八丁堀亀島町近くの組屋敷に、田所平三郎の住まいはあった。四十半ばの平三郎は、跡継ぎを決めるのが遅いくらいであるのだが、未だ決め兼ねていた。
なぜなら、子は娘が二人。長女に婿を取るのが全うではあるが、それを躊躇わせるものがあったのだ。幾日も考え抜いた結果はひとつであった。
「初江を呼びなさい」。
細君にそう命じると、居住まいを正し袖に手を入れ目を瞑る。
「初江でございますか」。
「左様、初江だ」。
「でしたら縁組が」。
細君の声が弾んでいるのは、これまでどのような良縁が舞い込もうと、平三郎が首を縦に振らなかったのだ。相手には初江の病弱を理由にしていた。
そう、初江は平三郎には似ても似つかぬ、細君似の器量良し。十五にもなると縁組は後を引かなかったが、既に十八。もうこの辺りで嫁がない事には年増と呼ばれる年になる。
初江が部屋に入ると、平三郎はすっと息を吸い込み、一気に話し出すのだった。
「初江、そなた与力の片山様の御子息を存じ上げてておるか」。
初江の顔が瞬時に固まるのだった。そして直ぐに俯き、かぶりを振る。
「左様か。既に見習いとして奉行所に上がっておられるが、中々の人物である」。
同心の家から与力に嫁ぐとなれば、目出たい出世である。それもこれも、初江の器量望みである事は言うまでもない。
「父上、父上はわたくしに嫁げとおっしゃられますか」。
「と申すは」。
「わたくしは、この田所家の長女。跡取りにございます」。
「これ以上の良縁はないと心得ておる」。
初江は、常に父に口答えなどしようもない大人しい娘であった。それが、目に涙を溜て、唇を噛み締め、指先は微かに震えている。
「何が不服なのだ」。
平三郎にはその訳が分からずにいた。与力の家に嫁げば、三十俵二人扶持で貧乏所帯を切り盛りする事もない。何より相手から望まれているのだ。
「父上、何故にわたくしに田所の家を継がせてはくださらないのです。わたくしは嫁になど行きたくはありません。田所の家を継ぎとうございます」。
「旦那様、初江は丈夫ではございません。わたくしもこの家で婿を取った方がよろしいかと」。
細君が言い掛けた言葉が終わらない内に、「口出し無用」と、平三郎の声が被さる。
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なぜなら、子は娘が二人。長女に婿を取るのが全うではあるが、それを躊躇わせるものがあったのだ。幾日も考え抜いた結果はひとつであった。
「初江を呼びなさい」。
細君にそう命じると、居住まいを正し袖に手を入れ目を瞑る。
「初江でございますか」。
「左様、初江だ」。
「でしたら縁組が」。
細君の声が弾んでいるのは、これまでどのような良縁が舞い込もうと、平三郎が首を縦に振らなかったのだ。相手には初江の病弱を理由にしていた。
そう、初江は平三郎には似ても似つかぬ、細君似の器量良し。十五にもなると縁組は後を引かなかったが、既に十八。もうこの辺りで嫁がない事には年増と呼ばれる年になる。
初江が部屋に入ると、平三郎はすっと息を吸い込み、一気に話し出すのだった。
「初江、そなた与力の片山様の御子息を存じ上げてておるか」。
初江の顔が瞬時に固まるのだった。そして直ぐに俯き、かぶりを振る。
「左様か。既に見習いとして奉行所に上がっておられるが、中々の人物である」。
同心の家から与力に嫁ぐとなれば、目出たい出世である。それもこれも、初江の器量望みである事は言うまでもない。
「父上、父上はわたくしに嫁げとおっしゃられますか」。
「と申すは」。
「わたくしは、この田所家の長女。跡取りにございます」。
「これ以上の良縁はないと心得ておる」。
初江は、常に父に口答えなどしようもない大人しい娘であった。それが、目に涙を溜て、唇を噛み締め、指先は微かに震えている。
「何が不服なのだ」。
平三郎にはその訳が分からずにいた。与力の家に嫁げば、三十俵二人扶持で貧乏所帯を切り盛りする事もない。何より相手から望まれているのだ。
「父上、何故にわたくしに田所の家を継がせてはくださらないのです。わたくしは嫁になど行きたくはありません。田所の家を継ぎとうございます」。
「旦那様、初江は丈夫ではございません。わたくしもこの家で婿を取った方がよろしいかと」。
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