LA VIE EN ROSEのプロムナード(散歩道)

私達の毎日の生活は”プロムナード(散歩道)”です。散歩道で発見した出来事を日常世界ふしぎ発見!でご紹介して行きます

【私だけの学習メモ】 (1)【日本史】 (2)【地学基礎】 (3)【仕事の現場】 (4)【簿記】

2018年05月24日 22時45分27秒 | 今日のお散歩記録
【私だけの学習メモ】 高校講座を視聴していない方には、何の事やらさっぱりわからない私だけの学習メモですので、全く読む必要はありません。

頑張って高校講座で勉強しました。

今日の教科は;

【日本史】

一.応仁の乱 二.群雄割拠 三.都市の発展

今回の時代と三つの要

今回は15世紀~16世紀の戦国時代
日本の歴史を大きく動かした戦い

戦国大名とは、戦国時代に独立して自分の領地を支配した大名のことです。
戦国大名といえば誰が思い浮かぶかと問われたAKB48の3人からは、上杉謙信や武田信玄、織田信長の名前が挙がりました。

今回は、室町時代の後半から戦国時代にかけて、15世紀から16世紀の時代を見ていきます。この時代は、戦国大名たちが出現した時代です。

日本の歴史を大きく動かした戦い “応仁の乱” は、京都を舞台に約11年続きました。
応仁の乱はなぜ始まり、長きに渡って続いたのでしょうか。そして、その戦いの結果は、何をもたらしたのでしょうか。

今回押さえるべき三つの要は、

一.応仁の乱
二.群雄割拠
三.都市の発展

日本の歴史の一大転換点に迫ります。

室町幕府は京都にありましたが、その京都で応仁の乱が起こります。
高橋館長によれば、この応仁の乱は、実は意外と難しい事件だといいます。

▶要 其の一 「応仁の乱」

将軍 足利義政が弟の義視を跡継ぎと決めた後に男子が生まれた
有力守護大名の山名と細川の争いが跡継ぎ争いに絡む

応仁の乱のきっかけは、将軍家の跡継ぎをめぐる争いでした。
室町幕府8代将軍の足利義政は、子どもに恵まれず、将軍の跡継ぎを弟の足利義視(よしみ)と決めていました。
しかし弟を跡継ぎと定めた翌年、義政と妻の日野富子との間に、足利義尚(よしひさ)が生まれます。
義政から次期将軍として定められた義視と、息子を跡継ぎにしたい義政の妻 富子。両者は将軍家の跡継ぎの座をめぐり、激しく対立していきます。

一方 この頃、幕府の実権を握ろうと、有力守護大名の細川勝元と山名持豊が争っていました。細川方は義視を、山名方は富子・義尚を支援します。

京都を2分して陣取る
足軽が略奪や放火を繰り返し被害が広がる

さらに畠山氏などの跡継ぎをめぐる対立も結びつき、細川方と山名方の2つの勢力が東西に分かれて、京都の街中に陣取りました。

そして1467年、応仁の乱が始まりました。

近畿周辺の守護大名たちが、それぞれの側に加勢していき、京の都は20万以上の武士がひしめいたと言われています。
大名たちは、陣地から敵を追い出そうと、さかんに火を放ちます。
さらに、軽装で機動力に富んだ傭兵 “足軽” が それぞれの陣営に加わり略奪や放火を繰り返し、寺や神社などにも被害が広がっていきます。

大名たちは地方において敵国に攻撃
勝敗がつかないまま応仁の乱が収束

さらに大名たちは、地方における敵の領国に対しても、攻撃を行っていきます。
長く続く戦乱の中、それぞれの陣営の大将、山名持豊と細川勝元が相次いで死亡します。そして1477年、ついに勝敗がつかないまま応仁の乱は終わりました。

11年も続いた戦いで京の都は焼けて荒れ果て、この乱を平定できなかった将軍や幕府の権威は失墜してしまいます。応仁の乱を境に、時代は、乱世・戦国時代へと入っていきます。

人よむなしい=1467
室町幕府は守護大名の連立政権だったが…

応仁の乱は、争いが延々と続いたにもかかわらず決着もつかなかった、むなしい戦いと言えるかもしれません。
このことから、「人よむなしい(1467)、応仁の乱」という語呂合わせで1467年という年号を覚えることができます。

以前学んだように、京都の室町幕府は有力な守護大名の連立政権のような形で成り立っていました。しかし応仁の乱によって、将軍の権威が失墜してしまいます。
すると守護大名たちは それぞれ、自分の身は自分の力で守らなければならないという状況になりました。

