加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



嫁坂(金沢市石引4-8-1先)

加賀藩初期、坂の上に住んでいた藩の重臣、篠原出羽守が、娘を本庄主馬へ嫁がせる時つけた坂なのでこの名がついた。(坂標より)



金澤古蹟志の嫁坂の候。

文禄の石垣普請(よみがえる金沢城より)

本丸に高石垣を
文禄元年(一五九二)正月早々、利家は朝鮮出陣のため京都に向かったが、出陣にあたり、金沢城の留守将に指名した嫡男利長に本丸の高石垣を作れと命じた。安土城や大坂城の高石垣や天守は、利家にとって手本とすべき城の姿であった。天守を築造したあと、本丸の外壁は高石垣で防御しようと考えたのであろう。命を受けた利長は、金沢城の南東九キロの戸室山麓で採掘した安山岩、いわゆる戸室石で高石垣を構築することに決め、石切作業が始まった。加賀・能登の村々から人足を動員し、侍・足軽・小者たちが一体となって石引きや石積みに動員された。石積みは、穴生(石垣専門職人)の源介などが指揮したのであろう。源介は天正十五年(一五八七)、利家から知行100俵を拝領したが、石垣構築の功績が認められたものであった。

篠原の石垣作り
しかし、いざ高石垣を積み始めると東面で建造中の石垣が二回も崩れ利長は苦慮した。その噂は京都の利家の知るところとなり、篠原一孝という城作りにたけた重臣を金沢に送った。利長は普請場を篠原に任せ、越中守山の自分の城へ帰り篠原の石垣作りを見守った。篠原は高石垣を八分通り積み上げたところで、小縁(犬走り)を付け高石垣を難なく完成させた。しかし、利長は立腹した。「小段を付けたのでは何のための高石垣ぞ、小段なしで積むため自分は苦労したのだ」と残念がったが、出来た以上はやむを得ないと堪忍した。この逸話から、篠原と利長の石垣観に遣いがあったことがうかがわれ面白い

また東外惣構、百間堀、白鳥路等の構築も出羽守が任され指揮した。石垣普請にたけていた人物だったようだ。

現在の出羽町、歴史博物館あたりにあった出羽守屋敷そこから菊川1・2丁目あたりの主馬屋敷に娘を嫁がせるためにつけた坂道、その時に積んだであろう野面積みの石垣が今も残る。

その時には前回投稿した大乗寺坂はなかったと金沢古蹟志にも記載されている。


嫁坂に残る野面積みの石垣


左:坂道下部 中:坂道中間部 左:坂道上部

坂道の途中に住宅があり嫁坂がらの出入りとなっている。

坂両側に手すりが取り付けられ、坂も石段も新しい石が張られ昔の面影が感じられない、坂表が無ければ住宅の出入りのための坂にしか見えない。

下記写真は金沢の坂道コラムのサイトのものだがコンクリートの坂道では風情も情緒のない。金澤らしさを出すのはなかなか難しそうだ。出羽守ならどんな石段、坂道にしただろう?


1991年(平成3)ごろ、修景工事前の嫁坂(提供:東洋設計)写真:金沢の坂道コラムのサイトより

坂道散策はまだまだ、大乗寺坂より徒歩で10分足らずで嫁坂、この坂を下ればそこは新坂、新坂の先には二十人坂、白山坂と坂道が続く。



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大乗寺坂(金沢市本多町2-7-11)

慶長から元禄年間に曹洞宗の古寺、大乗寺が坂下にあったのでこの名で呼ばれている。同寺はのち長坂へ移転した。

 

 前回の投稿では歴史の小径上部からの写真を記載した。なぜかというとゲートが締まっており下に降りるのを諦めたためである。

ゲート入り口には、開放時間:午前8時~午後5時(3月から9月)

              午前8時~午後4時(10月、11月)となっています。
美術館裏よりの下り口、小径はつづら折になっていて踊り場を二か所も受けてある。その分美術の小径よりは緩やかな坂道になっている。


クリックで拡大画像が別ウインドウで開きます。

この坂道を利用して美術館方面の近道として利用する人もいるようです。平日の夕方には下りてくる人をよく見かけました。藩政時代と同じようにここを通勤経路にしているのでしょうか。

この歴史の小径は、美術の小径の階段を降りたところで合流し金沢市立中村記念美術館へと降りてゆく。

坂道を下りたところで林を抜け明るくなる。

美術館前には梅林があり訪れた時にはまだ実をつけていた。


美術館前の梅林


金沢市立中村記念美術館

美術の小径は山裾側に緑の小径と名を変えて続いており鈴木大拙館へとつながっている。


左:芝生の本多公園横を通る緑の小径。右:鈴木大拙館裏の紅葉の林。

紅葉の季節もおすすめ(写真は昨年撮影したもの)。

緑の小径は鈴木大拙館横にとつながっている。


左:初夏の水鏡の庭 右:晩秋に水鏡の庭

鈴木大拙館 公式サイト

禅を世界に広めた鈴木大拙、その思想に触れる場所

金沢が生んだ世界的な仏教哲学者、鈴木大拙の世界観に触れられる施設です。その書や写真、著作を通し、大拙の思想や足跡を学び思索できます。

国際的な建築家、谷口吉生氏による設計で「玄関棟」「展示棟」「思索空間棟」の3つの棟と「玄関の庭」「露地の庭」「水鏡の庭」の3つの庭によって構成されています。その独特な空間は、中を回遊することで、大拙について学び、考えるよう意図し、デザインされたものです。(ほっと石川旅ネットより

