メランコリア

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石井竜也~父の思いを背負って 老舗和菓子屋の誇り~@ファミリーヒストリー

2018-06-01 12:47:31 | テレビ・動画配信
石井竜也~父の思いを背負って 老舗和菓子屋の誇り~@ファミリーヒストリー

【司会】今田耕司,池田伸子 【語り】余貴美子

こんなにカッコよくて、オシャレなのに年齢聞くとビックリ
声も情熱も変わらないし、むしろ進化しつづけている

初めて米米を聴いたのは高校の時かな 友だちが面白いってすすめてくれた
地方に住んでて、すぐにライヴに行ける環境じゃなかったし、
その頃の音楽番組にはまだあまり出てなかったんじゃないかな
友だちからテープを借りて聴いていたと思う

SONGS 米米CLUB


【内容抜粋メモ】

絵画、彫刻、映画製作など多才な活躍を続けている









91年続いた老舗和菓子屋の長男として育った







い:
すごかったですよ、僕が小さい時のイメージは
15人から20人が常に行ったり来たり
折詰はみんなでやってるし おばちゃんたちが夜遅くまで
そこかしこが職場になっちゃうわけですよ


店の歴史や家族のルーツについては詳しくは知らない


い:
自分も58を迎えて、あと何年かで60じゃないですか 娘もいるし
自分がどういうところから出てきて、どんな人間なんだっていうことを
娘に伝えることも大事かなって


<劇場に入ってきて>

い:なんか硬いですけど表情が緊張して




●出身 大津町は港町



父は9年前に他界
母も石井家の歴史は詳しく聞いていない



母・光子さん(84):
石井竜也の母でございます
こういうことになるんだったら、おじいちゃんにもっとよく聞いておきたかったね

(なぜかもう汗だくなのは、石井家の体質?


●石井家のもっとも古い戸籍の住所を訪ねた
曽祖父ツルジは矢祭町生まれ



家が残っていて、親族が住んでいる



(にゃんこがいる!

「ひいおじいさんだと思うんですけど、たぶん、ここから出た方だと思う」

石井家に伝わる掛け軸には石井長左エ門義隆の肖像画がある
長左エ門はこの辺の年貢米を集めていた名主 農民ながら名字帯刀を許された




「石井商会」
明治に入ると儀助は米問屋「石井商会」を始める(さっきから米つながり/驚

今田:米!
い:米米CLUB! 全然知らなかった



儀助は米問屋をするかたわら、地元に神社を創建し、神官も務めた





い:初めて見るな 感動だな、コレ!

現在の宮司、郷土史家でもある片野宗和さん:
祖父にも聞いていたが、金澤村に過ぎたるもの3つあるということで、「村社 太鼓 石井儀助」



長男ツルジは幼い頃から書画に親しむ芸術を好む少年だった
19歳で家を出て、私塾で学ぶ

当時、ツルジが兄ギスケに宛てた手紙を長持ちから出す片野さん(よくとっておいたねえ!
い:ここまで調べるんですか! へえー読みたい


●福島・いわきにあった「培根塾」



いわき総合図書館館長・夏井さん:「培根塾」で子どもたちに教えたのが室桜関



夏井さん:
これからの時代はどういう方向に向いていくのかということを
たぶんツルジさんは教えを受けていると思います


だが、ツルジは体を壊して、ギスケの営む米問屋を手伝う



明治36年 37歳で、水戸の農家の娘あくりと結婚(『ACRI』!?

明治39年 友則(後の祖父)が誕生

明治43年 ツルジ一家は大津町へ移り住み、そこでも石井商会の仕事を手伝う
港に着く米や小豆について兄に手紙で伝え、商会の商いは順調に伸びていく

当時の高額納税者の中にツルジの名前がある 「明治版 茨城名士録」
その横には美術家・岡倉天心の名もある(!




●大津町 五浦 「六角堂」
ツルジが大津に来る5年前、岡倉はここの景色に惚れ込み「六角堂」という庵をつくる



東京・谷中から「日本美術院」を移した





天心は親交のあった横山大観らを呼び寄せる
(この辺は美術に詳しいから知ってるのか、しきりに話してるてっぺーちゃん



ツルジは芸術の香りがするこの土地に惹かれた

経済的に豊かになったツルジは「日本美術院」に所属する画家たちの絵を買った

木村武山、飛田周山の「鍾馗(しょうき)」(中国に伝わる神 病気から守るといわれる)など



「ギスケさんは、米の暴落で金融業からお金を借りて、商売に失敗したという話は聞いています」

大正に入ると商会の経営は行き詰る

ツルジは家族を養うために新たな商売を立ち上げる
その時ギスケは「大きな商いはするな」と言った

 

