加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



加賀八家 奥村家(宗家)屋敷跡は現国立病院機構 金沢医療センターとなっているが奥村家(宗家)上屋敷跡土塀は医療センターを囲む形で現在も残っている。その脇には辰己用水が流れ兼六園にへと引かれている。


つい先日までこの奥村家宗家上屋敷土塀の修繕工事が行われていた、今は仮囲いが撤去され腰板が新しくされている。

小立野通りは兼六園に突き当たると右は尻垂坂(現兼六坂)左は廣坂方法面に続く。右の兼六坂は曲がるとすぐに左とクランクしている。左に曲がらずまっすぐ八坂と続くこの、坂は車の乗り入れることはできない坂となっている。
また、工事に伴い八坂右土手上の木々が伐採されたのかすっきりし、坂が明るくなっだ。

 

サカロジーによると127メートル、高低差24メートル、斜度13度とあるが、角度で言われてもなかなかピンとこない。

普通なら歩いて登っても息が切れそうな坂だが。自転車でスイスイ登って行く女性がいる。よく見ると電動アシスト、ハイブリット自転車だ。これなら金沢の坂道(階段以外は)もスイスイ登れそうだ。でも下りは安全のため押して降りたほうがよさそうだ。

 

卯辰山を正面に見ながら下っていくと曹洞宗松山(しょうさん)寺横に下りつく。ここでつかの間の休憩。

八坂を下ると木曾坂はすぐそこなので足をのばす。

 
松山寺横鶴林寺参道横に咲く紫つゆ草と観音像

突き当りを右に曲がり200メートル程度で安楽寺に突き当たり左に進む道なりに150メートルほど行くと十字路に出るここで右方向が寶圓寺裏門へとつながる裏門坂になる。

 
左;東兼六町10十字路より階段上り方向を見る、右;階段上部より下方を見る

地図・観光案内などにはこの坂を木曽坂と書いてあるものもあるが、裏門坂と木曽坂は別の坂で、裏門坂を登きって下りの坂がみどり坂、みどり坂を下りたところが木曽坂にあたる。

木曽坂は安楽寺横から旧百々女木町に至る川沿いの坂道を指す(これは個人の判断で文献上はまた違う解釈かもしれない)

参照:皇国地誌は木曽坂をこうかいている
「下百々女木町中問ヨリ西二人リ、屈曲昇降岐路トナル。右ハ漸ク北二回リ、材木町壱町(丁
右ハ八坂二続ク」。

裏門坂横には数件の住宅があったが現在は住む人も無く季節の花々だけが咲いている。

裏門坂から住宅の横を通り墓地を抜け寶圓寺へと出る。

寶圓寺について

利家とまつの寺|前田利家公菩提寺|宝円寺

沿革(サイトより抜粋)


護国山宝円寺は、加賀能登越中あわせて百二万余石(支藩とも百二十万石)の大藩、金沢藩主前田家代々の菩提寺です。遠く天正のころ、藩祖前田利家公の建立になるこの寺院は、藩政時代、領内曹洞宗全寺院の触頭とされた名刹であります。開山の大透圭除禅師は、諸獄山総持寺御開山瑩山禅師から拾世にあたり、前田利家公より厚い信任を得ていました。‥‥

‥‥ 第二世象山和尚のとき、小立野の現在地に11,600坪の地を賜り移築されました。 当時、表門は現在の墓所裏坂口にあり、寛文9年、五代藩主前田綱紀公が仏閣僧坊を建て替えられて、山門を馬坂上に建立。‥‥

 

馬坂

寶圓寺を後にして馬坂から小立野台を下りる。九十九折の坂道で降り口登り口が見渡せない坂道で坂途中には」不動尊堂が立つ、お堂の中は薄暗く口から水がかすかに滴り落ちるその昔は一筋の細い滝となって流れ落ちていたと言う。 

 

