ユーモア

2008-04-17 01:09:45 | Notebook
     
気持ちのわるい男たちと素敵な女性の映画ばかり撮っているウッディ・アレンが、彼の名作『アニー・ホール』の冒頭で笑えない小話を披露している。しょぼい、なさけない、というスタイルを洗練させたのが彼の芸なので、観ているこちらまでなさけない気分になりながらニヤリとさせられる。

四十がらみのいい歳をした彼が、カメラの前に一人現われ、神妙な顔をして、まるで秘密を打ちあけるような目をして、「人生は悲惨で、みじめ。これこそが、わたしの人生観です」と言う。そして頭がすこしはげてきたけど気にしないとか、そのうち自分も荷物を詰めたショッピングバッグをさげて、よだれをたらしながら徘徊することになるんだろうとか、泣き言をあれこれ言う。さぞ悲惨で辛いめに遭ったのだろうと思わせておいて、じつはボク失恋したんですと告白するところで情けなさがきわまり、物語が始まる。すでにそのころには、彼の話芸に無理矢理引きずり込まれており、スクリーンに釘付けになっている。

ウッディ・アレンはユダヤ人なのだそうだが、わたしは学生のころに『ユダヤ・ジョーク』という本を立ち読みして、そのあまりのつまらなさに呆れたことがあった。
子供が腕を骨折して、お母さんボク骨を折っちゃったよと言うと、お母さんは、よかったわね片方ですんでと応える。
なんじゃこりゃと十代のわたしはおもった。いまで言うならオヤジギャグ。いやギャグにすらなっていない。それにずいぶん不健康なジョークだ。子供がこんなものを読んで笑っていたら、ノイローゼじゃないかしらとさえ思う。母親は心配になるだろう。落語でも読んでくれていたほうが、ずっと安心である。

しかし、ところが、どうも、いやいや、そうじゃないのではないか。このごろのわたしはすこし考えが変わってきているのだ。

ほんとうのユーモアというものは、それはこの「つまらない」ほうのユダヤ・ジョークに近いものではないか。ウッディ・アレンのしょぼい笑えないジョークのほうが、むしろ王道なのではないか。そんなふうにおもうのである。
もっともニホン人にはもともとユーモアという考えがないから、たぶんわたしも本当のユーモアというものが何なのか、よく分かっていないかもしれない。

しかし、わたしもとうとう『アニー・ホール』のなかのウッディ・アレンと同じくらいの年齢をむかえてしまい、なんとなく彼の情けなさが身につまされるようになってきた。しょぼい、なさけない映画の主人公とたいして変わらないわたしの、この悲惨な人生を歩むうえで、どうしても欠かせなくなってきているのが、彼のような「しょぼい」ほうのジョークなのである。

あまりに人生が悲惨だと、落語でたのしく笑うことが、そんなに救いではなくなってくる。
抱腹絶倒のコントなども好きだけれど、オヤジの深刻すぎる現実は、そんなオキラクなものでは、あまり救われないのである。

たとえば、わたしの住み家が誰かに放火されて丸焼けになったとしよう(縁起でもないけど)。
わたしはたぶんショックを受けて寝込んじゃうとおもう。
でもそうそういつまでも寝ていられないから、だらりと起ち上がり、悲惨な焼け跡を片付け始めるだろうとおもう。涙にくれながら。ああ、目がかすんでよく見えないよ。しくしく。。。
そんな悲惨な状況にいるわたしのところに、お笑い芸人が慰問に来てくれて(ありえないけど、たとえばの話です)パーッとにぎやかな笑いで慰めてくれるとしよう。
しかし、たぶんわたしの心は、そんなオキラクな笑いでは慰められないだろうとおもう。たいせつなのは、現実逃避の笑いではなく、人生に向きあったうえでのウィットのようなものだ。

悲惨な人生に向きあうときに必要なのは、そして心をほんとうに慰めてくれるのは、くちをあけて大笑いすることではなくて、じつは悲惨な現実を直視したまま、目を逸らさないまま、肩をすくめてみせるような、ちょっとしたジョークなのである。それは悲惨さの味わいの延長にあるものでなくてはいけない。そういうことが、分かってきたのであった(分かりたくなかったけど)。

先の、縁起でもない火事の場合は、たとえば焼け跡の掃除をしみじみとしながら、
「こんなことなら、燃えないゴミを昨日出しておけばよかった……」
というようなジョークなのである(古典的だけど)。

