ。そして腹が決まったあたりで、正式に先生の説明を受ける。それがちょうどいいだろう。

しかし先月の手術直後に、そもそも最初に、わたし一人が先生から説明していただいたときの表現は、もっとキツイものだった。
「膀胱が、ガンだらけなんですよ」
「ちょっと酷かったねえ……」
「尿道の入り口もやられているんです」
こんなふうに言われたのが現実なのだが、しかし、こういう表現はいっさいつかわないことにした。予想よりもガンが多かったため、おそらくは膀胱をとらなくてはいけない。それだけ説明しておけば十分だろうと判断したのだった。



うちに帰ってきたとたん、親父が、激しい口調で、
「手術は受けない」
と言ったときは耳を疑った。てっきり手術するものと予想していたからだ。

生涯にわたって、なんでもかんでも、程度の低い他人の意見に簡単に自分を預けてしまってきた親父のことだから、今回もよく考えもしないまま、先生の方針に従うものと思っていた(そもそも他人の意見にすぐ自分を預けてしまうひとは、往々にして程度の低い=分かりやすくて単純な意見に取り憑かれるものだが)。しかし、それが今回ばかりは、さすがに自分の頭でものを考えたのだろう。良い傾向だと思った。

と同時に、彼の激しい口調が心配になった。自分の頭でものを考えたひとは、ふつうは激しい話し方はしない。たんに彼は怖じ気づいているだけのことで、ようするにショックを受けているのだ。そのショックのまま思考停止して「手術を受けない」と言っているのだとしたら、これはまた別の意味で良い判断とは言いかねる。

わたしが最も恐れているのは、金剛石(※)のように頭が硬い親父が、たったひとつの考えに取り憑かれて、そこから一歩も出られなくなって、まったく判断の融通がきかなくなる事態だ。彼の人生のためにそれだけは避けたいと思っているのだ。

わたしは親父の肩に手を添えて、「まだ時間があるから、よくかんがえてみよう」とだけ話した。手術の予後についても、再度くわしく確認することを勧めてみようと思っている。



夜になって、親父に時計を贈ろうと思った。残念ながらお金がないから安物だけれど。
この先どれだけ生きるか分からないと覚悟している親父に、時間をプレゼントするという、まったくベタな発想なんだけれど、きっとあのひとは気づきもしないだろう。しかし、まあいいだろう。贈り物に添えたメッセージは、
「日々が祝福されていますように」


(※)仏教用語で、ダイヤモンドのこと(笑)。