馬坂を下りると扇町に出る。

この通りは、金沢市のこまちなみ 旧天神町区域に指定されていて、

藩政期以来、金沢城下から越中南砺地方を結ぶ旧街道、通称「オコ谷往来」へと至る街道沿いに形成されたまちなみで、伝統的な町家建築が、旧街道らしく曲がりくねった道路に面して軒を連ねる様子が残る通りだ。

今回の散策はここまでにして天神町緑地で小休憩とする。

ここはお手洗いもあり日差しを遮ることのできる休憩場所もある。季節にはボタンの花も咲く花壇もあり地元の人の憩いの場的場所になっている。

参照:こまちなみの保存|金沢市公式ホームページ いいね金沢

   四季こもごもー金沢の街と坂と卯辰山ー 国本昭二著

   サカロジー 国本昭二著

   利家とまつの寺|前田利家公菩提寺|宝円寺



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白山坂

元和5年,白山(山号・しらやま)波着寺を 広坂から小立野に移し,町名を白山町,寺前の坂を白山坂とした。波着寺は現在も白山坂の坂上にある。(「サカロジー」による)

昭和初期にできた白山坂、

満州事変昭和6年から終戦の昭和20年の終戦までの間、小立野台の練兵場と対岸の寺町台・野田の練兵場との車両・兵員の行き来のために必要に駆られてこの白山坂、二十人坂が建設されたと、金沢の坂道コラムに記載されている。

 

兵隊さんが通った白山坂

「牽強付会」という言葉がある。牽強も付会も「こじつけ」という意味である。地誌を遺した大先輩方がよくつかう。なぜにこれほど強い言葉をつかってまで自説の正当性を主張...

金沢の坂道

 

坂の途中には防空壕跡があるとのことで確かめてみた。確かにそれらしき跡がみられるが確認することはできない。

現在はコンクリートで塞がれている。新しいコンクリートの跡と、古い跡4か所が確認できる。

中の空間も完全にふさいでしまったのだろうか?歴史遺産として残すことは‥‥!

白山坂は小立野・笠舞線交差点を横断し緩やかに右に回り道は300m程度まっすぐ進み猿丸神社裏にて再び右にカーブし笠舞交差点に出る。白山坂はここまでだ。


小立野・笠舞線交差点を過ぎると道は緩やかに下る


笠舞交差点横猿丸神社

猿丸神社由緒書き

 

猿丸神社

猿丸神社は、金沢笠舞に鎮座し、猿丸太夫を祭神として奉祀してあります。神社の創立年代は今から約1000年程前の平安時代と考えられます。祭神は平安初期に奥山に紅葉踏みわ...

石川県神社庁

 

白山坂hあ下り一方通行、二十人坂は上りの一方通行二つの坂が対になっているようだが。新たに小立野・笠舞線ができてこちらのほうが二車線の道で走りやすいような気がするが両坂の通行量は多い。



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新坂の由来(坂標より)

加賀藩前期、嫁坂のあとにできたのでこの名がついた。昔は、小立野新坂、笠舞新坂ともよばれた。

 

旧欠原町の由来(坂標より)

崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原町などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた。

欠原町の坂は新坂を境に十二人坂側から新坂に下りそこから桜坂まで上り坂になっている。


現在の欠原菅原神社(元の場所より二十人坂方向に60メートル程度行った先、右側に赤鳥居が見える)

菅原神社降り口よりもう60メートル程度で二十人坂に出る。この付近は道が迷路のように入り組んでいる。二十人坂が昭和初期に新設されたためだろう。

二十人坂の由来(坂標より)

藩政のころ、鉄砲足軽二十人をこの地に住まわせたことから、小立野二十人町、小立野足軽町二十人町などと呼ばれた。明治四年、付近の町を加えて二十人町となった。

 

この二十人坂は昭和14年旧一本松町、揚地町場を通すために盛土してほぼ直線状につけられている必然的に二十人坂の下にあった道、。川は陸橋で立体交差、または、盛り土で二十人坂に取り付けられている。