人生の悲惨さと向きあう心は、こういう種類の、しょぼい、しょぼーいジョークによってこそ、なぐさめられるものなのである。おお、これこそ、つまらないユダヤ・ジョークにそっくりではないか。

むかし、歌手のポール・マッカートニーさんが、よせばいいのにマリファナ持参でニホンへやってきて、空港で逮捕されたことがある。コンサートは中止。そして数日後に強制帰国させられるとき、彼は報道陣の「食事はいかがでしたか?」というとぼけた質問にこたえて、すずしい顔で間髪入れず「Good!」と言っていた。たいしておもしろくもないが、うちの親父がふいを突かれてテレビの前で吹き出していた。これもたぶんユーモアなんだとおもう。こういうときに「コースメニューがないのが残念だったけどね」とか、「トイレから戻るときによく迷子になったよ」とか(どちらも古典的だけど)、そういうことを言ってのけて、自分の悲惨な状況に肩をすくめてみせる気合い。そういう姿勢がないと、ひとはすぐ駄目になってしまう生き物だとおもうのだ。そう、ユーモアとは、そんなふうに人生にむきあう姿勢と気合いのようなものではないか。

ぼやくのではなく、嘆くのでもなく、さらっと目の前の現実をユーモアでかわす。そして肩をすくめてみせる。
この気合いと姿勢。これほど頼りになる友人はいないではないか。それはひとを立ち上がらせ、人間でいさせてくれる。それはどこまでもついてきてくれるだろう。あなたを見捨てないだろう。これはもう祝福のようなものであり、この祝福は、たとえ地の底までも、ずっと一緒にいてくれる。ひとはユーモアによって、たぶん人間になれるのだろう。

使い捨て

2008-04-16 16:02:27 | Notebook
     
先日、ある方と電話で話していたら、こんな話が出た。ある大手出版社の内部ではこのごろ正社員が減りつつあり、逆にアルバイトが増えていて、それもレベルがずいぶん酷い。わけの分からない若者ばかりだという。なるほど、たしかにわたしも似たような感想をもっている。

「受付窓口」の頭しかない若者が、ムック本の「制作進行」をやっている。制作進行というのは、ある意味雑誌で言えばデスクのような仕事で、これはベテランでないと務まらない。デザインも分かり、編集もよく知っていて、原稿も書ける。もちろん制作のことをよく知っている。なにもかも分かっているひとでないとできない仕事を、「窓口」の知恵しかないアルバイトが回している。

だから、当然問題が起きる。わたしの場合はデザイナーだからデザイン関係の話が多くなるが、まずデザインフォーマットに合わない原稿を平気でもってくる。また上司から言われたことを、なんのフィードバックもなしに、ただそのままわたしのところへ持ってくる。これは困るというと、あなたのいうことは分かるがなんとかしてくれという。口調は丁寧だが、まったく意見は聞き入れられない。わたしが上司に直接言えば、たぶんすぐ解決するだろうと思うようなことばかりなのだが、間に立っている頭が空っぽだから、どうにもならない。レベルが低すぎてどうにもならないのだが、こういうことが増えてきた。

知恵のないひとは、とにかく上から言われたことを、トラブルなくソツなく回すことしか考えなくなる。流しそうめんみたいに、するするする~っと、とどこおりなく上から下へ仕事が流れていけば、それがいちばん仕事がうまくいったことなのだという感覚をもつ。いうまでもないがこれは、いちばん仕事のできないひとが、いちばん仕事をしていない時に抱く感覚なのだが、そういう感覚で仕事をしているひとが、むやみに多くなった。

彼らにはきっと、逆立ちしたって分からないだろうが、一流とまではいかなくとも、もうすこし上のレベルのひとたちはぜんぜん違う仕事をしている。みんな言われたとおりにやらないし、余計なことはするし、びっくりするようなフィードバックに振りまわされたりする。それはもう笑っちゃうようなことがいっぱい起きる。しかしそれでいて、こういう空っぽな若者が仕事をする場合よりも、はるかに効率がいいし、おもしろく刺激的で、素晴らしいものができあがる。そういうものである。

どうしてだめな若者が増えてしまったのか。しばらくかんがえてみて、すぐに分かったのは、これは奴隷の感覚だということだ。奴隷といって悪ければ、使い捨てられてきたひとたちの感覚といえばいいだろうか。