「石井家は人がいいから商売はやるなって言い伝えなんですよw」

手紙には「菓子製造業を極小さく営みたい」とある


大正3年 ツルジは和菓子屋を創業
兄の商売で知り合った小豆や砂糖を使う商売
大津で初めて本格的な和菓子屋となる

まず手がけたのは米粉を使った「らくがん」
まだ大津では珍しく、石井屋の名物となる



い:砂糖がすごく貴重だったんですよね

大正時代のチラシには、支店を出すほど繁盛したことが分かる




ツルジの長男・友則(後の祖父)
父の影響で幼い頃から書や絵に興味を持ち
画家を目指すようになるが、父はトモノリに店を継ぐことを厳命する 「石井屋を絶やすな」

トモノリの五男・石井孝彦さん:



トモノリさんは、本来なら自分の好きなこと、やりたいことがあったが
ツルジから「お前は長男だから跡を継げよ」と
兄弟が5人もいたから、学校行くのを断念して
弟たちをみんな学校に行かせたって感じだね

トモノリはすぐに才能を発揮し、「潮風もなか」は人気商品となる




昭和5年 トモノリはきよと結婚し、長男・昭雄(後の父)ほか次々と子どもに恵まれる





今田:ルーツが米入っているっていう (バンドの命名に)関係ないんですよね?

い:
全然関係ないですねw(たしか、チラシとかで見た時に※に似てると目に留まりやすいからとかじゃなかったっけ?
人の人生の流れっていうのは、自分では分からない流れがあるんだと思いますね

今田:神社をやっていたことは聞いていた?

い:
聞いていたんですよ
だから、僕が今歌っているのも、神社も歌に近いじゃないですか

今田:
米米CLUBっていうバンド自体も“神社感”強くないですか?
ジェームズ小野田さんがいたりとか なんか七福神じゃないですけどw

い:何かのジャンルに入らないものを作りたかったんですよね


昭和16年 太平洋戦争
当時、砂糖や米は配給だったため、石井屋では思うように菓子作りが出来なくなる





戦況が厳しくなった昭和20年4月12日、大津の空をB29が通った
福島郡山を爆撃した後、南に向かっていた
突然現れた編隊に一人の兵士が銃を撃った

当時、大津には住民に知らされていない基地があり、「風船爆弾」をつくり
大津上空のジェット気流を利用し、アメリカ本土へ爆弾を落とす作戦を密かに進めていた
(ほんと馬鹿馬鹿しいことをしたもんだねぇ・・・






石井屋の近所に住んでいた赤津さん(85):
軍隊がいたものですから、高射砲の小さいやつで
(戦闘機に向けて)パンパンって撃ったんだよね
小さい爆弾を持っている爆撃機が来て、
パラパラっとこの町に落とされちゃったわけ

編隊が気づいて、大津に急旋回し、爆弾を投下した(なんてこった







防空壕にいたツルジが倒れた 爆撃のショックによる脳出血
昭和20年 爆撃から3日後、78歳でツルジは亡くなる


●焼け野原になった大津で、トモノリはいち早く石井屋を再開
「父が始めた石井屋を守ってみせる」

砂糖が手に入らない中、かろうじて作れたのは「芋あめ」(美味しそう
サツマイモを炊き上げ飴状にした菓子



当時近所に住んでいた大津出身のピッチャー・鈴木康二朗
この芋あめが大好きでよく買いに来ていた
王貞治が765号ホームランを打った時の投手






長男・アキオ(父)
石井屋の経営は順調になってきた



長男・アキオは、父と同じく絵を描くのが好きで、六角堂の辺りでよくスケッチをした(そういう家系なのね



アキオの同級生・小野さん(87):モテましたよ マスクがいいですから 成績も優秀です

中学を出る頃、アキオは進路に悩んだ



父からは3代目として店を継いで欲しいと言われていたが、商売に興味は持てず
東京の大学に進学したいと打ち明ける

「働きながら、夜間の大学に通うので許して欲しい」と頼み
トモノリは大卒後に家業を継ぐことを条件に東京行きを許す


昭和24年 アキオは早稲田大学第二商学部に入学
だが、毎日のように新宿、浅草で映画を観ることに夢中になり、俳優を志すようになる
大学を中退して、映画会社のオーディションを受けた





孝彦さん:
オーディションを3つくらい受けたのかな 東宝、松竹、大映
宝田明のほうが身長が高かったから、兄貴落とされちゃった
宝田明がいなかったら受かっていたかもしれない
また道が違ってたかもしれない


それを知った父はアキオをすぐに呼び寄せ
店を継がせるために一刻も早く仕事を覚えさせようと思う

アキオは渋々、店を手伝うが身が入らず、映画館通い

アキオの妹・ひで子さん:



