加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



八坂(金沢市東兼六町2-37先)

昔、付近に木こりが通う八つの坂があったのでこの名がついた。のち、一つが残り、宝憧寺坂、伊予殿坂とも呼ばれた。(標柱より)

前回の木曽坂より安藤坂を上ったところに旧百々女木町の旧町名標柱があり、ここから道を右に進むと小立野通りへと出る。

小立野通りに突き当たったところで再び道を右に真っすぐ進むと歩道右に辰巳用水が暗渠からオープンになり現れてくる。

 

 辰巳用水のせせらぎ(この時は水がほとんどなくせせらぎとはいきませんでした)を聞きながら進むと旧奥村家(宗家)上屋敷土塀が連なる。奥村家については別の機会に、ここは現在、国立病院機構 金沢医療センターが建つ。

 道は兼六園にと突き当り右が兼六坂、左は石川県立能楽堂、石川県立美術館、最近移転(2020年10月)した国立工芸館、石川県歴史博物館等々が建つ、芸術・歴史・文化のエリアだ。

 今回は道を右手に進み兼六坂を下る。兼六坂はすぐに左に直角に曲がる。右に曲がらず真っすぐ進むとそこが八坂だ、この道は車両進入禁止となっていて徒歩、もしくは自転車しか手段はない。でも自転車で降りるには少し抵抗がある。やはり徒歩で石段を下りるのが一番安全だ。ちなみにこの坂道は斜度13度、約22%くらいの勾配(数字で言われてもピンとこないが)らしい。

 

 八坂を下りたところに曹洞宗松山(しょうさん)寺があり寺院の参道と八坂が並びとても広い坂道となっている。


松山寺境内

 ここまで降りると兼六坂の車の騒音も届かず、また訪れる人も少なく静かだ。

 八坂からそれてしまった、兼六坂から入ると道はくの字に曲がっていて曲がったあたりから眺望が開け正面には卯辰山を見ることができる。また、坂の途中にはベンチもあり一休みしながら浅野川沿いの街並み、卯辰山を眺めるのも……。

 



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木曽坂・宝円寺裏門坂・みどり坂(金沢市東兼六町17先)

木曽の山中のような幽すいな所なのでこの名がついた。その一部は宝円寺の裏門の坂なので裏門坂ともいわれていた。

源太郎川を谷とした通称木曽谷は上流に向かって左側には宝円寺の高台、右には飛梅町の石引台地、その両方に登る坂道が沢山ありとあるサイトを参考にまとめてみた。

現在、木曽坂と呼ばれているのは源太郎川から宝円寺裏門があったとされる高台に登るみどり坂。そして、そこから東兼六町に下る宝円寺裏門坂。この両者を木曽坂と呼んでいる。現に緑坂の登り口に木曽坂の標柱もたっている。

しかし、源太郎川をの両側が切り立った山、その川沿いの道が木曽路に通じる(似ていた)ところがあり木曽谷とよばれたこの坂道が木曽坂と呼ばれたのかと想像(考える)する。現在あh両側に言えも建ち木曽の面影はない。

左:みどり坂登り口に建つ標柱 右:みどり坂

左:みどり坂を登ると右に曲がるあたりから上部を見る。右:みどり坂を登りきったところから道幅が狭くなり下り坂となる宝円寺裏門坂階段とスロープとの併用坂、勾配はきつい。

みどり坂をのぼりきったところ左は行き止まりとなっていて車で登ってくると方向転換が大変だ。右のほうは民家の軒先を抜けるように進むと階段があり宝円寺の墓地へと登っていく、墓地を抜けて宝円寺へと回ることができる。

その昔には宝円寺表門がこちら側にあったとのことだから参道だったのだろう。

左:裏門坂を下方向jから見る。右:宝円寺裏門坂より宝円寺墓地に入る坂道。

 

正面、木曽坂(自称)右に進むと安楽寺、雲龍寺を経て八坂へと出る。

木曽坂より木曽坂横の坂と安藤坂の三叉路付近を望む。左方向には宝円寺横の坂、右には中学校にと続く坂道がある。

左:宝円寺横の坂。右:中学校にと続く坂道

木曽坂(自称)は安藤坂となり金沢大学付属病院まで続く。突き当りには旧町名の標柱が立つ。なんとも難しい町名だ。

 

百々女木町 どどめきまち 石引1丁目 昭和39年4月1日 いいね金沢より引用

藩政時代、木曽谷に注ぎ込む川の流れが急で、高い音をたてていたところから、ここに架けられた橋をどどめき橋と呼び、この名が町名になったという。明治4年、百々女木町、馬坂新町、集福寺門前、宝円寺門前の一部の合計77軒で成立した

