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韮山反射炉と江川邸
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韮山反射炉
☎ 055-949-3450
2019.06.27
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ここ、韮山反射炉は、年4回程くるのだが、今回の投稿は必要もない投稿です、じつは6月25日より飛騨高山へ
向かおうと鬼っていたが、天気予報で25日は天気が悪いと言っていたので出発しなかったが、25・26・27日と空は
ドンヨリしているものの雨は降っていない、25日に出発していれば今日27日には帰ってこれた、そんな訳で今日
ブラリと目的も無しに反射炉に行って来たのです。
”おいら”の居住区は今夜から28日早朝には、台風に変わった低気圧も通過するみたいなので、明日(28日)天気
しだいでは有るが出掛けようと思っています。
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焚所風入口と灰穴
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江川邸
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江川家の沿革
江川家は清和源氏の流れをくみ、源満仲の二男宇野頼親を家祖とし、宇野姓を名乗っていた。
6代親治が保元の乱(1156)を避けて、その孫親信が従者十三人と伊豆の韮山に定住したと伝えられる。
この十三人の子孫は現在でも江川家住宅周辺の金谷地区に居住している。親信の子冶信は、この地に流罪
となっていた源頼朝の平家に対する挙兵(1180)に応じて参戦し江川庄を賜ったと言える。
その後鎌倉時代、室町時代と伊豆の豪族として地盤を固め、15世紀中頃に、狩野川の支流の名にちなんで姓
を江川と改めた。
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↓ 生き柱
江川氏がこの地に移り住んできた時、生えていたケヤキの木をそのまま柱として利用したとされる柱。
現在の主屋よりさらに古い、前身となる建物の柱だったと考えられる。力学的いは必須の柱ではにが江川氏
の歴史と伝統を物語る存在として、長年にわたって大切にされてきた。
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↓ 西 蔵 (肥料蔵)
幕末頃の建築で、正面から見ると将棋の駒のような形をしているこから駒蔵(こまくら)と呼ばれる。 また、
四方の壁が内側に向かってわずかに傾いた「四方ころび」といわれる技法で建てられている。
↓ 南米蔵 (左) ・ 北米蔵 (右)
南米蔵は明治25年(1919)建築、どちらも、内部を展示スペースとして公開している。
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