そうすると「早く映画館行って探してきな」って
行くと、昼間なんか何人も入ってないから
(映画館の人が)「アキオさん来てますよ」ってw

孝彦さん:
兄貴は「オレは大津にもう帰ってきたくなかったんだよ」って言ってた
「なんでこんなことやってんのかな」って


そんなアキオを見て、父は見合い話をもってくる
所帯を持てば、家業に専念するだろうと考えた
その見合い相手が鈴木光子(後の母)




い:
やっぱり(父は)遊び人だったみたいですよ
今までなんか「お菓子屋やんなきゃいけないんだ」みたいなのが
東京来て、パァッとはじけちゃった

今田:もし大津に戻らず、映画スターになられていたら、全く違う人生というか

い:
そういう人生の端っこがあったから
僕のことを東京に行かせたかったっていうのもあったかもしれない
自分の夢の続きじゃないですけれども


<鈴木家のルーツ>

母:
鈴木家の昔のことでしょ 何だろう ないですよ、きっと
要らないと思ったらみんな捨てちゃうよ 聞いてないもの、だって

(お母さんお茶目


いわき市 湯本町

いとこ・鈴木洋一さん:(い:よく遊んでたのw



随分古いものなんですけど、鈴木家に代々伝わる太刀1本と脇差1本は残っています(あるねえ!
一番初代が湯長谷藩に仕えていた藩士という話は聞いています


鈴木家は武士の家柄 映画『超高速!参勤交代』で描かれた藩(!



郷土史家・遠藤さん+地図を所有する大平さんに聞いた

遠藤さん:ここに入っているということは、「江戸詰め」に住んでいたということ



鈴木良光の家が先祖と言われる
い:へえ! だから光子なんだ

「戊辰戦争」(慶応4年)では幕府側についた
道直(曽祖父)もこの戦いに加わるが、湯長谷藩は新政府軍に攻略された



道直の長男・道政は、「西南戦争」で政府軍の一員となり戦死
跡継ぎがいなくなった鈴木家に養子として入ったのが道治(曽祖父)
い:へえ、養子だったんだあ!


道治(曽祖父)
ミチハルは地元の小学校教師となり、教育熱心で校長まで務めた
「どうじ先生」と呼ばれて、教え子たちが建てた碑にその功績が伝わる





碑に刻まれた文字:新式のオルガンを備え、木馬、鉄棒、フットボール等をとり入れた

ミチハルの長男・道太郎も教師になった その長女が光子(母)



光子:家柄が硬かったし、親が先生でもあったし、私、頭が悪いから、先生嫌いなんですよ、正直w




●服飾に興味があったミツコは、東京の「文化服装学院」に進んだ
(この辺もてっぺーちゃんとつながるね





ミツコはそのスタイルの良さでファッションショーのモデルに抜擢(キレイ!

 

卒業後、浅草の洋品店に勤める



親類から見合い話がくる それがアキオ
ミツコは垢抜けて、ソフトな人当たりのアキオにひと目惚れする

光子:
田舎にもこんなステキな人もいるんだなぁって、そりゃ思うでしょ
キレイだったじゃないですか、主人もね(“も”ってw
そりゃドキドキしますよね、誰だってね(ドカドカって聞こえたような?
本音が出てきちゃったw

(これは美男美女のカップルだあ! とっても明るいお母さんw


●昭和34年 2人は結婚 アキオ(29)、ミツコ(26)



ミツコは若女将としてすぐ石井屋を切り盛りする
石井屋は冠婚葬祭の菓子などで順調に売り上げを伸ばす





ミツコ:
昔は結婚式ってみなさんおウチでやってたじゃないですか
田舎なんかとくに 結婚式場ってないものね
そうするとドーッと注文がくるんですよ

うちは365日、お休みがないでしょ
お正月、元日も開けちゃうんだから


昭和34年 竜也誕生







ミツコ:
やっぱり男の子が生まれたから嬉しかったんじゃないでしょうか
もう働かなくちゃならないと

アキオは目の色を変えて働き出し、新商品を考え出す
幼い頃スケッチした六角堂をモチーフにした和菓子



近所に住む鈴木さん:
六角堂は有名で、お土産でホテルに置いてあったり
一番大きいお店だったので 工場とかもあって
製造直売みたいなこともやってましたからね


石井屋の長男として大切に育てられた竜也(可愛い!



内気で大人しい少年だった 遊び場所はいつも押し入れの中(石井さん吹きだす
一人で絵を描いてばかりいた

ミツコ:
誰かが(お店に)入ってきたらスーッと2階に上がっちゃう
小さいうちから作ったり描いたりっていうのが好き

絵が得意で将来は画家になりたいと思っていた(すごい画力!