二十人坂下を通る勘太郎川

陸橋間の盛り土部分の斜面には桜が植えらされていて春には見事に花をつけ桜のトンネルになる。

もう30年以上になるだろうか、寺町台から長良坂を下り下菊橋を渡り、笠舞3丁目交差点を左に曲がってすぐに菊川2丁目を右折し二十人坂を登った。その時は長良坂は車で通る事ができた。その時には現在の小立野・笠舞線も出来ていたと思うが二十人坂の方が大学付属病院に行くには近かったのだろう。

当然病院の帰りには石引交差点から白山坂を下り小立野・笠舞線を横断して猿丸神社横を通り笠舞に降りて再び笠舞3丁目交差点から下菊橋を渡り寺町台にあっがた思い出がある。そんな生活が5年以上続いたように記憶する。それ以来この坂道を昇り降りすることが少なくなった、

昔の思い出はさておいて、十二人坂は上り一方通行なので帰り道は下りの一方通行の白山坂を利用した。

白山坂

元和5年,白山(山号・しらやま)波着寺を 広坂から小立野に移し,町名を白山町,寺前の坂を白山坂とした。波着寺は現在も白山坂の坂上にある。(「サカロジー」による)

 
左:小立野・笠舞線交差点より登り方向側を見る道は先で右方向にカーブする。右:カーブ地点より小立野通り方向を見る。


藩政時代、波着寺門前と呼ばれていたが、波着寺の山号が白山であるところから、明治4年、この名に改められた。標柱より



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新坂坂標

加賀藩前期、嫁坂のあとにできたのでこの名がついた。昔は、小立野新坂、笠舞新坂ともよばれた。(金沢市石引2-26-8先)

嫁坂と二十人坂の間にある坂道で嫁坂の登り口付近から坂は始まっている。嫁坂を左に見ながら登るとすぐに道はとあるマンションにと突き当り左にと曲がる。

 
左:嫁坂登り口付近から新坂を見る 右:突き当りマンション付近から小立野尾通り方面を見る、中間に見える白十字交差点マーク欠原坂(道)の交差点左に行くと嫁坂、右に行くと二十人坂。

そのままお登り坂は5・60メートルで終わりそのあとはほぼ平坦な道となり小立野通りに出る。この新坂は車の通るどこにでも在るような坂道で魅力に欠ける、てっきり昭和に入ってからの宅地造成に伴ってできた坂道かと思っていた。

新坂を交差する坂道

上欠原町 崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた。明治4年、上・中・下欠原町となった。地子町の一つ(旧町名復活・か行|金沢市公式ホームページ いいね金沢より)

 
左:旧中欠原町付近 右:旧中欠原町に上がる階段明治初期の地図には中坂と記載されている。

新坂が突き当た処を左に曲がるとすぐに一本の坂道と交差する、この道は嫁坂を登りきったところから始まり新坂を突きって二十人坂までつながる約300メートルの道だ。新坂付近が坂道なっているがほぼ平坦な道で小立野台地の斜面をトラバースするようにつけられている。片側は石垣・コンクリートの擁壁となっちる。その反対側はというと石垣を積み住宅が建てられている。

この300メートル程度の道中に数本の坂道・階段が設けられている。

 
左:真行禅横階段 右:階段を下りた地点から二十人坂方向を」見る


菅原神社横階段以前はこの会談横に菅原神社がありその前には赤鳥居が立っていたという。現在の菅原神社は二十人坂近くに移設されている。

 

写真撮影:2022_5_02(一部:2022_06_12)



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嫁坂(金沢市石引4-8-1先)

加賀藩初期、坂の上に住んでいた藩の重臣、篠原出羽守が、娘を本庄主馬へ嫁がせる時つけた坂なのでこの名がついた。(坂標より)



金澤古蹟志の嫁坂の候。

文禄の石垣普請(よみがえる金沢城より)

