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みちのく 伊達正宗歴史館
〶 981-0213 宮城県松島町松島海岸
☎ 022-354-4131
2018.11.21
伊達正宗公
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↓ 痛恨の出来事 正宗・疱瘡(ほうそう)の為、右目失明
修験道では幣束(へいそく)のことを梵天(ぼんてん)と呼ぶ。
出生のおり湯殿山(ゆどのさん)の幣束を産屋の屋根に安置させ、義姫(よしひめ)の見た夢にちなみ名が付けられた。
正宗の幼名を梵天丸と言う。
五歳になって痛恨の出来事が起こった。
疱瘡(天然痘)にかかったのである。大病であった。一命はとりとめたが右眼を失明してしまった。
梵天丸は、片目を失ったことにより、幼くしてその辛さ恥しさに耐えなければならなかったので有る。
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↓ 正宗の養育に決定的影響を与えたのま名僧、虎哉禅師(こさいおしょう)とお守役・片倉影綱(かかたくらかげつな)
父・照宗(てるむね)は梵天丸(ぼんてんまる)を愛していた。いずれは伊達十七代の家督(かとく)を継がせようと思っていた。
だが、片目であるため、その心までもゆがみめじれて、秘かに心を痛めていた。
そこで、当時名僧と言われた虎哉和尚(こさいおしょう)を梵天丸の師として招いた。
虎哉宋乙(こさいそういつ)、美濃の人で、かつて快川紹喜(かいせんしょうき)に師事し、後に下野雲岩寺(しもつけう
んがんじ)住持、大虫(だいちゅう)とならんで天下の二甘露門(にかんろもん)と言われた名僧であった。
また、お守役として片倉小十郎影綱(かたくらこじゅうろうかげつな)をあてた。
影綱は梵天丸より十歳年上の俊才(しゅんさい)、俊才、剛直な若者であった。虎哉和尚から仏教や漢学、五山文学
の教養をうけるとともに、影綱を相手に梵鐘丸は、激しい武芸の修行を続けた。
(幼少にして右目が傷ついていたのが画像より解る)
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↓ 若年時代から正宗は学問好き、文学、誌歌には特別の才能を発揮した。
梵天丸の非凡さをみて、輝宗は満足であった。そして虎哉和尚や相田康安(あいだこあん)らと相談して幼い
頃から誌歌、茶道、書道、能など文化人としての教養を身につけさせようとした。
十一歳の年の正月七日には、佳例(かれい)によって七草の連歌の会に出て
暮わかぬ月になる夜の道すがら
という句を詠んでいる。
連歌に、そして書道に、梵天丸は天性の才をみせて、輝宗や虎哉和尚を喜ばせた。
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↓ 歳若き伊達正宗の結婚
天正5年(1577)十一月十五日、十一歳になった梵天丸は元服、藤次郎政宗(ふじじろうまさむね)となった。
天正七年(1579)冬、雪の舞う米沢城に、美しい花嫁の輿入れ行列が到着した。
花嫁は三春城主、田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫・迎える花婿は輝宗の世子政宗、このとき花婿十三歳、
花嫁十一歳。
内裏雛のような可憐な花嫁、花嫁の式が雪舞の城中でおごそかに行われた。
片目の若者も今宵は盛装で、体一ぱいに緊張を見せていた。そのりりしい若殿ぶりに家臣たちは、祝い酒に
ほほを染めながら政宗に期待と祝福を送っていた。
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↓ 侵略に 立ち向かう十五歳の若者、初陣の政宗
天正九年(1581)五月、輝宗は魔下(きか)の兵を率いて、相馬小高城主〈そうまおだかじょうしゅ)の相馬守胤
(そうまもりたね)と戦った。
守胤は伊達の支城を次々におとし、伊達の本領である伊達郡や志夫群まで侵し始めていた。
輝宗は失地回復のための反撃にでた。この時、政宗初陣。ときに十五歳だあった。
陣太鼓や法螺貝の響き渡る伊達領の荒野を、影綱や従弟の成実(しげざね)ら旗本勢を率い、政宗は駿馬(しゅんめ)
にまたがって縦横に駆け、盛胤の軍を蹴散らした。
伊達の小冠者、あなどりがたしと近隣の大名たちは、改めて政宗に注目したのである。
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↓ 1584年、18歳的政宗為伊達家的當家。 為慶賀面来的小濱城主一大内定岡、曾發誓要臣服於伊達之下 :
領事反悔。伊達正宗大怒之下便攻打小濱城・:大内定岡經由二本松逃至會津。二本松城主一畠山義繼雖救
了大内更岡、卻因比敗陣而投降:且委託政宗的父親輝宗代爲調停。歸途、畠山義繼綁架輝宗逃至阿武隈湖畔。
輝宗大聲疾呼”和我一起攻打義繼!”、伊達的家臣們不分晝夜地攻打義繼主僕:輝宗也因此而戦亡。政宗在
父親的遺體前哭得死去活來。
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↓ 父の仇討 激しい人取橋の戦い
、 ↓ 正宗逆心ありと訴えられた秀吉、紏命の為入浴を命じた。 第二の大危機。
大崎・葛西一揆に驚いた秀吉は蒲生氏郷(がもううじさと)と伊達正宗に出兵をうながした。政宗は一期鎮圧に
兵を宮城郡利府(りふ)に進めた。
この時、政宗に恨みを持つ家臣の須田伯耆(すだほうき)氏郷(うじさと)に政宗逆心ありと訴え出た。
政宗はこの疑いを晴らすため、単独一揆を討ち木村親子を救出したが、秀吉の疑いは解けず、急ぎ上洛せよ
との命令が届いた。天正十九年(1591)二月四日、政宗は京に入った。二十五歳、隻眼(せきがん)の武将伊
達正宗の死を決しての入洛で有った。この時政宗は死装束のいでたちで、行列の先頭には、金箔を押した磔柱
(はりつけばしら)をおしたてて入京したのである。
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このページは、11月29日(撮影日は11月21日)にペイジ作成にに掛かったのだが、説明文を書くのに、文字が難しく、
ページを開くのが嫌になってしまい、閲覧者には面白くも無いページなのに、今日、12月9日になってしまいました。
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