三酔人の独り言

ルポライター・星徹のブログです。歴史認識と国内政治に関わる問題を中心に。他のテーマについても。

最上敏樹「国際立憲主義とは何か」から学ぶ

2015-12-19 12:20:55 | 政治論
 岩波書店「シリーズ 日本の安全保障」第1巻『安全保障とは何か』(【責任編集】遠藤誠治・遠藤乾/2014年10月)を読んでいたら、最上敏樹『国際立憲主義の時代』(岩波書店/2007年11月)に関して少し述べられていた。

■最上敏樹(もがみ・としき) 1950年生まれ。国際基督教大学教授を経て、現在は早稲田大学教授。専攻は、国際法・国際機構論。著書に『人道的介入』(2001年)・『国連とアメリカ』(2005年)・『いま平和とは』(2006年)〈以上全て岩波新書〉などがある。

 私はかつて上記「岩波新書」3冊を読み、多くの示唆を受けた。最近では、月刊『世界』2015年9月号に掲載の論文「国際法は錦の御旗ではない」を読み、多くの学ぶところがあった。

 話を元に戻す。最上氏著作『国際立憲主義の時代』は、過去18年間に発表された各種論文を中心にまとめた著作だ。まだ読んでいなかったので、さっそく読んでみた。以下、第1章「国際立憲主義とは何か」(書き下ろし【2007年】)のみを取り上げ、現在的視点から(後知恵を交えて)考えたことを【考察】として述べてみたい。
 *<   >内は引用。[   ]内は引用者(星徹)が補った。傍点や注は省略した。

<「国際法は困難に直面しているようだ」というのは、マルティ・コスケニエミ[*フィンランドの国際法学者・外交官]の時代認識の婉曲表現である。その意味するところは、「アフガニスタンへの爆撃[*2001年]に関しては、尖鋭化しない程度に意見の不一致があるくらいで済んだが、イラク占領[*2003年]に関しては、それが違法であるとする点でほとんど異論がない。この占領は大西洋の反対側からも(批判的な=最上補足)反応を招いたが、そうであればあるだけ、法にとっては具合が悪いのだ」ということである。なぜ具合が悪いのか。それは「9・11テロ攻撃[*2001年]以来、米国は何もかも単独でやろうと決めた。(中略)その行程には法がほとんどない」からである>

<これは単なる米国批判ではない。例外的行動によって国際法が影を潜めること、とりわけ「法的真空」が作られて国際法が窒息させられることへの批判であり懸念なのである。>

<法体系はその内部に巨大な法的真空を抱えることになろう。「法規範が次々と破られる」のではなく「縛るべき法規範が不在であるかのようになる」という意味で、それは「法的真空」なのである。

 国際立憲主義あるいはそれに類する言葉は、こうした「国際法の試練」の中で用いられ始めたものである。おおよその始点は、2001年10月からのアフガニスタンに対する攻撃の頃であろう。(中略)端的に言ってそれは、国際法の核心的な部分が根底から崩れされつつあるのではないかという懸念であり、それに対するある種の抗議として現れたものだった。>

【考察】
(1)国内立憲主義と国際立憲主義の違いは?
 
 「国内立憲主義」とは、外形的には、「憲法など国の根源的規範に基づく政治原則」と言えるのではないか。もちろん、もっと深い意味もあるのだろうが、「外形的には」ということだ。
 *当ブログ2015.7.8「石川健治教授(憲法学)『週刊金曜日』インタビュー記事」参照

 他方で、最上氏がここで言う「国際立憲主義」とは、上記のような外形的「国内立憲主義」の国際版に近いのではないか。ただし、各国家は国内法とそれを有効にする「物理的暴力装置の独占」(マックス=ヴェーバー)によって秩序を保とうとするが(*立憲民主主義的傾向の強い国家なら「国民の支持を得つつ」)、国家間の関係(国際関係)に於いては「全体的合意の下での『物理的暴力装置の独占』」(*国連軍のようなもの)は今のところ存在しない。国際関係では、国際連合とそれを中心とする国際法秩序は存在するのだが、特に超大国・軍事大国を力ずくで従わせるだけの暴力装置も強制力も持ち得ないのだ。

 この「国際立憲主義の秩序」を根底から否定したのが、2001年「9・11同時多発テロ」後の米国だろう。当初は米国による力ずくの〝正義の制裁〟はうまく行くかに見えたが、アフガニスタンからイラクに攻撃対象を拡大するにつれて混乱と矛盾は深まり、収拾がつかない状況に陥ってしまった。

 米国によるこの国際立憲主義無視の強硬行動は、武力行使対象地域の混乱を招き、イスラム系テロ組織の拡散と深化をもたらした。このことに関しては、多くの人が認識しているはずだ。

 しかし、米国の「独りよがり行動」の悪影響は、これだけに留まらない。徐々に米国の一強体制は崩れ、ロシアや中国が軍事的にも政治的にも力を付けるにつれて、「米国だって好き放題にやっていたではないか」とばかりに、国際立憲主義を無視・軽視するような自国利益追求行動を実践するようになってきた。ロシアは、ウクライナへの軍事侵攻や一部地区占領を強行するなど、強大な軍事力を背景に好き放題をし始めている。中国も、南シナ海等で軍事圧力を強め、埋め立てによる人工島創設や軍事施設建造を強硬に押し進めている。

 現実は、国際立憲主義無視の実行国が入れ替わり、又は増えただけであり、その全体構造は変わらないままなのだ。国際立憲主義の構造をより強固にすることこそが重要だ、と改めて思う。

(2)米国の国際立憲主義無視と日本の国内立憲主義無視
 2001年「9・11同時多発テロ」後に米国が国際立憲主義無視の方向に急速に舵を切ると、同盟国たる日本の政府(小泉純一郎政権)は条件反射的に「支持する」姿勢を表明し、可能な限りの支援を続けた。日本は「国際立憲主義無視の伴走者」になった、ということだろう。

 特に米国中心の多国籍軍によるイラク侵攻(2003年)は、明らかに「国際法違反の侵略行為」であった。少なくとも、米国・英国両政府は軍事侵攻の根拠とした「イラクの大量破壊兵器保有」という前提が間違いであった、と後に認めはした。しかし「伴走者」たる日本政府は、この「過ち」さえ認めることなく、ごまかし続けているのだ。

 このように、国際立憲主義を蔑(ないがし)ろにし続ける日本(政府)は、後に国内での立憲主義もまた蔑ろにする姿勢を強めることになる。国内でのこの立憲主義無視のあり方は、「2014.7.1閣議決定」(*憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認を含む)とそれに基づく「違憲戦争法」(*安全保障関連法)の制定(2015.9.19)という形で顕著に表出した。この「国際」「国内」双方での立憲主義無視の表出は、偶然なのか? それとも必然なのか? 私は「必然」とまでは言い得ないが、「両者は深く絡み合っている」と思っている。

 ところで、日本のこういった国内外での立憲主義無視の表出は、日本政府の「独裁」だけで進行したのか? 否。政府による「パンとサーカス」的な様々な誘導策はあったにしても、一応は「選挙民主主義」(*「選挙」自体のあり方にも問題はあるが)の洗礼を受けつつ進行した(*又は「進行している」)、と思うのだ。要するに、有権者は単なる「被害者」ではなく、「共同実行者」的要素を併せ持っている、ということだ。

 私たちは、国内と国際の同時並行で、立憲民主主義のより高い次元で確立を目指す必要がある、と思うのだ。

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