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天守門を140年ぶりに復元
浜松城
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〶 430-0927 静岡県浜松市中区元城町 12-1
☎ 053-453-3872
2019.06.22
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浜松城天守台
浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台(はちまんだい)と呼ばれる突出部が
付いている。
また東側には付櫓(つけやぐら)と呼ばれる張り出し部分があり、現在は復興天守閣(ふっこうてんしゅかく)への入り口として
利用されている。
浜松城の天守は第二代城主堀尾吉晴(ほりおよしはる)の在城期 (ざいじょうき 1590頃)に築かれた説が有力だが、
17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられている。
昭和33年に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。
かつての浜松城は築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有力である。
その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい三重四階で巨大な天守だったと考えられる。
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天下盗り物語
後に天下人となった徳川家康、その若き29~45才の頃、今川、武田、織田などの戦国の世に名を上げた、
周辺諸国の名家、強大な戦国大名に囲まれ戦い生き延びて、そして天下盗りの夢をつかんだ場所が浜松城です。
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生国の岡崎を離れ、駿府(現在の静岡市)の今川家で送った人質生活、青年期に織田家と同盟を結び、岡崎から
西遠までを支配下に治め戦国大名として着実に力をつけていきました。
耐えがたきを絶え力を蓄え、力を蓄えた徳川300年の礎となった17年間の浜松城時代のエピソードを史跡とともにご紹介します。
家康の生涯最大の敗戦とも言えるのが、元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦です。南下してきた、武田郡2万7千に
対するは徳川1万2千。天下にに名のとどろく武田騎馬軍団に多勢に無勢、無惨に敗走する事になります。この時多くの
部下を失い命からがら城に逃げ帰って来た家康は、その憔悴した姿を像として残し、生涯この敗戦を忘れぬようにしたと
言われています。
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天守台地下にある井戸
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出世城と呼ばれた浜松城
家康が天下統一を果たし駿府に入城した後、浜松城は主に家康ゆかりの譜代大名が城主となりました。
概ね5万石前後で、浜松藩政300年の間に再任を含め、25代の城主が誕生し老中に5人、大坂城代2人、京都所司代2人、
寺社奉行に4人(兼任含む)が登用され「はま松は出世城なり、初松魚」の句も残されています。
特に有名な城主は天保の改革で知られる、水野忠邦。唐津藩主時代に昇格のため、願い出て浜松藩主となり頭角をあらわし
後に老中となったと言われています。
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徳川家康 像
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ここ浜松城は自宅から車で往復450kmの距離にあり ”おいら” 運転に恐怖を感じるよ。 最近老人による
交通事故が多発しているしさ、そろそろ運転免許の返納も考えなければ ・・・・・・・・・・、
でもね ”おいら” 山の中に居住しているため、路線バスも走っていないしさ
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