昔の丸窓電車を偲んでドア寄りの窓を丸窓に変えています.元来は戸袋の窓ですから開閉不能でしたが,先頭車のドア後部の窓のように開閉可能なようです.
これは千曲川にかかる上田橋を渡り,高架になった上田駅に進入するところです.
これは千曲川にかかる上田橋を渡り,高架になった上田駅に進入するところです.
南小谷のあずさ24号後ろ姿,終着点らしく手前の線路は赤くなっている.往路長野新幹線からバス,帰路大糸線,篠ノ井線,中央本線のあずさ24号.帰路は4時間14分と結構遠い,のぞみなら広島の時間だ.往路の方が楽な感じがした.鉄道はやはりスピードを上げないと勝てない感じがする.若けりゃくるまだな.それにしても往路のおばさんの団体のうるさかったこと,蜂の巣壊して雀の学校.日本でもクワイエットカーが必要になりますね.
9月12日の東京新聞,横軽が観光鉄道として復活するとか.あさまの車両を使うとかディーゼル機関車を用意しているとか書いてあるけど,大丈夫かな.電車なら箱根登山のような軽いのがよいでしょう.ディーゼル機関車でも重い車両はきつい.全部電装をはずすのかな.架線も残っているし,詳細が分からない.
今日午後テレビでDarjeeling Himalayan Railwayをやっていた.私には身体条件から訪問可能な場所ではないが,ゲージ600,時速20km/hくらいでで走行中に乗降できるくらいの早さというと嘗ての草軽電鉄を 思い出す.モータリゼイションの進んだ日本では生き延びられない.新軽井沢から草津温泉まで1日4本6時間くらいかけて走っていた,軽井沢駅には運んできた黄色い硫黄が山積みになっていました.線路跡は小瀬温泉から白糸の滝付近だけが有料道路として残っています.今残っている建物は北軽井沢駅くらいだ.写真の建物の右側に線路があったようです.今は観光協会が使っています.軽井沢から上州三原までは1959年に廃止されたので,もう46年も経ちました.あとは古地図でしか忍べません.
妙高高原へ行って来ました.昔々在籍したことのある中学校の同窓会に出席しました.その頃は今の妙高高原駅は田口駅と言って,進駐軍のRTO (Railroad Transportation Office) があり,我々の汽車は窓がベニヤ張で小さいガラスが明かり取りのために付いているような状態でしたが,進駐軍専用列車はスチームをもうもうとさせて走っていました.接収された赤倉観光ホテルに来るための列車でした.我々は電休日と言って週に2日くらいは蝋燭生活でしたが,彼らは明々とナイトスキーをやっていました.
その後特急「白山」や「あさま」で賑わった時代もありましたが,今は優等列車は一本も通りません.右下の妙高号は名前も付いていて指定席もありますが朝の上り2号の高田-妙高高原間を例外としてあとは全部各駅停車です.北陸新幹線が延長したらこの辺はどうなるのでしょうか.
その後特急「白山」や「あさま」で賑わった時代もありましたが,今は優等列車は一本も通りません.右下の妙高号は名前も付いていて指定席もありますが朝の上り2号の高田-妙高高原間を例外としてあとは全部各駅停車です.北陸新幹線が延長したらこの辺はどうなるのでしょうか.
1997年に長野新幹線の開通で廃線となった碓氷線は一部復活してこの図の直ぐ手前にポイントがあり,峠の湯まで一日4往復ほどのディーゼルカーが鉄道文化園からやってくる.この写真の所は廃線と言っても線路が錆びてはいるものの架線も残っている.よく見ると右側の少し低いところには上り線が草叢に歿する状態であるのが分かる.1963年に廃止されたアプト時代の線路跡は碓氷第三隧道まではアプトの道となっていて歩いて行けるようだ.行ってみたいと思っているがまだ車で旧道を走ったり,霧積温泉へ向かう道を通り旧線を辿っただけである.
上田駅は新幹線の駅に呑み込まれたように見えますが,上田交通と上の方に書いてあるビルがあります.そこからカーブを描いて上田城趾の濠にあった線路跡の遊歩道迄の間は上田交通関係の駐車場になっています.遊歩道にかかる橋があり,その下に昔公会堂下と言っていた停留所のホームの跡が残っています.遊歩道は今はほとんど平ですが,電車は勾配を上っていたはずです.北大手の駅跡は何もありませんが,その先国道を横断する手前の矢出沢川に橋台の跡が残っていました.もう少し上流で川原柳駅の手前にも矢出沢川を渡る橋台が残っています.