加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



天空の城苗木城跡を訪ねて

岐阜、美濃のマチュピチュ日本の山城ランキングで一位に輝いた山城。標高432メートルの高森山の自然の地形、巨石をうまく利用した見事な城郭、石垣。

大門跡跡

大門を「だいもん」と読むのは、寺院のいちばん外側にある大きな門、ないし、禅寺などの正門の場合です。これに対して、城郭や邸宅の第一の表門は、「おおもん」と読むそうです。苗木城の場合は、「おおもん」と呼びます。

大門を入り、右にやや降りると二の丸、登ってゆけば本丸へたどり着くという要所にあります。現在は、跡しかありませんので、新田淳の「苗木明細記」で調べてみます。

「ここは足軽が門番役を担当する。城主が江戸へ出立の時、在着の時、あるいは規式や正月三ケ日は開門する。ただ一通りの出入りは潜り戸を使用する。城内で最も大きな門なので大門という。」

1600年、遠山友政が苗木城を奪還する以前は、大門が大手門にあたり、その前には深い空堀があり、木橋を架けて往来したようです。

御朱印蔵跡

大門を入った左手に土蔵があり、土台は、石を四角く削った切込接(きりこみはぎ)の石垣で、隙間なく整然と積まれています。

蔵の中には、刀剣や宝物も入れられましたが、最も大切に納められていたのは朱印状でした。


綿蔵門跡

大門を入り、左手に御朱印蔵、右手に勘定所門を見ながらまっすぐ進むと綿蔵門がありました。綿蔵門は2階建てで,2階部分は年貢の真綿を保管する部分になっていました。

江戸時代、綿は米に次いで重要な換金作物でした。苗木藩の場合、文化7年(1810年)には、村方(むらかた)(村政を担った百姓)から約47kg(30550センチメートル3)の真綿が納められました。

道を登りながら右下方向を見ると二の丸跡、そしてその先に城山大橋を見ることが出来る。

コースは180度反転する反転した所に坂下門。門の連続

坂下門

三の丸から大門、綿蔵門と進み、U字に折り返すように曲がると、さらに登り坂になっており、その手前に坂下門がありました。この門には久世門という別称があります。

3代藩主友貞は、正室に下総国関宿(せきやど)藩主久世広之の娘を迎えました。広之は、2代将軍秀忠の小姓、3代将軍家光の小姓、4代将軍家綱の御側をつとめ、さらに若年寄、老中を歴任し、下総国関宿5万石(はじめは兄から分与された下総国海上郡内の500石しかなかった)を拝領した人物です。

坂下門を過ぎて右手を見ると大きな天然石の石垣、一枚岩がそそり立っている。ここまで上がると先ほどの大矢倉を上から見ることが出来る

道は櫓門跡にと突き当たりここで再び反転する反転した所には千石井戸がある

菱櫓門(ひしやぐらもん)

享保3年(1718年)の苗木城絵図 菱櫓門跡
櫓門は、門の上に櫓を載せた二階建ての門です。

櫓は、矢倉とも書き、武家の屋敷や城郭の要所に設けられ、敵を監視するとともに戦闘に必要な武器庫となっていました。

櫓門は、ふつう、石垣と石垣の間を渡すように建てるか、独立して建てました。苗木城の場合、片方は柱の穴を掘った巨石で、他方は蔵になっています。

門を下から見ると菱形に掛け渡してあったので菱櫓門の名がついています。

千石井戸

苗木城内に4カ所以上あった井戸のうち、最も高所にありました。それにもかかわらず、どんな日照りでも水が涸れることがなかったと伝えられています。

千人の用を足すと言うことから、千石井戸と名付けられています。

ふと遠くを眺めると雪を頂いた峰々中央アルプスだろうか

これが岐阜のマチュピチュと言われる所以か

具足蔵跡・武器蔵

具足蔵(ぐそくぐら)は、本丸口門から見て右側の崖の上にありました。具足とは、甲冑(かっちゅう)のことです。ここに領主の甲冑や旗が保管されました。

武器蔵は、長さ八間(約16m)、幅三間(約6m)の土蔵でした。建物の長さから八間蔵とも呼ばれました。

ここには大名遠山家が所有していた鉄砲や弓などの武器類が所蔵されていました。現在でも礎石や縁石が当時のまま残されています。

武器蔵を上から眺める

玄関口門跡

の門を潜らなければ天守のある本丸のエリアには入れません。門の上には「本丸口」と書かれた札が懸かっていました。本丸口門は、総欅(そうけやき)造です。古来、神社仏閣などの建築には針葉樹の檜(ひのき)が使われてきました。

本丸玄関跡

丸玄関は、天守より一段低い位置にあります。玄関には玉石が敷かれていました。

現在はここから階段を使って天守台に登ります。城があった時には、玉石のある所から懸造(かけづくり)の通路を通り、東から回って天守に入るようになっていました。通路は広く、千(せん)畳敷(じょうじき)と呼ばれました。

ここまで登ってくると360度の眺望が開ける


木曽川に架かる城山大橋


正面中央に傘を伏せたような山が笠置山


玉蔵大橋と木曽川橋梁(きそがわきょうりょう)
木曽川に架かる旧北恵那鉄道の橋梁で現在は使用されていないようだ。

懸造りの天守

苗木城天守の他に類を見ない特徴は懸造りであったことです。巨石に穴を穿ち、長短の柱を立てて基盤を設け、三層の建物を支えています。

現在は土台部分を復元した展望台になっている。この上に天守が載っていた。

苗木遠山史料館 苗木城天守模型より
苗木遠山史料館 苗木城天守模型

馬洗い岩

天守の南に周辺約42mの巨岩があります。

昔、敵に攻められた水の手を断たれた時、米で馬を洗い、あたかも水があるように見せかけたという伝承があり、「馬洗い岩」と呼ばれています。

二の丸跡

二の丸には、城主の居住空間と苗木領を治める政庁機関が置かれ、これらは廊下でつながっており、一般には御殿と呼ばれました。

御殿は、饗応・政庁などの役割をもった表御殿と城主の私的空間である奥御殿で構成されます。


二の丸跡から本丸方面を見る。

二の丸模型(当館苗木城復元模型より)
二の丸模型(当館苗木城復元模型より)

二の丸を後にして登城してきた道を戻る。帰路はA1駐車場より資料館からB2駐車場へと向かう。

資料館付近にはまだ紅葉が残っていた

資料館は次回の楽しみに・・・・

本文中の説明文は苗木遠山史料館苗木城跡を歩くのサイトより引用詳しくは下記サイトをご覧ください。

中津川市苗木遠山史料館|中津川市

苗木遠山史料館は、中世・戦国時代から明治時代初期に至る、苗木領の歴史的な文化遺産を保存・公開する史料館です。 苗木遠山家の資料を中心に、苗木領と苗木...

想像していた以上に大きな城郭、石の山の上に設けられた天然の要塞、素晴らしい城跡でした。
次回はもっと下調べをして、今回見ることが出来なかったところ訪ねてみたい。



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