そんな竜也の才能を認め、誰より応援したのは父
わんこ見切れてる! 美奈子ちゃんも可愛い



ミツコ:
絵を描き始めたら、いつまででも寝ないでも描いてるんだから 竜也はね
お父さんは、ちゃんと竜也が眠くなるまでついてね
「人物画1つ入れたらこの絵は温かくなるんじゃないか」とか言いながら


●昭和50年代になると石井屋は苦境にたたされる
洋菓子の需要が増えたためだけでなく、大型スーパーに客を奪われ売り上げが落ち込んだ





(スーパーは便利さと交換に、こうした老舗や商店街を消していったんだな
 大量生産・大量消費でどこの品も同じになってしまった

妹:美奈子ちゃん



近所に大きなスーパーとかがどんどん出来てきてて
その当時が一番苦しい時代だったというのがなんとなく
父も母も、私たちにそういうひもじい思いをさせることは一切なかったんですけど


●竜也は高校卒業後、東京の美術専門学校に進む
父は店の経営が苦しかったものの快く送り出した



3年後、美奈子も上京



孝彦さん:
兄貴にすれば、竜ちゃんらのことは、絶対東京行かしてやる
好きなことをやれっていうことで、レジからお金を取って送るしかないわけよ
自分らのことはいいって
ただ、息子、娘のことはそうはいかないだろうと

美奈子:
(仕送りの封筒に)なんかヨレヨレの毎日毎日の日銭じゃないですけど
千円札が30枚とか、40枚とか 千円札ばっかり入ってて

そこに手紙が1枚書いてあって
「君たちの活躍を期待しています 父より」って書いてあって
郵便局でダーって泣いて「もうこれ以上、仕送りは頂きません」って


●昭和57年 竜也は、大学で知り合った仲間とともに「米米CLUB」を結成



孝彦さん:
(祖父トモノリさんは)「米が2つあんのか 米を制する者は、世界を制するぞ
米米CLUBっていうのは、すごくいいよな」っていうことは言っていた



い:へえ! ほんとにフラフラになるまで観に来てくれたんですよ

バンドはスターダムを駆け上がっていく


今田:ここまでいかがでしたか?

い:
いや~なんか涙出ますね

やっぱり何か今の自分を支えてるっていうルーツが
こんなにもサンドイッチのように積み重なって
今その一番上にオレはいるんだなあって

この下で支えてくれた人たちの、親父も入れてですけど
これは裏切っちゃいけねえなって思いますよね

今田:改めてファミリーヒストリーをご覧になっていかがですか?

い:
おウチを訪ねたり、オレに関係している人たち
まったく遠いんだけど、ものすごく近くに実はいたっていう人たちの話を

パズルのようにピースが集まってきて、オレの顔の肖像画ができるみたいな
この番組はオレの肖像画なんだなっていう風に思いましたね


何か1つのピースが剥がれても、1人いなくなってもオレはいなかったわけで
そういうピースが全部重なって、1つの石井竜也がいたんだなと思うと
なんか涙もんですね


バンドは音楽だけでなく、斬新な衣装、ステージが話題となる





バンドの才能をいち早く見出した音楽プロデューサー石井俊雄さん(元CBSソニー):



米米CLUBって、目線がどこにいっても面白い(そうそう!
そこの舞台全部を美術で覆っちゃう感じだから
そういうのにものすごくこだわりがある人なんですよ

「このぐらいでもいいじゃないか」と言っても
「いや、それはこうじゃなきゃダメなんです」っていうのが彼(竜也)の信念だから


●デビューから5年 ♪浪漫飛行 が大ヒット





父は竜也さんの活躍を誰より喜んだ



孝彦さん:
今まで石井家がくすぶっていたものがあるんだ
兄貴もそういう所に行きたかったわけでしょ 芸能界みたいな

おじいさんも、書を書いたり、絵を描いたり、ものを作ったりするのが好き
石井家が密集したものが、竜ちゃんに行ったんじゃないかなと思う


父は石井屋の新たな名物をつくる(出た、噂の「米米まんじゅう」





美奈子:
ファンの方も随分お店に来てくれて
父なんかはそれが嬉しくてしょうがないんですよね

すごい全国から来ていただけるのが有り難いので
お茶を出して、そういう人と喋ったり
「これが竜也の昔の絵だよ」って見せて自慢したり


そんな父が60歳を過ぎてから絵を描きはじめた(驚
アキオさんは、バンドのファンからもらった花を1つ1つ丁寧に描いて遺した
母:ここにあるのは全部お父さんの絵だね



大好きだった故郷・大津の海




平成17年 75歳のアキオさんは、91年続いた石井屋を閉めた



母:
自分で辞めるのは、ご先祖様に申し訳ないかなという気持ちがあったと思う
それでもやっぱり親としたら(竜也が)好きな道だったら
お菓子屋を継がせないで良かったなって



平成21年 アキオさん死去(78)


母は石井屋の包装紙を大切にしている
書が得意だった祖父が文字を書き、絵はアキオさんと竜也さんが描いた






い:ダメっすね こういう・・・家族っていいなあっていう




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