こうして世の中は、多くの実力者が各地で勢力をふるって対立している状態、つまり群雄割拠となっていきます。

▶要 其の二 「群雄割拠」

戦国大名の代表的な3パターン

応仁の乱の後、それまでの秩序が乱れ、戦国大名という新しいタイプの領主が現れます。
それまでの守護大名は、室町幕府によって任命された大名でした。
しかし幕府の権威がなくなると、自力で領国を支配する戦国大名が登場します。

戦国大名たちは様々な形で生まれてきましたが、その成り立ちは、大きく分けて以下の3通りです。

・守護大名がそのまま戦国大名へとなっていった者
 例)武田氏(甲斐)、島津氏(薩摩)など

・守護大名の家臣である守護代が のし上がっていった者
 例)上杉氏(越後)、尼子氏(出雲)など

・各地の有力武士、国人たちが同盟を結び、その中から頭角を現していった者
 例)伊達氏(陸奥)、毛利氏(安芸)など

もっとも有名な合戦の一つ、川中島の合戦
長野県北部の三角地帯で5回行われた

戦国大名は自分たちの領地を広げるため、他の戦国大名と合戦を繰り広げました。
戦国時代の合戦の中で、もっとも有名なものの一つが、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の合戦でした。
長野県北部にある川中島は、千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)が合流する三角地帯です。

上杉謙信と武田信玄は、この地で1553年から1564年の間に、5回に渡って戦いました。

信玄が信濃を攻略しながら越後に迫った
謙信が信玄を切りつけた伝説

2人が争うことになったのは、信玄が領地を広げるため、信濃の国に勢力を伸ばしてきたことが原因です。信玄は川中島近辺までを支配下に収め、さらに謙信の領地に迫りました。こうした信玄の動きに対して、北信濃の国人たちが謙信に助けを求め、謙信はこれに応えます。

激しかった時には、1日の戦闘で両軍合わせて8000人とも言われる死者を出し、戦国時代最大級の合戦となりました。また戦いのさなか、武田軍の本陣に攻め込んだ謙信が信玄に切りつけ、信玄が軍配で受け止めたというエピソードが伝わっています。しかし、2人の合戦は、ついに勝敗がつくことはありませんでした。

こうした合戦をはじめ、戦国大名たちは、およそ100年に渡って日本全国で戦い続けました。

実力があれば下が上にとって変わることができるという風潮
自分の広げるためだけが理由ではなかった

先ほど見たとおり、守護大名は室町幕府から任命された大名のことです。一方、戦国大名は幕府と関係なく、実力で大名になった人たちでした。つまり、実力さえあれば大名になることができる時代でした。
“剋” という字は、「負かす・制する」という意味で、「下剋上(げこくじょう)」という言葉は下の者が上の者に打ち勝つという当時の風潮です。

戦国大名たちが戦ったのは、領地を広げるためだけではありませんでした。

戦国大名が戦った主な理由には、
・領地を家臣への恩賞とする
・家臣に下剋上する暇を与えない
・経済圏の拡大
などがあります。

特に3つ目の経済的な理由については、領地を広げ、農地が増えれば年貢を増やすことができます。また、港を手に入れれば交易を盛んに行うことができます。このように、戦国大名にとっては領地の経済が潤うことも重要で、経営者のような立場でもあったといえます。
戦国大名たちは、自分たちの領地をより魅力的にしようと町づくりに励んでいきます。

▶要 其の三 「都市の発展」

城の周囲に城下町が栄える
現在でも当時の城下町の面影を残す小田原市

戦国時代、戦国大名たちは、自分たちの領地を発展させるために町作りを進めました。そして戦国大名の居城を中心として、城下町が生まれました。

左図は、現在の神奈川県小田原市にあった、小田原城の当時の様子です。城の周りに家臣や商工業者たちを集め、さらに鍛冶や大工など重要な職業の人を居住させて次第に大きな都市になっていきました。
小田原市には、現在でも大工町や代官町という地名があり、当時の城下町の面影を残しています。

境は日本有数の貿易港として栄えた
寺社周囲には門前町

また、水陸交通の発達によって港町や宿場町も栄え、流通の拠点として発展していきました。左図は、当時の港町、堺の様子を描いたものです。堺は日本各地だけではなく、中国・明との貿易の港となるなど外国からも人や商品が往来し、日本有数の港町として栄えました。

さらに寺や神社に多くの人が参詣したことから、周囲に門前町が発達しました。伊勢神宮の門前町には、今も日本全国から多くの人が訪れ、連日のように賑わいを見せています(右写真)。

室町時代から戦国時代にかけて、全国各地に色々な経緯でさまざまな町が現れ、それぞれの地域で都市として発達していきました。このように戦国時代は戦いばかりではなく、町を作るということも、戦国大名の大切な役割でした。