本丸に高石垣を
文禄元年(一五九二)正月早々、利家は朝鮮出陣のため京都に向かったが、出陣にあたり、金沢城の留守将に指名した嫡男利長に本丸の高石垣を作れと命じた。安土城や大坂城の高石垣や天守は、利家にとって手本とすべき城の姿であった。天守を築造したあと、本丸の外壁は高石垣で防御しようと考えたのであろう。命を受けた利長は、金沢城の南東九キロの戸室山麓で採掘した安山岩、いわゆる戸室石で高石垣を構築することに決め、石切作業が始まった。加賀・能登の村々から人足を動員し、侍・足軽・小者たちが一体となって石引きや石積みに動員された。石積みは、穴生(石垣専門職人)の源介などが指揮したのであろう。源介は天正十五年(一五八七)、利家から知行100俵を拝領したが、石垣構築の功績が認められたものであった。

篠原の石垣作り
しかし、いざ高石垣を積み始めると東面で建造中の石垣が二回も崩れ利長は苦慮した。その噂は京都の利家の知るところとなり、篠原一孝という城作りにたけた重臣を金沢に送った。利長は普請場を篠原に任せ、越中守山の自分の城へ帰り篠原の石垣作りを見守った。篠原は高石垣を八分通り積み上げたところで、小縁(犬走り)を付け高石垣を難なく完成させた。しかし、利長は立腹した。「小段を付けたのでは何のための高石垣ぞ、小段なしで積むため自分は苦労したのだ」と残念がったが、出来た以上はやむを得ないと堪忍した。この逸話から、篠原と利長の石垣観に遣いがあったことがうかがわれ面白い

また東外惣構、百間堀、白鳥路等の構築も出羽守が任され指揮した。石垣普請にたけていた人物だったようだ。

現在の出羽町、歴史博物館あたりにあった出羽守屋敷そこから菊川1・2丁目あたりの主馬屋敷に娘を嫁がせるためにつけた坂道、その時に積んだであろう野面積みの石垣が今も残る。

その時には前回投稿した大乗寺坂はなかったと金沢古蹟志にも記載されている。


嫁坂に残る野面積みの石垣


左:坂道下部 中:坂道中間部 左:坂道上部

坂道の途中に住宅があり嫁坂がらの出入りとなっている。

坂両側に手すりが取り付けられ、坂も石段も新しい石が張られ昔の面影が感じられない、坂表が無ければ住宅の出入りのための坂にしか見えない。

下記写真は金沢の坂道コラムのサイトのものだがコンクリートの坂道では風情も情緒のない。金澤らしさを出すのはなかなか難しそうだ。出羽守ならどんな石段、坂道にしただろう?


1991年(平成3)ごろ、修景工事前の嫁坂(提供:東洋設計)写真:金沢の坂道コラムのサイトより

坂道散策はまだまだ、大乗寺坂より徒歩で10分足らずで嫁坂、この坂を下ればそこは新坂、新坂の先には二十人坂、白山坂と坂道が続く。



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大乗寺坂(金沢市本多町2-7-11)

慶長から元禄年間に曹洞宗の古寺、大乗寺が坂下にあったのでこの名で呼ばれている。同寺はのち長坂へ移転した。

 

 前回の投稿では歴史の小径上部からの写真を記載した。なぜかというとゲートが締まっており下に降りるのを諦めたためである。

ゲート入り口には、開放時間:午前8時~午後5時(3月から9月)

              午前8時~午後4時(10月、11月)となっています。
美術館裏よりの下り口、小径はつづら折になっていて踊り場を二か所も受けてある。その分美術の小径よりは緩やかな坂道になっている。


クリックで拡大画像が別ウインドウで開きます。

この坂道を利用して美術館方面の近道として利用する人もいるようです。平日の夕方には下りてくる人をよく見かけました。藩政時代と同じようにここを通勤経路にしているのでしょうか。

