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大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

ついた餅も心持ち 第四十五話  

2011年03月04日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 みつは、恵美須屋の一人娘のひさが見送りに来ないことに憤っていた。
 「おひさちゃん見送りに来なかったわね」。
 「照れ臭いんじゃないですか」。
 嘉助がそう言うと、善兵衛と平次も「違いない」と頷いて意味ありげに笑い合った。
 「何さ、どうしちゃったのさ、三人して。わたしにも教えておくれよ」。
 「おみつさんは、あん時のお嬢さんを知らねえ…」。
 平次が言いかけると、善兵衛が咳払いをしてそれを制止し、また三人で笑い合った。
 「大丈夫。おひささんの気持ちは辰二郎さんに伝わってますよ」。 
 「どうしてさ、どうして善兵衛さんにそんなことが分かるのさ」。
 善兵衛はみつの問いかけに答えなかったが、辰二郎の腰元に下げられた根付けは、ひさの玉簪の瑪瑙を細工したものだと気付いていたのだ。
 多分、ひさはずっと前から辰二郎を好いていたのだろう。自分に縁談が持ち込まれても素知らぬ振りの辰二郎が歯がゆくてしかたなかった。だから、辰二郎の関心を引きたくて、あれこれ我がままも押し通していた。辰二郎の気持ちはどうなのだろう。奉公人の立場では身分も違う。いかなる思いがあったとしてもそれは夢のまた夢だ。辰二郎の思いは分からず仕舞いである。

 辰二郎は番所の前で待っていたひさに深く頭を下げ通り過ぎようとしていた。すると、ひさが小走りに行く手を塞ぎ、黙って瑪瑙の根付けを辰二郎の手に握らせると背中を向けた。
 指先を開きその中を見た辰二郎。
 「お嬢様。これは…」。
 「いいか、辰二郎。それはお前さんに預けたんだ。いつかひさが受け取りに行くまで大事に持っていておくれ」。
 それがひさの精一杯の辰二郎への思いである。
 「でもね」。
 ひさは、辰二郎の方に向き直って、
 「取りにはいけないかも知れないね。なんたって、ひさは、日本橋呉服町の大店、太物問屋の恵美須屋の跡取りだもの。だから、それは、お前さんが困った時に金子に替えておくれな。お前さんの役に立てたらひさは本望」。
 どこまでも強がってそう言うと、足早に去ろうとするひさ。辰二郎はその後ろ姿に向かって、
 「一生お嬢様と思い大切にさせていただきます」。
 ひさと、辰二郎の切ない別れであった。
 その後、辰二郎と妹の糸の消息を知る者は江戸にはいない。だが、数年の後、播磨国姫路藩松平家家臣に取り立てられ、勘定方として手腕を振るった若侍は、時折、江戸の方角を向いて手を併せていたという。
 その妹は播磨国赤穂藩浅野家家臣に嫁ぎ、幸せに暮らしていたが、嫡子を若くして亡くし、その遺児が元禄十五年(1703)十二月十四日幕府を震撼させる。
 しかし、それはまだまだ先のお話。

