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浜松城
〶 430-0964 静岡県浜松市中区元城町 1002
☎ 053-459-4001
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2016.01.14 撮影
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あなたの知らない 天下盗り物語 出世城伝説の秘密にせまる
後に天下人となった徳川家康。その若き29~45才の頃、今川・武田・織田など戦国の世に名をあげた、周辺諸国の名家、巨大な戦国大名に囲まれ、戦い生き延びて、
そして、天下盗りの夢をつかんだ場所が浜松城でした。
生国の岡崎を離れ、駿府(現在の静岡市)の今川家で送った人質生活、青年期に織田家と同盟を結び、岡崎から西遠までを支配下におさめ、戦国大名として着実に力
をつけていきました。
家康の生涯最大の敗戦とも言えるのが、元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦です。南下してきた武田軍2万7千に対するのは徳川1万2千。天下に名のとどろく武田騎
馬軍団に多勢に無勢。無惨に敗走することになります。
この時多くの部下を失い命からがら城ににげかえってきた家康は、その憔悴した姿を像として残し、生涯この敗戦を忘れぬようにしたと言われています。
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出世城と呼ばれた浜松城
家康が天下統一を果たし、駿府に入城した後、浜松城は主に家康ゆかりの譜代大名が城主となりました。概ね5万石前後で、浜松藩政300年の間に、再任を含め、25代
の城主が誕生し、老中に5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行に4人が登用され、「はま松は出世城なり、初松魚」の旬も残されています。
特に有名な城主天保の改革で知られる、水野忠邦。唐津藩主時代に昇格のため、願い出て浜松藩主となり頭角をあらわし、後に老中となったと言われています。
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門脇の鏡石
天守門の石垣正面は左右ともに隅に巨石が用いられている。この巨石を鏡石と呼ぶ。
かつて城の壮大さや城主の権力を見せる為、門の両側や周辺に意図的に大きな石をもちいたと言われており、彦根城太鼓門
や岡山城本丸、松本城太鼓門の石垣等に類例がある。
巨石を用いた部分は算木積(さんぎづみ) (石垣の角部を強固にするために、長い石材の長辺と短辺を左右交互に振り分
けて積む積み方) になっていない。また、横長医師も不揃いで、算木積とは言えない。
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天守門
浜松城の第二代藩主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していた
と考えられる天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、払い下げられた。「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震
による浜松城の被害状況が示されており、天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻は被害を免れた事が記載されている。
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井戸
この井戸は銀明水(ぎんめいすい)と呼ばれていたと言う。浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門(うすみもん)のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、
作左曲輪(さくざくるわ)に四つ、計十本の井戸があったという。天守台の井戸は再建の時に残し、今は天守閣の地下室に有る。直径1.3m、深さは現在一m程にな
っており水はない。
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天守台地下にある井戸
城にとって重要なのが、水、浜松市史によると、浜松城には天守台の穴蔵、天守曲輪の埋門(うすみもん)そば、本丸に各1、二の丸に3作左曲輪(さくざくるわ)に4、
計10本の井戸があった。上記説明と重複してしまった、でもね上記画像は井戸と解るが”おいら”にはこの画像は、お風呂かと思ったよ。
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