大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

浜の七福神 130

2014年08月05日 | 浜の七福神
 「おっと忘れるところだったぜい。殿様、春になったらこれを百姓衆に渡してくんな」。
 手にした布の袋を、ぽんと小性に投げる。
 「これは何じゃ」。
 「へい。霜にも負けねえ麦の種でさあ」。
 袋の中身は、種は種でも、木っ端を小さく丁寧に、種の形に仕上げた代物が山と入っていた。
 「まあ、騙されたと思ってよ」。
 困っているなら、藁にも縋れと甚五郎、にやりと笑うのだった。

 不思議なことに、翌年の春に撒いた甚五郎の種は、霜が下りても枯れず、夏も終わり近くになると、高松の畑に小麦色の穂をたわわに実らせ、百姓衆を救ったと伝えられる。
 「元々が奥州の杉の木っ端らしいんで、寒さにゃあ強えや」。

 高松城中庭の池を眺めていた円徹だった。振り向いた顔には案の定、涙が光っている。
 「親方、私は、親方の龍に命を救われた事があります」。
 おやと、甚五郎の眉が上がる。
 「住持様のお使いで、夜に檀家さんの所へ走った時に、辻斬りに合いました。その時、私の身代わりになってくれたのが、御寺の龍だと、住持様がおっしゃいました」。
 もう駄目だと目を閉じた時に、額の直ぐ先で、聞いた事もない鈍い音がしかたと思いきや、己はかすり傷ひつつなく、寺の龍の彫り物が、真っ二つに斬られ血を流していたと、円徹は告げる。
 「おめえ、それであっしに弟子入りしたかったのかい」。
 「最初に言ったように、親方みたいな生きた彫り物をしたかったのです」。
 「だったら、てんから分かってたんだろう」。
 「それを、この目で確かめたかったのです」。
 母の御仏が、己を救ってくれた龍のように、この世に生を持てば、また母に会えると思い描いていたと円徹は正直に話す。
 「おめえ、その小せえ胸に抱え込んでいる物をよ、吐き出しちゃくれねえかい」。
 甚五郎の言葉に、瞬時黙り込む円徹だったが、次第に込み上げる熱い物を押さえ切れずに、大粒の涙をこぼすのだった。
 「母上が御自害なされた。でも、死に切れずに苦しまれて…。私がこの手で、この手で、御命を絶ちました」。
 円徹は、近江山上藩藩主・安藤伊勢守重長の嫡男として生を受けたが、母の身分が卑しかったが為に、重長が正室を迎えるに当たり、外聞が悪いと屋敷を出されたのだった。
 そして、日々気鬱に陥っていった母は、咄嗟に己の胸に刃を突き立てたのである。だが、武家の習わしを知らぬ母は死に切れず、円徹に血まみれの手を差し伸べたのだった。
 母を断末魔の苦しみから救いたく、その喉に刃を突き立てたのはわずか九歳の時であったと思い出す。だが、それは、決して口に出してはならない事だった。






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