ついた餅も心持ち 第四十四話  

2011年03月04日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 甚五郎の後ろからうな垂れて着いて行く、善兵衛とみつ。二人とも、あんなに激情した甚五郎を見るのは初めてでただただ、圧倒されていた。
 「善兵衛。お前さんは間違っちゃいなかったぜ」。
 「親方」。
 「お上にもお慈悲ってもんがあるさ」。
 実は甚五郎、東照宮に詰めていた寺社奉行の安藤重長を通じて、北町奉行の石谷左近将監貞清にこの一件の裁きに恩情を願い出ていた。
 石谷左近将監貞清は、は善良で、面倒見が良く、旗本ながら己の出時が貧しかったことから、庶民にも精通した名奉行として知られていた。
 辰二郎の裁きの場で、恵美須屋源之丈、娘のひさが、その家族の状況とこれまでの辰二郎の真面目さを訴えたこと。盗まれた金子が全額戻って来たことから、辰二郎の刑罰は江戸所払いと減刑されたのだった。
 日本橋の袂で、辰二郎を見送ろうと待っていたのは、善兵衛、嘉助、平次、そしてみつ。
 辰二郎は、
 「このたびは本当にありがとうございました。お奉行様から、甚五郎親方がわたしの恩情を願い出てくださったと聞かされました。甚五郎親方のようなお偉い方がわたしなんぞのために…」。
 さめさめと泣いた。
 甚五郎はそういう男である。一同はその大きさに今更ながら心打たれていた。
 平次が歩み寄り、いつぞやの無礼を詫びる。辰二郎も、
 「わたしの方こそ、平次さんのお気持ちを逆撫でするようなことを…」。
 平次と辰二郎は手を取り合って互いに涙を堪え切れなかった。
 今、正に辰二郎が旅経とうとするその時、二挺の駕篭が日本橋で止まった。最初の駕篭から降りて来たのは、恵美須屋源之丈。次の駕篭からは小さな女の子だ。その瞬間、辰二郎は駕篭に走り寄っていた。
 「糸」。
 何年振りかで抱き合う兄妹の姿は、誰もの涙を誘った。
 「旦那様」。
 辰二郎はそれだけを発するだけで精一杯だった。源之丈は、
 「辰二郎。わたしは悔しいんだ。何でもっと早く言ってくれなかったんだい。わたしは、小さな時から娘のひさと同じように育てて来たつもりだった。お武家様にも関わらず、そんな奢りもなく真面目に働くお前さんにゆくゆくは暖簾分けを考えていたのだよ。どうしてわたしに一言言ってくれなかったんだい。それが悔しいんだ」。 
 「旦那様」。
 源之丈は辰二郎を抱きしめながら、
 「いいかい。この後、何か困ったことがあったら、いの一番に私に文を寄越すのだぞ」。
 「お礼の言葉がございません」。
 「いいか、妹子は二度と手放すなよ」。
 辰二郎は妹の小さな手をしっかりと握り歩み出した。二人の姿が見えなくなるまで誰もそこを離れようとはしなかった。
 「行っちまった」。
 誰かが発したその言葉で、一つの大事が終わったことを悟った。辰二郎にとっては平坦な道ではないだろう。だが、きっと乗り越えていくに違いないと確信もしていた。

