加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



木曽坂・宝円寺裏門坂・みどり坂(金沢市東兼六町17先)

木曽の山中のような幽すいな所なのでこの名がついた。その一部は宝円寺の裏門の坂なので裏門坂ともいわれていた。

源太郎川を谷とした通称木曽谷は上流に向かって左側には宝円寺の高台、右には飛梅町の石引台地、その両方に登る坂道が沢山ありとあるサイトを参考にまとめてみた。

現在、木曽坂と呼ばれているのは源太郎川から宝円寺裏門があったとされる高台に登るみどり坂。そして、そこから東兼六町に下る宝円寺裏門坂。この両者を木曽坂と呼んでいる。現に緑坂の登り口に木曽坂の標柱もたっている。

しかし、源太郎川をの両側が切り立った山、その川沿いの道が木曽路に通じる(似ていた)ところがあり木曽谷とよばれたこの坂道が木曽坂と呼ばれたのかと想像(考える)する。現在あh両側に言えも建ち木曽の面影はない。

左:みどり坂登り口に建つ標柱 右:みどり坂

左:みどり坂を登ると右に曲がるあたりから上部を見る。右:みどり坂を登りきったところから道幅が狭くなり下り坂となる宝円寺裏門坂階段とスロープとの併用坂、勾配はきつい。

みどり坂をのぼりきったところ左は行き止まりとなっていて車で登ってくると方向転換が大変だ。右のほうは民家の軒先を抜けるように進むと階段があり宝円寺の墓地へと登っていく、墓地を抜けて宝円寺へと回ることができる。

その昔には宝円寺表門がこちら側にあったとのことだから参道だったのだろう。

左:裏門坂を下方向jから見る。右:宝円寺裏門坂より宝円寺墓地に入る坂道。

 

正面、木曽坂(自称)右に進むと安楽寺、雲龍寺を経て八坂へと出る。

木曽坂より木曽坂横の坂と安藤坂の三叉路付近を望む。左方向には宝円寺横の坂、右には中学校にと続く坂道がある。

左:宝円寺横の坂。右:中学校にと続く坂道

木曽坂(自称)は安藤坂となり金沢大学付属病院まで続く。突き当りには旧町名の標柱が立つ。なんとも難しい町名だ。

 

百々女木町 どどめきまち 石引1丁目 昭和39年4月1日 いいね金沢より引用

藩政時代、木曽谷に注ぎ込む川の流れが急で、高い音をたてていたところから、ここに架けられた橋をどどめき橋と呼び、この名が町名になったという。明治4年、百々女木町、馬坂新町、集福寺門前、宝円寺門前の一部の合計77軒で成立した

源太郎川 いいね金沢より引用

  • 更新日:2022年03月15日

右側に民家が建ち並び、手前に傾斜のある坂道と、左の木々が鬱蒼と茂っている丘の間を流れる用水路の写真

  • 延長:約2.0キロメートル
  • 完成年:不明
  • 成り立ち

名前の由来は不詳。ただ、辰巳用水が造られた時、その分水が流れ込んでいたため水量は豊富で、小立野台地から下の木曽谷へ落ちる水の音はとても激しかったという。辺りに轟くような大きさだったことから、その地の橋や町の名前が「とどめき橋」「百々女木町」と名づけられた。

  • 現在

金沢大学医学部の北西部辺りから自然発生した水は、それから急な木曽坂沿いを駆け下っていく。この流れの存在により、木曽谷と呼ばれている宝円寺周辺(宝町)は、まるで渓谷のような風情がある。やがて寺院群を縫うようにして山裾を流れ、途中、東外惣構堀と合流し、最後は浅野川へ注いでいる。

 



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