みつちーのevergreen-forest

現在は再びQMAがメイン。An×Anではお世話になりました。クイズに使っていた頭脳は、別のために使い始めています。

裁判員制度スタートに思う

2009-05-21 23:41:40 | Weblog
今日から、賛否両論ある裁判員制度が始まりました。
これについては問題点が多々あると思いますが、とりあえず今日は、僕が気になった話のみを。

先日、新聞(ウチは今読売新聞)を見ていましたら、こんな記事がありました。読むと言うより見ていたので、細かいことは書けませんが、大筋はこんな感じです。
ある男性の話。「裁判員になったら、被害者の心情が判決に反映されるようにしたい」

嘘は言いたくないので、正直なことを書きますが、これを読んで僕はゾッとしました。
彼の気持ちは、内心にとどまる場合はもちろん、一市民としては何ら非難されるようなことではありません。しかし、「裁判員になったとき」という条件が加わった時、その発言の持つ意味合いは大きく変わります。
もし、彼のような人ばかりで6人のメンバーが構成されたとき(そんな可能性は低いとはいえ)、そこはもう、裁判の場ではなく、復讐の場というほうが適切になっているでしょう。もっとも、そういう人は面接でどうなるか分かりませんが。

日本に限らず、裁判は、復讐の場ではなく、法に照らして、ある行為に対する罰を決める場です。死刑判決が下り、被害者感情が満たされたとしても、それはあくまで結果的にそうなっただけであり、裁判で従うべきものは、法です。被害者感情を斟酌するのは大切なことですが、それがあまりに大きなウエイトを占めるのは望ましくないと考えます。

もともとこの制度は、司法に市民感覚を取り入れるということで始められました。また、迅速性や分かり易さということも挙げられています。
この背景には、市民感覚・迅速性・分かり易さイコール「正しいもの」という考えがあるのでしょうが、僕はそう思えません。
一般人の考え(もちろん僕を含めて)は、数的に多い考えというだけであって、それが正しいなんていう保障はどこにもありません。
また、分かり易さですが、被告人の自由、時には生命すらも奪うこともある裁判というものは、ある意味難しくても仕方ないと思うのです。宇宙の構造を説明したり、複雑な機械を作るには難しいことを知らなくてはならないのと変わらないはずです(どうもここのところが、理系の話だと納得しがちなのですが)。ただし、難しいのは仕方ないにしても、それをいいことに、法律が一部の専門家だけのものになってしまうのは問題ですが。

事件が起きたときは、どうしても被害者側からの報道が多くなります。それはもちろん大切ですけど、あまりにもそっちに寄りすぎると、公平な判断など期待できるはずがありません。
残酷な事件が起きたとき、犯人を死刑にしよう。そういう話はよく出ます。そのわりには、死刑がどうやって行われるかの知識はほとんどありません。2月か3月ごろ、ニュース23でやってて、その一端を知ることができたぐらいです。今の状況は、バランスが悪すぎる…。

裁判官も、選ばれた裁判員も、人間である以上、感情に左右される面があることは否定できません。
だから、大事なのは、感情「だけ」にならないこと。そして、刑罰とはどのような目的で科されるのかを、多少なりとも勉強し、自らの頭で考えてみることだと思うのです。