Dogma and prejudice

媚中派も媚米派も同じ穴のムジナ
従属主義的思考から脱却すべし
(言っとくけど、「媚米」と「親米」は違うんだよ)

「自分が外務大臣だったら、どう考えるか」?

2007-01-23 | 拉致・北朝鮮問題
雪斎の随想録: 福澤諭吉の言葉より、

■ 「外交の事態いよいよ切迫すれば、外交の事を記し又これを論ずるに當りては自から外務大臣たるの心得を以てするが故に、一身の私に於ては世間の人気に投ず可き壮快の説なきに非ざれども、紙に臨めば自から筆の不自由を感じて自から躊躇するものなり。苟も国家の利害を思ふものならんには此心得なかる可らず」。
   ―福澤諭吉 「新聞紙の外交論」『時事新報』(明治三十年八月)社説
 この福澤の言葉には、政治評論の「作法」の総てが詰まっている。要するに、「自分が外務大臣だったら、どう考えるか」という姿勢を貫かないと、政治や外交を論じる資格はないということである。

 実際は、「自分が外務大臣だったら、どう考えるか」という姿勢に裏付けられない議論がはびこっている。、「自分が外務大臣だったら、どう考えるか」とは、現実の外務大臣の思考が及ばないような事柄をも考えるということである。当然、そこでは、「政策選択の可能性」と「様々な現実の拘束」のせめぎ合いが生ずる。そのせめぎあいのなかで、実現可能な様々な政策オプションを考えるのが、政治・外交評論の責任なのである。

 「「自分が外務大臣だったら、どう考えるか」という姿勢を貫かないと、政治や外交を論じる資格はないということである」という主張は、一見尤もらしいけど、どうなんだろう。

 果たして、「自分がラーメン屋のオヤジだったら、どうするか」という姿勢を貫かないと、ラーメンの味を論じることすらできないのかな。あるいは、「自分がプロ野球の監督だったら、どうするか」という姿勢を貫かないと、監督の采配を論じる資格はないのかな。そのような考えはおかしいと思いますよ。

 それと同じで、「自分が外務大臣だったら、どう考えるか」まで考えないと、政治や外交を論じる権利が無いというのはおかしいし、そのような考えは、主権者たる日本国民に対し、「国民主権」や「参政権」を制限しているようなものです。

 「「何処ぞの馬の骨」に過ぎぬ人々が、何故、偉そうに振る舞っているのかと訝る」という以前の発言と同様、雪斎氏の上記の主張は、「わけも分からぬ奴が、あれこれ言うな。お前らに発言する権利など無い」と言いたいだけのような気がします。

 政府擁護のスタンスをとる雪斎氏にとって、「わけも分からぬ部外者が、偉そうに政治や外交を論じて政府批判を行うこと」が腹立たしいのでしょう。 

 また、同じエントリーで、雪斎氏は、

国策を論じるのに、「道徳」と「利害」をごちゃごちゃにした議論が多すぎる。「北朝鮮を懲らしめよ」という議論も、その類であろう。

と述べていますが、「経済制裁」というものを、「道徳的な意味で北朝鮮を懲らしめる」為のものというような認識でいるのでしょうか。だとしたら、そのような認識は間違いです。

 家族会や救う会がかねてから「経済制裁」を主張してきたのは「経済制裁」を実施することが、「拉致問題を解決させるという実利」を得る近道であると確信しているからこそです。安倍首相も、同様の思いから、「経済制裁」を実施しているのしょう。

 「米朝、核放棄協議開始で合意か」(時事通信)という記事を取り上げて、「国際政治の潮流は、突如、変わる」と述べ、(そろそろ、圧力路線を終わらせるべきだ)とでも言いたげな表現をしていますが、それが雪斎氏の擁護する政治家たちの了解事項なのでしょうか。

 「利害」という面から言っても、北朝鮮という犯罪者国家に擦り寄るようなことが、日本の利益になることなどないのに。




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