▶日本の歴史 いとをかし

東京大学史料編纂所教授の本郷和人 先生
小京都も大名による町づくりの一つ

特別講師、東京大学史料編纂所教授の本郷和人(ほんごうかずと)先生に、話をうかがいます。

城下町や門前町のように、戦国時代の名残は現在でも見ることができますが、小京都もその一つです。各地の戦国大名が自分の領地に作った京都のような町並みが、現在 小京都と呼ばれています。これは応仁の乱が終わり領地に戻った戦国大名が、京都の栄華、すばらしさを自国にも作ろうと整備したものです。

高橋館長 「僕らが京都といえば、歴史的建造物、古い建物を思い浮かべるでしょ。」

AKB48の3人 「思います。」

高橋館長 「でも、その当時の人にとっては一番新しい建物だったんですよ。」

本郷先生 「そこが一番大事なんですよ。当時の人たちからすると、一番新しい、一番流行の最先端、それが小京都。」

高橋館長 「新しい町作りをする時って、その時に一番流行っているものを見て、あれと同じものを作ろうって思うんですね。あんな巨大なものはできないけど、それに似たものを作るということですね。」

大名は町の顔として親しまれている

本郷先生 「本当に面白いなって思うのは、鉄道に乗って地方都市の駅に降りるじゃないですか。すると、よく駅前に戦国大名の銅像が建っている。一番有名なのは山梨。」

高橋館長 「武田信玄像。武田信玄さんが、駅の前にいます。」

本郷先生 「地元の方に、武田信玄なんて言ったら怒られちゃうんですよ。信玄さんとか、信玄公って言わないと。」

高橋館長 「町の英雄なんですね。」

向井地 「自分の町の顔、なんでしょうか。」

本郷先生 「顔ですね。考えてみると、ずいぶんひどいことされていると思うんですよ。税金をごっそり取られたり。だけどそういうことではなくて、自分たちの町のリーダー、英雄、そんな感じでとらえているんですね。」

高橋館長 「そういう人たちがいた中で、今度は、織田信長さんとか豊臣秀吉さんがまとめていこうとして、国になっていくんですね。これからが楽しみになってきましたね。」


【地学基礎】第17回 第2編 地球の変遷と生物の進化 変動を記録する地層


「しゅう曲と断層」 「不整合」 「変成岩」

地学基礎では、地球調べ隊の関口隊長と垣内隊員、そして地球調べ隊の顧問の先生が、地球の謎に迫ります!

今回のテーマは、「変動を記録する地層」。
地層には、かつてそこで起こったさまざまな地殻変動が記録されています。この記録を調べることで過去の出来事=地史を探ることができます。
今回のキーワードは、 「しゅう曲と断層」、「不整合」、「変成岩」 です。

垣内隊員は、地層に記録された出来事を探るために、地球調べ隊顧問の鎌田祥仁先生と、神奈川県三浦半島の城ヶ島にやってきました。

先生がまず案内してくれたのは、「馬の背洞門(うまのせどうもん)」。真ん中にぽっかりと穴があいている大きな岩です。
これは、300万~500万年ほど前に海の底でたまった地層が、海水面近くまで隆起し、海の波によって地層の弱い部分が削られてできたものです。
垣内隊員は、大地の変動を実感しました。

次に観察したのは、地層が波のように曲がっているしゅう曲です。
地下深くで長い年月の間、水平にたまった地層に両側から押す力が加わり続けると、波のようにしゅう曲することがあります。
また、力が加わった結果、岩石が割れて、割れ目に沿って地層がずれることもあります。これを断層といいます。

断層は大きく3つのタイプがあります。
 ・逆断層 : 両側から押された結果、片方が重力に逆らって上にずれたもの
 ・正断層 : 両側に引っ張られた結果、片方が重力に従って下にずれたもの
 ・横ずれ断層 : 水平方向に逆向きの力がはたらいた結果、水平にずれたもの
です。

「しゅう曲」と「逆断層」は、どちらも両側から押す力が加わったときにできます。しかし、あるときは地層は曲がり、あるときは地層が切れる・・・
この違いは、一体何なのでしょうか。

実験で確かめてみることにしました。
小麦粉とココアを交互に重ねた地層を、2つ用意します。
1つは、ふるいで粉を落としただけの柔らかい地層。もう1つは、上から強く押し固めた地層です。
それぞれ両側から力を加えると・・・
柔らかい地層はしゅう曲し、固い地層は逆断層ができました。つまり、しゅう曲と逆断層の違いは、「地層の固さの違い」が1つの要素ということになります。しかし、実際には、いろいろな条件が重なって、しゅう曲になったり逆断層になったりします。