この歴史の小径は、美術の小径の階段を降りたところで合流し金沢市立中村記念美術館へと降りてゆく。

坂道を下りたところで林を抜け明るくなる。

美術館前には梅林があり訪れた時にはまだ実をつけていた。


美術館前の梅林


金沢市立中村記念美術館

美術の小径は山裾側に緑の小径と名を変えて続いており鈴木大拙館へとつながっている。


左:芝生の本多公園横を通る緑の小径。右:鈴木大拙館裏の紅葉の林。

紅葉の季節もおすすめ(写真は昨年撮影したもの)。

緑の小径は鈴木大拙館横にとつながっている。


左:初夏の水鏡の庭 右:晩秋に水鏡の庭

鈴木大拙館 公式サイト

禅を世界に広めた鈴木大拙、その思想に触れる場所

金沢が生んだ世界的な仏教哲学者、鈴木大拙の世界観に触れられる施設です。その書や写真、著作を通し、大拙の思想や足跡を学び思索できます。

国際的な建築家、谷口吉生氏による設計で「玄関棟」「展示棟」「思索空間棟」の3つの棟と「玄関の庭」「露地の庭」「水鏡の庭」の3つの庭によって構成されています。その独特な空間は、中を回遊することで、大拙について学び、考えるよう意図し、デザインされたものです。(ほっと石川旅ネットより

また、ここまで来たなら時間があれば隣の松風閣庭園も訪ねてみたい。

松風閣庭園は江戸初期(1616年)に沼地と森の自然を活かした池泉回遊式庭園であり、加賀藩の本多家の屋敷から移築された旧広坂御広式御対面所が、現在の場所地に明治40年(1907)に移築された際に「松風閣」と改称。鈴木大拙館のオープンした平成23年(2011)から一般公開されるようになる。

やっと瞑想の小径から抜け出すことができた。そろそろ本題の大乗寺坂へと。

大拙館を出て数分歩くと大乗寺坂の登り口につく登り口右側に大乗寺旧跡の標柱が建つ。

大乗寺坂(金澤古蹟志より)

元禄年中まで此の坂の下に大乗寺ありし故に、坂名に呼べり。従前は此の坂路の間怠るがけ縁に町家数戸ありしかど、廃藩後追々家屋を毀(こぼ)ち、明治十九年に出羽町・鷹匠町・欠原町の邸地、陸軍営所の練兵所と相成るに付き、此の坂路を廃せり。

古蹟志に記載のように大乗寺坂は発祥の由来こそ古いが戦後にできた新しい坂道だ。この坂道は登る人を疲れさせない。斜度の変化がリズムを与えているのだろうか、途中に休憩できるベンチが設けられている。また、眺望も開けていて現在の大乗寺がある野田山方面を望むことができる。

坂道は両脇には木々が茂っているが、管理が行き届いているのか鬱蒼とした感じはなく明るく風通しもよく爽快さを感じる。

坂道を登ると左にNTT西日本出羽町ビル本多の森ホール歴史博物館へとつながる。

県立美術館からスタートして文化施設を巡るコース、ゆっくり散策してては一日では回り切れない界隈だ。



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美術の小径

小道に行く前に前回の辰巳用水のせせらぎと書いたが水のない用水ではせせらぎではなかった。

 

辰巳用水は旧奥村家上屋敷跡土塀に沿って流れる兼六坂につきあったところで暗渠となり道路を横断する。思うに一筋の流れは真っすぐに兼六園にもう一筋は左へと流れる。左に流れた水は護国神社横・石川県立能楽堂を通り出羽町交差点で再び暗渠となり石川県立美術館横へと流れる。


兼六園内の小立野口裏にある池、ここに流れ込んでいる水が辰巳用水の一部だろう。下記の写真は護国神社横に流れる用水

 

 

美術館横に現れた用水はあろうことか美術館裏から滝となって崖下の本田町へと流れていく。流れ落ちた水は再び暗渠となり本多町通りを横断しているのだろう。

 

この滝の横に坂道・石段が美術の小径になっているこの道は途中で歴史の小径とつながり崖下の金沢市立中村美術館へとつながっている。

歴史の小径の下り口、ここにはゲートがあり通行可能時間は8:00時からとなっている。

これから先は後日の散策にて。



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木曽坂・宝円寺裏門坂・みどり坂(金沢市東兼六町17先)