もしそうだとすれば、こういう不幸な使い捨て人生を歩む若者が増えてしまったのは、本人のみならず、わたしたちの世代の責任かもしれない。

なぜわたしがそう思うのかというと、いまのニホンは多くの若者たちを、廉く使い捨てるような使い方をしている。時給やアルバイトで廉く使い、なんとか仕事が回ってくれればそれでよい。そういう使い方をしているから、多くの若者たちも知らずしらず「使い捨て仕様」の顔つきになってくる。どうぞ使い捨ててくださいお廉くしておきます、と顔がいっているわけだ。
だから仕事ができあがるとか、できあがらないとか、それ以前のところで足踏みしている。そうしてますますわけの分からない人格になっていく。

そして、じつはこの「使い捨て仕様」の顔つきをしている連中は、若者にかぎらず、わたしたちの世代にも増えている。わたしたちより上の世代の方々のあいだにも増えていて、それはもうずいぶん以前からのことだ。
うつろな「使い捨て仕様」の年輩が、若者を使い捨てにしている。せめて注意くらいしてやって、責任をもっていろいろ教えてやればいいものを、めんどうなので、なにもしない。お客さん扱いである。これはいまのニホンの病いのひとつなのだろう。

わたしはせめて、ああ、この若者はもったいないなと思ったときは、堂々と憎まれ口をたたくようにしているが、もともと優しい人間なのでうまくいえない。逆になめられたり、ばかにされたりする。それに、こういう問題を指摘するためには、かわいそうだけど酷い言い方をしなくてはならない。人格の全否定みたいな言い方だ。おまえはなにも分かっていない、まったくどうにもならない、とまでいわなくてはならない。世界観から揺さぶりをかける必要があるからだ。もちろん、そんなことをいっても通じるわけがない。まったく損な役回りである。

使い捨て仕様の若者を、ほんとうに救い出すのは本人以外にない。昔から、どうせみんな最初は使い捨てだった。わたしだってそうだ。その状態から本人を救い出すのは、月並みだけど志し以外にない。だから、仕事に嘘やごまかしが出てくると、もう見込みがない。逆に言うと、誠意があって正直で、志しが高ければ、掃きだめの鶴みたいに、その存在が際立ってくる。そうなると、周りの扱いが変わってくる。そういうものだ。

若者よ、いやとりわけ年配者よ、どんなに状況が悲惨でも、やっている仕事がしょぼくても、胸を張れ、意識の梁をおもいきり高く掲げよ。その高さが、いつかあなたを救うだろう。そんな言葉をくちにしてみたところで、甲斐があるわけもなく、胸のうちにしまっておくばかりだ。いっそボトルに詰めて海にでも流しておけば、遠い未来の、べつの時代のひねくれ者が、あるいは拾ってくれるのかもしれない。

その青年

2008-04-15 22:58:29 | Notebook
   
昨年のこと、ある若者と仕事の打ち合わせをしていて、急に気づいた。このひとによく似た青年に昔あったことがある。わたしはその青年をよく知っていて、しかしもうずっと会っていない。



仕事以前に、どうにもならない人格をもった青年だった。しかしどこに問題があるのか、それを指摘するのは難しい。

彼は心が痩せていた。そういう指摘もできる。しかしこれは半分間違っている。なぜならその青年は、ある意味とても豊かで穏やかな心をもっていたからだ。
世界観がせまく余裕がない。そういう言い方もできる。しかしこれも間違っている。その青年はある意味仕事を超えた視野をもっていて、それに鷹揚な大きさを持っていたからだ。
彼にはどこか、べつの場所から流されてきたみたいな、場違いな雰囲気があった。影がうすいというか、不吉な感じもあった。生きるはずではない人生を生きているような。しかしこの認識も間違っている。彼はときに存在感があり、ときには奇妙に目立つようなところがあったからだ。彼が街を歩いている姿が、へんに目につく。そういう若者だった。それにあたたかい雰囲気があり、この青年といっしょにいたら良いことがありそうだと感じているひともいた。