垣内隊員が次に訪れたのは、神奈川県横須賀市にある荒崎公園です。ここでは不整合を観察することができます。

上下に重なった2つの異なる地層の堆積で、上の地層と下の地層では堆積した年代に大きな時間のへだたりがある場合、2つの地層の関係を「不整合」と言います。
不整合は、2つの地層の層理面の傾きが違っていて、この間に地層を曲げたり隆起させたりする地殻変動が起こったことを示しています。2つの地層の境目には、波や風などで削られた侵食の跡があったりします。
それぞれの地層の年代から、地殻変動が起こった時期を推定することができます。

砂や泥が堆積してできた「堆積岩」や、マグマが固まってできた「火成岩」が、地下深くで高い温度や圧力にさらされると、元の岩石の組成や鉱物の種類が変わり、新しい岩石ができることがあります。これを、変成岩といいます。

変成岩には、マグマの高温の熱で変成するものと、プレート境界で受ける高い圧力で変成するものの2種類があります。
古代ギリシアのパルテノン神殿などに使われている大理石は、石灰岩がマグマの熱にふれて変成したものです。日本庭園の敷石などに使われている片麻岩は、プレート境界の地下深いところで高い圧力にさらされてできた変成岩です。

地層や岩石には、過去の出来事がしっかりと刻まれています。これらを分析し研究することによって、これから起こるであろう未来の地殻変動も予測することができるのです。



【仕事の現場】第16回  スタイリストの仕事

 オシャレな女の子の間で大人気の職業、スタイリスト。雑誌やTV、CMなどの撮影で、出演者に衣装や靴、アクセサリーをコーディネートする仕事です。華やかなファッションの世界で、センスを武器に大活躍。でも、あの仕事ってどうやったら就けるの? 資格は必要なの? そしてどんな苦労があるの? TV番組で自分のコーナーを持ち、ブランド・プロデューサーとしても活躍している小山田早織さんが今回のゲストです。野呂さんの爆笑エピソードも登場するスタイリストの仕事、

働く先輩紹介: 小山田早織(おやまだ・さおり)さん

埼玉県所沢市出身の28 歳*。フリーのスタイリストとして雑誌やテレビで活躍を続けている。
元々歴史の先生になりたくて大学へ進学。ところが入学式当日に雑誌社から読者モデルにスカウトされた! その後、あるデニム会社から自分のブランドを立ち上げることに。そのカタログ作成でコーディネートの魅力にはまり、スタイリストの道を歩み始める。
スタイリストになるには、プロのスタイリストのアシスタントとして3 ~ 5 年ついて、独立するというのが一般的。資格は一切必要ないが、毎日始発から終電まで洋服に埋もれて働くのはかなりハード。でも、負けず嫌いで初志貫徹がモットーという小山田さんは、「いつか表紙のスタイリングを担当する!」という一心で乗り切った。
やりがいは「小山田さんのスタイリングが好きです」と言われること。
いいスタイリングをすればモデルも喜ぶし、そのファンも喜ぶ。さらに雑誌が売れればアパレル会社も喜ぶ。とにかく自分の力でたくさんの人を喜ばすのがやりがいにつながるとのこと。

お仕事データ【スタイリストの仕事をするには?】

まずスタイリストになるためには、プロのスタイリストのアシスタントにつくことが絶対条件。
通常は3 ~ 5 年、半人前としか認めてもらえない状況で頑張らなければならない。でもファッションが好きで、自分のセンスに自信があったら人生を賭けても惜しくない職業といえるかも!
プロのアシスタントにつくには、いくつかの方法がある。アシスタント事務所に入って、派遣先でさまざまなスタイリストについてから好みの人にアプローチしても良いし、専門学校で紹介されるケースもある。またファッション誌には、よくスタイリストのアシスタント募集の告知が出てい
るので要チェック。最近はスタイリストのSNS に直接応募する人もいるそうだ。
小山田さんのSNS にも、毎日のように問い合わせがあるとのこと。大切なのは「どういうスタイリストになりたいか」を明確にすること。そして、なりたいジャンルのスタイリストの門をたたくのが一番確かだそうだ。

【仕事が好き・ファッションが好き】

雑誌のスタイリングでは100 軒ものアパレルブランドを回って、好みの洋服を借りて来る。ワンボックスカーの中にギューギュー詰め込んで、それが10 台分にもなるそう! ハンガーでタコができるのは当たり前で、指先から出血した経験もあるという小山田さん。でも、仕事でクタクタになると、気分転換に訪れるのは決まってファッションビル。「私ってビョーキかな?」と思うそうだけど、好きなことをやるのってそういうことだよね!


【簿記】第13回 取引の記帳 支払いを先にのばせる ~手形の取引


 記録

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