 木曽の山中のような幽すいな所なのでこの名がついた。その一部は宝円寺の裏門の坂なので裏門坂ともいわれていた。

 前回の投稿でみどり坂、裏門坂と区別して記載したが、古い地図を見ると木曽坂と書いた道はみどり坂を通り裏門坂を抜けている。みどり坂から先の源太郎川沿いの道は新たにつけられた道のようだ。

 昭和初期の地図には記載されていることから大正後期もしくは昭和初期に新設されたものだろう。

 みどり坂、裏門坂はもともとは木曽坂だった。つまり「一坂二名」なのかもしれない。



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小尻谷坂(金沢市東兼六町1-11先)

藩政期の中ごろ尻谷坂(汁谷坂・尻垂坂等)より小さいところから、この名がついたといわれている。(標柱より)

 
旧小尻谷坂


明治期に設けられた小尻谷坂

 俗に言う男坂・女坂で言うと真っすぐ階段で登るほうが男坂、なだらかな坂道で登るほうが女坂とでもいおうか?

 何方の坂を登っても兼六坂に出る。坂道の標柱はなだらかな坂の中間あたりに雑草に埋もれひっそりと立っていた。

  

観光名所兼六園のすぐ横にあるが、坂道を通る人もほとんどいない。

 

 階段の小尻谷坂を登り兼六坂を横断すると兼六坂に並行する「上坂」に登る階段がある。その先には兼六園の上坂口に登る階段と続く。

【兼六坂】その昔は「尻垂坂」と呼ばれていた時期があるそうだ。どうして尻垂なのか?あまり良いネーミングではないようにも思うが。1924年4月出版の金澤市外電車略図にも公園下の次の停留所に「尻垂坂」の名前が記されている。その後の1956年(昭和31年)金沢市街地図も尻垂の名が残っているがその後の地図には兼六に代わっている。正確には昭和33年に「兼六坂」と改名されたとのことだ(サカジローより)

 また、この道を市電が走っていたという。この坂を登り石引まで市電が走る、もし可能ならそんな風景を見てみたいものだ。

 富山市内を走る市電・ポートラムのように。



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八坂(金沢市東兼六町2-37先)

昔、付近に木こりが通う八つの坂があったのでこの名がついた。のち、一つが残り、宝憧寺坂、伊予殿坂とも呼ばれた。(標柱より)

前回の木曽坂より安藤坂を上ったところに旧百々女木町の旧町名標柱があり、ここから道を右に進むと小立野通りへと出る。

小立野通りに突き当たったところで再び道を右に真っすぐ進むと歩道右に辰巳用水が暗渠からオープンになり現れてくる。

 

 辰巳用水のせせらぎ(この時は水がほとんどなくせせらぎとはいきませんでした)を聞きながら進むと旧奥村家(宗家)上屋敷土塀が連なる。奥村家については別の機会に、ここは現在、国立病院機構 金沢医療センターが建つ。

 道は兼六園にと突き当り右が兼六坂、左は石川県立能楽堂、石川県立美術館、最近移転(2020年10月)した国立工芸館、石川県歴史博物館等々が建つ、芸術・歴史・文化のエリアだ。

 今回は道を右手に進み兼六坂を下る。兼六坂はすぐに左に直角に曲がる。右に曲がらず真っすぐ進むとそこが八坂だ、この道は車両進入禁止となっていて徒歩、もしくは自転車しか手段はない。でも自転車で降りるには少し抵抗がある。やはり徒歩で石段を下りるのが一番安全だ。ちなみにこの坂道は斜度13度、約22%くらいの勾配(数字で言われてもピンとこないが)らしい。

 

 八坂を下りたところに曹洞宗松山(しょうさん)寺があり寺院の参道と八坂が並びとても広い坂道となっている。


松山寺境内

 ここまで降りると兼六坂の車の騒音も届かず、また訪れる人も少なく静かだ。

 八坂からそれてしまった、兼六坂から入ると道はくの字に曲がっていて曲がったあたりから眺望が開け正面には卯辰山を見ることができる。また、坂の途中にはベンチもあり一休みしながら浅野川沿いの街並み、卯辰山を眺めるのも……。

 



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