そんな彼が、ごくまれに、きつい言葉をつかうことがあった。つよい力で、自分のかんがえを強く押し出すことがある。それがすっきりと筋のとおったかんがえで説得力もあった。言葉の表現もすっきりと上手で、よく考えられ悩んだすえの意見なのだと分かる。しかしなにか問題がある。彼がなにかを強く言うときには、周りのひとは、いつもその意見の内容以前に、なにか間違ったことが彼のなかで起きていると感じていた。
彼の上司は、彼にむかって「いつもすっきりとした考え方をしようとするのは間違っている。ひとはいつもいろいろな問題に翻弄されながら、どろどろしたものを抱えて生きていて、また、そうあるべきだからだ。君の世界観にはどうも間違いがある」、そう指摘したこともある。これはその青年が失恋をしてしょげているときに、上司が心配して、同僚たちの前で言ってくれた言葉だった。

彼の存在そのものが、ひとつの意識にぴたりと波長を合わせて、瞑想する銅像みたいに、ひとつの意識そのものの権化のような青年になる。それがひとつの怒りや意見である場合、彼の目の光が不吉に研ぎ澄まされてくる。そういう若者をよく見かけることがあるだろう。つるりとした顔をして、いつも言っていることが間違っておらず正論で、しかし危ない感じをいだかせるような若者。その危なさは、あたたかい人間性の欠如のようなものだ。しかしこの表現も間違っている。彼はとてもあたたかい人間らしい青年だったからだ。

彼のその、薄ら寒い人間性、まるで肉厚の母性から遠く離され迷子にでもなっているかのような。神経が弱く、いつも不安定なものをやっと安定させているような、薄さ、貧しさのようなもの。そして、それらをかかえながら、ときには奇妙に先鋭化していくことの危うさ。

そういう若者を前にしたら、あるひとはこう感じるだろう。
「ああ、この青年は、しあわせになれない」

そんな青年を知っていた。わたしは二十年以上の時をへて、急に彼を思いだしたのだ。そうして、ありありと彼の姿を思い浮かべることができた。なんということだろう。たしかに、この青年はしあわせになれない。人格のなにかに問題がありすぎて、どうにもならない。

「君はまったく間違っている。人間性から間違っていて、それはトータルに反省しないかぎり気づくことはできないだろう」
そんなことを上司から言われたこともあった。もちろん意味など分からない。性格でもなく考えでもなく、仕事が間違っているわけでもなく、人格がことさらだめというわけでもない。それ以前のなにかが間違っているというのだ。こんなことを言ってくれるような、めんどうくさい上司に出会ったことを、わたしはほんとうに幸運だったと思っている。

わたしは若いころ、ある女性からこう言われたことがあった。仕事で知り合った年上の女性で、数年ぶりに会っていっしょに酒をのんだときのことだった。
「あなたは、きっとこれからもたいへんでしょうね。でも、生きることをあきらめないでね」
若いひとはよく分かるだろうが、二十代の終わりごろになって急にこういうことを言われたら、若者は途方に暮れてしまうものだ。わたしはふいを突かれて、どうこたえたらいいのか分からなかった。なんの脈絡もなく、突然そう言われたのだから。当時のわたしはなんの問題もかかえておらず、意気揚々と運命に挑戦しようとしているときだった。

おまえはまったくだめだ。まったく、どうにもならない。それではどこにも通用しない。これほど酷い批判もないが、そうとしか言いようのない場合があって、そういうめんどうな批判をしてくれるひとはそんなにいない。それからあの女性の「きっとこれからもたいへんでしょうね」という言葉のなかには「なかなかしあわせになれないでしょうね」という意味もふくまれている。さすがにそこまでは言えなかったのだろう。



しかし一度だけ、ずばりそう言われたことがある。それはわたしが高校生のころで、バス亭に並んでいるときにたまたま居あわせた同級生からそう言われたのだ。クラスは違っていて、ほとんど会うこともなく、あまり話したこともなかった。
「おまえ、しあわせになれないよ。いまそんな気がしたんだ」
からかうのではなく、ほんとうに誠意をこめた口調だったので、わたしは面食らった。そもそもそういう冗談を言ったり軽口をたたくような少年ではなかった。なぜそう思うのかと訊くと、予想外の答えが返ってきた。
「だって、そんなに細い腕をしているもの」
彼はおそらく、べつの意味でそう言っていたのだろうが、その「細い腕」こそが、じつは真実をついていたのだ。
わたしは、なま白く、細い腕のような青年だった。いまもそうだ。それがほんとうの問題の始まりだったのだ。