ついた餅も心持ち 第四十三話  

2011年03月03日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙

 「わたしは、考えました。金子をお返しして、訴えをお取り下げしてもらうのがいいのか。それとも、辰二郎さんが自分がお縄になることは覚悟してわたしに届けた金子です。命を懸けた人の願いを成就させてやるべきなのかって」。
 「辰二郎の願いをとは…。それが三十両を盗んだ理由ですか」。
 善兵衛は辰二郎から聞いた話を包み隠さず源之丈に話した。
 「でしたらなぜ、辰二郎はわたしに金子を借りたいと言わなかったのでしょうか」。 
 「はい。それはわたしも辰二郎さんに言いました。すると、返す宛の無い金子は借りられないと。何より、辰二郎はお父上が、旦那さんから辰二郎さんの給金を大分前借りしていることも知っていました。それなのに、給金はちゃんとくださる旦那さんにこれ以上迷惑はかけられないと」。
 目をつびり、胸の前で組んだ腕を両の袖口に入れた姿勢で聞いていた源之丈。沈黙の後、重々しく語り出した。
 「善兵衛さん。良く分かりました。辰二郎は追い詰められていたのでしょう。そこへきて、あの火騒ぎ。つい出来心でしょう。ですがね、だからと言って盗みは許されることじゃありませんよ」。
 「重々承知しております。しかしこのままじゃ、辰二郎さんは磔獄門。妹さんは吉原から出られない。それじゃあ、あんまりじゃないですか」。
 隣で話を聞いていたみつももちろん、善兵衛の目からも涙があふれていた。
 「旦那さん。お願いです。どうか。辰二郎さんを助けてやってください」。
 みつは畳に額をつけて平伏した。
 「ですがね、盗みは盗み。それに、。辰二郎本人が罪を認めているんじゃあ、今さら、間違いでしたでは通りませんよ」。
 「だったら、わたしが御番所で今の話を包み隠さず申し上げます」。
 善兵衛は立ち上がっていた。
 「善兵衛さん。まあ落ち着いて。お座りなさい。わたしだって辰二郎を助けたくない訳じゃないんだ」。
 「でしたら」。
 「わたしら商人はね。毎日銭勘定をして生活しております。ごまかそうと思えばいくらでもごまかせる。最初は拠ん所ない事情があったとしても。一度味を占めたら、二度三度と繰り返すもんだ。商人は信用商売なんですよ」。
 「辰二郎さんはそんなお人じゃないです。何とか、今回ばかりはお見逃しくださいませんか」。
 その時、廊下に面した障子が勢い良く開き、
 「善兵衛いいかげんしねえかい」。
 と、甚五郎が飛び込んで来た。その勢いは、源之丈、善兵衛、みつも弾き飛ばされそうなほどだった。
 「話は聞かせていただきました。恵美須屋さん、申し訳ございません。弟子がとんでもないことを申し、お手間をおかけいたしました」。
 そう源之丈に頭を下げると、善兵衛、みつに向かって、
 「さあ、帰るぞ」。
 「嫌です。わたしは、恵美須屋さんがお取り下げをお約束してくださるまでここを動きません」。
 善兵衛は梃子でも動かない形相で睨み返す。
 「馬鹿やろー。恵美須屋さんは商人だ。商人が金子を盗まれました。嫌、あれは間違いでしたで通ると思ってるのか。そんなことをしたら、商いの信用を無くし、暖簾に傷がつくってもんだろ。お前にはそんなことも分からないのか」。
 「分かっています。ですが、人ひとりの命がかかってるんです。わたしは辰二郎さんを助けたい」。
 「てめーには、まだ分からねえのか。身内を女郎に売らなきゃならねえ人間がどれだけいると思ってやがる。その全部が全部、身請けの金が欲しかったって理由で、盗みをして許されるとでも思ってるのか」。
 「だったら、だったら、親方。何もしないで見ていろっておっしゃるんですか」。
 両者、あまりの剣幕にたまらず源之丈が割って入る。
 「まあ、まあ。お静まりください、ええーっと…」。
 「これは申し遅れました。わたしは、豊島町の大工の左甚五郎と申します。名乗りもせずご無礼しました」。
 先ほどとは打って変わった丁寧な所作に源之丈も居ずまいを正し、名乗りを挙げ、
 「あなた様が、あの有名な左甚五郎様でしたか」。
 「とんでもないです。それよりも、本当に申し訳ありませんでした。こいつはすぐに連れて帰りますんで。ここはわたしに免じてお許しください」。
 「嫌だ。帰らない」。
 それは絶叫に近い声だった。
 「帰らねえってんなら、力づくでも連れて行かあ」。
 甚五郎はそう言うや否や、善兵衛の襟ぐりをつまみ上げ、畳の上を引き摺り出した。甚五郎のどこにそんな力があったのか、善兵衛は身動きが取れないくらいだった。
 「いいかい、どんな事情があろうともやってはならねえことってのはあるんだぜ。恵美須屋さんは人としての筋をおっしゃってるんだ。だがね、弟子が可愛いくねえ、師匠はいねえ。どんなことをしたって掬ってやりてえって思うのが人情だ。恵美須屋だってお辛いんだ。分かるな。お前はお前にできることをしてやればいいんだ。さあ、帰るぜ」。
 善兵衛は張り詰めていた糸が切れたのを感じた。
 「はい。恵美須屋さん申し訳ありませんでした」。
 善兵衛が頭を下げると、源之丈が甚五郎に向かって、
 「良いお弟子さんをお持ちですな」。
 と声をかけた。すると、
 「お陰さんで。ただね、恵美須屋さん。わたしは、こいつが万が一罪を負うようなことを仕出かしたとしても、最後の一人になるまで、こいつを信じますぜ」。
 甚五郎はそう言うと、不敵な笑みを浮かべ、座を後にした。

