Dogma and prejudice

媚中派も媚米派も同じ穴のムジナ
従属主義的思考から脱却すべし
(言っとくけど、「媚米」と「親米」は違うんだよ)

ティー・ブレイク 10.20

2006-10-20 | ティー・ブレイク
■ポートレート 上野樹里

上野樹里
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 上野 樹里(うえの じゅり)1986年5月25日生まれ。女優。兵庫県加古川市出身。アミューズ所属。身長は167cm。

 現在、「のだめカンタービレ」(2006年10月16日から 、フジテレビ)で主人公「のだめ」(野田恵) 役

 
■画像1 やれやれ ┐(´д`)┌

inu


■画像2 勝負するnya

neko


■画像3 ズサーnya(その6)

■画像4 せめぎあい(その2) 

■画像5 それとなく似てる件について(その40)


■ネットの話題1 呉智英氏の「すべからく誤用」糾弾

この問題についえは、私は自分の著作で何度か述べているが、簡単にまとめて再論しよう。

無知は恥ずかしいが、それはそれだけのことである。失敗は私にもある。誤字誤用も然り。
「須く」は「すべし」のク語法による変化であり、意味は、義務・命令・当為である。非常に分かりやすく言えば、「すべからず」が禁止(するな)なのだから、「すべからく」が命令(せよ)だと思えば、当たらずといえども遠くはない。
だが、誤用がこの十余年、特に目に付く。それは「須く」を「すべて」の高尚な雅語だと思ってのことである。そして、この誤用者は、ほとんどスベカラク次の二種類の人である(上野よ、どうしてこの文章を「すべし」で結べると言うのだ)。一つは、上野に代表される反権威・反秩序・反文部省の人たち。そして、もう一つは、前者ほど多数ではないが、宮本盛太郎など、前者とは逆に反権威・反秩序・反文部省の人たちに反感を覚えながら、単に、反反権威・反反秩序・反反文部省を対置することしかできない人たち。この二種類である。
そこには、次の心情が見てとれる。まず、前者。権威主義的な雅語・文語を批判しているつもりのその心の底では、自分が雅語・文語をつかいこなせない妬みがとぐろを巻いている。この人たちが権威批判をするのは、自分が権威から疎外されているからにすぎない。次に、後者。この人たちは、戦後民主主義の中では、本来は権力に関わる立場にいながら、言論界ではしばしば少数派の悲哀を味わ(原文ママ)わされている。言ってみれば、アメリカにおけるプア・ホワイトである。プア・ホワイトの妬みの構造は、前者と類似している。つまり、前者も後者も、心情的に、自分が正統になりえないことの都合のいい大義名分として、反正統を唱えているのである。
というようなことも、やはり省みれば、誰の心の中にもスベカラク存在する(上野よ、これはどうだ)。だから、これについても、単純な無知無学よりねじれている文だけ、卑しいが、私のみが石もて打つことはできない。
しかし、民主主義は、この卑しさを制度的・構造的に生み出し増殖させる。それは、平準化=「易しさへの強制」の逆説である。漢字は難解であり権威主義的であり、特権階級にのみ奉仕するものだとして、民主主義の名において、易しさへの国家権力による強制が行われた。当用漢字制度などの漢字制限である。「須く」も、この一環として、国家権力によって抹殺されたのだ。
それでも、国家権力によるどんなに理不尽な蛮行があったとしても、結果的に、易しさの実現が成功し、ひいては、あらゆる権威が消滅する社会が到来したのなら、それはそれでかまわない。だが、現実に到来したのは、漢字制限による言語表現の混乱と、それに乗じて、反権威を大義名分にする権威亡者の跳梁だけであった。
ここにこそ、民主主義の究極形がスターリニズムとファシズムであることが、はっきりと現れている。
呉智英『バカにつける薬』 第二章 バカを撃つ p.62より


ほぼ日刊イトイ新聞-ダーリンコラム↓より、

評論家の呉智英が書いてから、

「須く(すべからく)」ということばの誤用について、

とてもおおぜいの人が注目するようになったけれど、

もともと呉智英は、

「すべからく」に代表されるような

「むつかしそうなことばを、えらそうに使う」人の

イージーな教養主義をからかいたかった

ということなのであって、

「すべからく摘発組」を組織したかった

わけじゃないと思うんですけどね。


 「バカにつける薬」は10年前(1996年07月)発行。だけど、今でも、呉智英さんは、「すべからく誤用」の糾弾をやってます。(このあいだも、産経の文化面でやってた)飽くなき執念やね。



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