源太郎川 いいね金沢より引用

  • 更新日:2022年03月15日

右側に民家が建ち並び、手前に傾斜のある坂道と、左の木々が鬱蒼と茂っている丘の間を流れる用水路の写真

  • 延長:約2.0キロメートル
  • 完成年:不明
  • 成り立ち

名前の由来は不詳。ただ、辰巳用水が造られた時、その分水が流れ込んでいたため水量は豊富で、小立野台地から下の木曽谷へ落ちる水の音はとても激しかったという。辺りに轟くような大きさだったことから、その地の橋や町の名前が「とどめき橋」「百々女木町」と名づけられた。

  • 現在

金沢大学医学部の北西部辺りから自然発生した水は、それから急な木曽坂沿いを駆け下っていく。この流れの存在により、木曽谷と呼ばれている宝円寺周辺(宝町)は、まるで渓谷のような風情がある。やがて寺院群を縫うようにして山裾を流れ、途中、東外惣構堀と合流し、最後は浅野川へ注いでいる。

 



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馬坂(石川県金沢市扇町5)

昔、田井村の農民が小立野へ草刈りに行くため、馬をひいて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた。

小立野台地の浅野川の扇町から小立野台の宝町へと登る坂道、坂への登り口は住宅の間で気を付けいないと見落としそうになる小さな案内板に宝円寺340m→とある。

坂の途中には馬坂不動尊を祭る垂直に立ち上がる岩壁苔むした壁から流れる一筋の滝、お堂の中は日中でも薄暗い。

今回訪ねて時にはお堂には額が掲げてはなかった。

また、坂道も整備されたのかきれいに、明るくなている。坂道の途中の木が伐採されたようだ。

またの名を6曲がり坂と言われるだけあって曲がっていて先が見えない、木々の伐採等で明るくなてはいるが曲っても曲ってもたどり着かない錯覚にさえする。



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亀坂(金沢市小立野3-3-1先)

加賀藩初期、この付近は深い谷であったが、戸室石をはこぶため埋めて次第に坂の勾配をゆるくした。がめ坂の名の由来は明らかでない。

亀坂の標柱が立つ場所は坂道ではない標柱の下は地下道となっている。標柱にはこの付近は深い谷であったと記される谷を埋め地下道を通し上部に道を造った。そのため谷がなくなり亀坂も現在の様相と変化していったのでは?

 
現在の小立野台から笠舞方面に降りる道これが亀坂。

現在の小立野通りにある小立野郵便局から左斜めに入り住宅の間を左右へとクランク氏亀坂地下道へとつながる。地下道を抜けるとそのまま真っすぐに坂道は笠舞へと下っていく。

 

線香坂

亀坂を下りきったころで右に曲がると石垣のすそ野に道らしきものが目に付くこれが線香坂らし。い。不動産登記法上の赤道らしき道を登っていくと石垣とモルタルが張り付けられた間の石段へとつながり再び旧湯涌街道へと出る。

ちなみに線香坂の命名は、坂道を登り切ったあたりに線香場があったところから来ている。今は線香坂の名前も消え「あらま坂」と呼ばれているらしい。

石引、小立野界隈は実に坂の多い場所だ、今でこそナビを片手に散策ができるが迷路のようなとてもスリリングなところだ。



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蛤坂(金沢市寺町5-1-40先)

加賀藩前期に妙慶寺坂といったが、享保18年の火災後、蛤が口を開いたようになったのでこの名がついた。標柱より

犀星のみちと蛤坂の分かれ道 蛤坂標柱、寺町寺院群。谷口吉郎・吉生記念金澤建築館案内表示板
左;犀星のみちと蛤坂の分かれ道。右;蛤坂標柱、寺町寺院群。谷口吉郎・吉生記念金澤建築館案内表示板

犀川大橋南詰交差点を犀川上流側に左方向に曲がった犀星のみちと呼ばれる緩やかな登り道が蛤坂と呼ばれている。想像力の乏しい私には蛤が口を開いたようにと言われてもいっこうに想像できない。

右に入ってすぐに道は二股に分かれる左は犀川に沿って桜橋南詰へとつながる。右手の方は蛤坂が緩やかに右にカーブし蛤坂交差点にと出る。

坂道上側から見る、左;浄土宗妙慶寺三門、右;三錦楼
坂道上側から見る、左;浄土宗妙慶寺三門、右;三錦楼

道の途中には浄土宗妙慶寺の山門(三門)その手前には格子が連なる三階建ての木造建築物が目に付く。三階建てと記したが地下位階地上三階建てで犀川側からは四階建ての建物だ。

三錦楼を登り方向から見る 建物の腰下を覆う犬矢来
左;三錦楼を登り方向から見る。右;建物の腰下を覆う犬矢来。

この建物、三錦楼は明治28年創業の老舗料亭で明治30年頃建築のこの町家に移り、大正14年から商は2年ごろにかけて増改築を行い現在の姿になったとのこと。(金沢市の文化財三錦楼より)

山錦楼(文化財保護課HP)金沢市指定保存建造物

 



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