山陽新幹線の高架下からは、本丸南西隅の伏見櫓を仰ぎ見ることができる。伏見櫓は三層三階、初層、二層は同じ大きさで、西方向からみる入母屋破風の妻側は3間で、東西は9間あり、その上に小さな三層を載せている。手前の石垣は二の丸の神辺一番櫓跡の石垣で、福山市近郊の神辺城からの移築と言われている三重の櫓が建っていた。
天守の建つ本丸からは西方向に約400m小高いところに西の丸があった。西の丸に開かれた石山門は、昭和20年の戦災で焼け落ち枡形の石垣だけが今も残る。
さらに西に向かって西の丸の石垣が築かれ、石垣に沿った道路は内堀を埋め立てた跡だ。
石垣が途絶える辺りから石垣の先を見上げると、西の丸に現存する二重二階の西手櫓が垣間見える。櫓に覆いかぶさるビル群は内堀の中に建っていることになる。
大手門跡から三の丸に続く石段の脇には、筒狭間や矢狭間をいくつも並べ設けた三の平櫓東土塀が現存し、国の重要文化財に指定されている。姫路城の土塀に比し規模は小さいが、標高400mを越える山上に往時のまま残されておりことがすばらしい。
本丸表鉄門の脇の包(鼓)櫓台石垣下には、本丸東側の帯曲輪に通じる十四番門が築かれた。津山城には大小33基もの門が存在したが、十四番門跡の石垣を見ると、人ひとりがやっと通行できる幅の狭い極小の門であったと思われる。
(十四番門跡の内側)
昨日、60年に一度の大遷宮で賑わう出雲大社に出掛けてきました。鳥取市内からは車で3時間、少し遠く感じました。当日は、本殿まで進むことも許され、縁結びの神様により近いところでお参りできました。
その後は、神門通りで出雲発祥の「ぜんざい」をいただきました。「ぜんざい」は出雲地方の「神在(じんざい)餅」に起因し、「じんざい」が出雲弁で訛り「ずんざい」さらには「ぜんざい」となって、京都に伝わったということです。
神門通りには、一畑電鉄が乗り入れています。駅構内には古い車両が展示してあり、カメラを向ける人も多いようです。
大手の擬宝珠橋から南方の内堀に面する石垣は、低い石垣を2段重ねた造りで、北方の石垣とは異なる。石垣の中央部分を凸状に突き出した横矢桝形は、長い石垣の補強と横矢を掛ける守りを高めた。内堀の先は埋め立てら、武道館が建てられたが、武道館の裏手は南御門跡だ。
りの門を抜け、備前丸の石垣沿いに進むと、備前門の前に出る。備前門は折廻櫓に続く切妻の櫓門で、門の右側には転用材の石棺が縦使いされ、見栄えを良くしている。左側には横置きの石棺があり、石垣の隙間からは棺の縁部分が垣間見える。
天守から見下ろすと、備前門の前には井郭櫓や帯の櫓が建ち、まさに勝手口のようである。
正保2年(1645)の絵図によると、明石公園内の第1野球場辺りは、水堀に囲まれた居屋敷があったところだ。その内野スタンドからは、本丸に並び建つ巽櫓と坤櫓の三重隅櫓の西南面を見ることができる。ともに現存する櫓は、国指定の重要文化財だ。
二の丸大手門は枡形を二つ連続させていた。屋根を付けた土橋を上がりきったところの櫓門をくぐり最初の枡形に入り、右に折れたところに中門を設けた。中門をくぐると二つ目の枡形で、左に折れ鉄板を張り付けたくろがね門に行き当たる。枡形を成す石垣上には二重櫓、多門櫓を廻らせて守りを厳重にした。
北千畳から本丸を望む。手前は三の丸の石垣だが、三の丸、二の丸は左側へ湾曲して築かれているため、北千畳と本丸の間は深い谷となっている。杉木立の向うは下から奥段の石垣、二の丸から本丸へ通じる石垣、本丸の石垣、そして最も高い天守台の石垣が重なってそびえる。