また、ここまで来たなら時間があれば隣の松風閣庭園も訪ねてみたい。

松風閣庭園は江戸初期(1616年)に沼地と森の自然を活かした池泉回遊式庭園であり、加賀藩の本多家の屋敷から移築された旧広坂御広式御対面所が、現在の場所地に明治40年(1907)に移築された際に「松風閣」と改称。鈴木大拙館のオープンした平成23年(2011)から一般公開されるようになる。

やっと瞑想の小径から抜け出すことができた。そろそろ本題の大乗寺坂へと。

大拙館を出て数分歩くと大乗寺坂の登り口につく登り口右側に大乗寺旧跡の標柱が建つ。

大乗寺坂(金澤古蹟志より)

元禄年中まで此の坂の下に大乗寺ありし故に、坂名に呼べり。従前は此の坂路の間怠るがけ縁に町家数戸ありしかど、廃藩後追々家屋を毀(こぼ)ち、明治十九年に出羽町・鷹匠町・欠原町の邸地、陸軍営所の練兵所と相成るに付き、此の坂路を廃せり。

古蹟志に記載のように大乗寺坂は発祥の由来こそ古いが戦後にできた新しい坂道だ。この坂道は登る人を疲れさせない。斜度の変化がリズムを与えているのだろうか、途中に休憩できるベンチが設けられている。また、眺望も開けていて現在の大乗寺がある野田山方面を望むことができる。

坂道は両脇には木々が茂っているが、管理が行き届いているのか鬱蒼とした感じはなく明るく風通しもよく爽快さを感じる。

坂道を登ると左にNTT西日本出羽町ビル本多の森ホール歴史博物館へとつながる。

県立美術館からスタートして文化施設を巡るコース、ゆっくり散策してては一日では回り切れない界隈だ。



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美術の小径

小道に行く前に前回の辰巳用水のせせらぎと書いたが水のない用水ではせせらぎではなかった。

 

辰巳用水は旧奥村家上屋敷跡土塀に沿って流れる兼六坂につきあったところで暗渠となり道路を横断する。思うに一筋の流れは真っすぐに兼六園にもう一筋は左へと流れる。左に流れた水は護国神社横・石川県立能楽堂を通り出羽町交差点で再び暗渠となり石川県立美術館横へと流れる。


兼六園内の小立野口裏にある池、ここに流れ込んでいる水が辰巳用水の一部だろう。下記の写真は護国神社横に流れる用水

 

 

美術館横に現れた用水はあろうことか美術館裏から滝となって崖下の本田町へと流れていく。流れ落ちた水は再び暗渠となり本多町通りを横断しているのだろう。

 

この滝の横に坂道・石段が美術の小径になっているこの道は途中で歴史の小径とつながり崖下の金沢市立中村美術館へとつながっている。

歴史の小径の下り口、ここにはゲートがあり通行可能時間は8:00時からとなっている。

これから先は後日の散策にて。



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木曽坂・宝円寺裏門坂・みどり坂(金沢市東兼六町17先)

 木曽の山中のような幽すいな所なのでこの名がついた。その一部は宝円寺の裏門の坂なので裏門坂ともいわれていた。

 前回の投稿でみどり坂、裏門坂と区別して記載したが、古い地図を見ると木曽坂と書いた道はみどり坂を通り裏門坂を抜けている。みどり坂から先の源太郎川沿いの道は新たにつけられた道のようだ。

 昭和初期の地図には記載されていることから大正後期もしくは昭和初期に新設されたものだろう。

 みどり坂、裏門坂はもともとは木曽坂だった。つまり「一坂二名」なのかもしれない。



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小尻谷坂(金沢市東兼六町1-11先)

藩政期の中ごろ尻谷坂(汁谷坂・尻垂坂等)より小さいところから、この名がついたといわれている。(標柱より)

 
旧小尻谷坂


明治期に設けられた小尻谷坂

 俗に言う男坂・女坂で言うと真っすぐ階段で登るほうが男坂、なだらかな坂道で登るほうが女坂とでもいおうか?

 何方の坂を登っても兼六坂に出る。坂道の標柱はなだらかな坂の中間あたりに雑草に埋もれひっそりと立っていた。

  

観光名所兼六園のすぐ横にあるが、坂道を通る人もほとんどいない。

 

 階段の小尻谷坂を登り兼六坂を横断すると兼六坂に並行する「上坂」に登る階段がある。その先には兼六園の上坂口に登る階段と続く。

【兼六坂】その昔は「尻垂坂」と呼ばれていた時期があるそうだ。どうして尻垂なのか?あまり良いネーミングではないようにも思うが。1924年4月出版の金澤市外電車略図にも公園下の次の停留所に「尻垂坂」の名前が記されている。その後の1956年(昭和31年)金沢市街地図も尻垂の名が残っているがその後の地図には兼六に代わっている。正確には昭和33年に「兼六坂」と改名されたとのことだ(サカジローより)

 また、この道を市電が走っていたという。この坂を登り石引まで市電が走る、もし可能ならそんな風景を見てみたいものだ。

 富山市内を走る市電・ポートラムのように。



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