読書備忘録

私が読んだ本等の日々の
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五木寛之 著「親 鸞」上・下

2010-03-21 | あ行
宗教小説として読むか、中世の歴史物語、と見るのか、苦悩し悩む人間親鸞が描かれています。
混迷と激動の時代を疾走した巨人。
その苦悩は、現代人の我々と同じような悩みであり、しかし親鸞のその決断と生き方は現代を生きる者の参考になるのだろうか。
『今、なぜ親鸞か。それは私たちの時代がいままさに「 疑 ( ぎ ) 」と「 迷 ( めい ) 」の闇のまっただなかに滑りこんでいこうとしているからである。
「 貧 ( ひん ) 」と「 老 ( ろう ) 」が切りすてられる時代がはじまったからだ。
親鸞はまさにそのような時代に呼ばれた人物だった。彼の天才は知識ではない。
論理でもない。人間が生きるために悪たらざるをえない状況において、その悪を深く知覚する天才だった。
そして悩み多き時代に、人びとの何百倍も深く悩みぬく「悩みの天才」だったと私は思う。だから いま なのだ。』 五木寛之(新聞27紙への「親鸞」連載にあたってより)
上巻では幼少の親鸞が思いがけず世俗の底辺の輩達と交わり、比叡山での修行を経て六角堂での百日参籠に入る場面までが描かれています。
下巻では結婚妻帯、極悪人も本当に救われるのか?!愛と暴力、罪と罰に苦しみながら、師、源信との関係や他の弟子達との軋轢など越後流罪までが。
親鸞は、忠範(ただのり)、範宴(はんねん)、綽空(しゃくくう)、善信(ぜんしん)、親鸞(しんらん)と物語の中で幾度も名を変えていく。
名を変えることは過去の名声をも捨てること。 清貧に生きることによって到達した境地、真実を求めて時代の闇を疾走する青年の姿が活き活きしています。
人の一生とは何か?念仏を唱えるだけで本当に人は生まれ変わることが出来るのか?
愚者か?悪人か?聖者か?地獄は一定と覚悟し、善く信じることの難しさ。徹底して愚かな自己に帰る事によってしか到達し得ない、本当の信心とは。
『人間は生きながらでも生まれ変われる事が出来る。 それは他方の考え方を認めること』
親鸞という日本が生んだ偉大な宗教家の信仰や、哲学がやさしい言葉で理解しやすく書かれていますが、それゆえの読物としての面白さには不満も残るところ。
この本では書かれていない越後流罪から89歳までのその後を是非読んでみたい。

2010年1月講談社 刊


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