ついた餅も心持ち 第四十二話  

2011年03月03日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 甚五郎宅に戻ると、みつが待っていた。
 「善兵衛さん。辰二郎さんはどうなっちまうんでしょう」。
 平次はたまらず口に出したが、誰もが、刑罰については十分なほど分かっていた。
 「この三十両を恵美須屋さんに返して、訴えをお取り下げにしてもらうように、わたしからお願いしてみます」。
 みつが言い出したが、それではこちらも仲間だと疑われる可能性もある。しかし、それしかあるまいと善兵衛も思っているが、ただ、死をかけた辰二郎の思いを通してやった方がいいのではないのだろうか。迷っていた。
 「しかし、辰二郎さんはどうして三十両ものお金が必要だったんだろう」。
 みつの言葉に善兵衛、嘉助、平次の三人はただ黙って顔を見合わせた。
 まんじりともせず夜が明けた。
 善兵衛が、
 「わたしが、このお金を恵美須屋に持って行きます」。
 「それじゃあ、お前さんも仲間だと思われたらどうする」。
 嘉助が神妙に善兵衛に言った。
 「だったらわたしも一緒に行きますよ。わたしなら、恵美須屋の旦那さんも良く知ってるし、第一、辰二郎さんから預かったのはわたしでSからね」。
 「そうですね。その方がいいでしょう。おみつさん、お願いします」。
 そう言うと、善兵衛とみつは、真源寺へ向かった。

 「またあなたですか。おみつさんまで一緒にいったいどうしなさいました」。
 恵美須屋の主人の源之丈はいらついた顔を向けた。
 「はい。どうしても聞いていただきたいことがあります」。
 「旦那さん、わたしからもお願いします」。
 みつも口添えする。
 「込み入った話らしい。三人で話しましょう」。
 源之丈は、使用人たちを部屋から出した。妻とひさは今朝一番に親類に預けたそうだ。
 「さあ、伺いましょう」。
 住職の私室の八畳の間に居ずまいを正した源之丈の前に、善兵衛はみつが辰二郎から預かった、三十両を袱紗ごと差し出した。
 誰の目にも明らかにその包みは、袱紗の上からでも小判にしか見えないにも関わらず、源之丈はさして驚いた様子もなく、善兵衛の言葉を待っていた。
 「この金子は、火事のあった良く朝、辰二郎さんがここにいるおみつさんに、わたしに渡してほしいと預けたものです。ご想像どおり、恵美須屋さんから無くなった三十両でしょう」。
 「はい。確かに、わたしが預かって善兵衛さんに渡しました。理由は分かりませんが、辰二郎さんの思い詰めたような顔を見ていたら、聞いちゃいけない気がしたので、ただ黙って受け取りました」。
 「お二人とも、おかしいとは思わなかったのですか。手代が三十両もの金子を持っていることに」。
 源之丈の言葉は最もだ。痛いところに突き刺さる。
 「はい。良くないことになるんじゃないかと心配して、まずは辰二郎さんと話をしようと、大急ぎで駆け付けたら、昨晩のあの騒ぎでした」。
 真っ直ぐに話す善兵衛の言葉に嘘や虚言はない。それは源之丈にも伝わったが、
 「では、なぜ昨晩それをおっしゃらなかったんで。善兵衛さんとやら、お前さんも仲間だと思われても、猫ばばしようとしたと疑われても仕方ないですよ」。
 よくよく最もである。

ついた餅も心持ち 第四十一話  

2011年03月03日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 夜にも関わらず、真源寺は捕り方の提灯で眩しいほどだ。その時、縄をかけられ、同心に引っ立てられた辰二郎がちょうど真源寺の門を出るところだ。善兵衛に気付くと、辰二郎は寂しそうに笑い深く頭を垂れたのだった。
 「辰二郎さん」。
 その後ろには、髪も着物も乱れ、まるで夜叉のようなひさが裸足の足に血をにじませながら、力なく立ち尽くしていたが、やがて家の者に促されるまま、本堂の中へ消えて行った。
 辰二郎の姿が見えなくなると、野次馬たちが一斉に今の捕り物を語り出す。
 「どういうことですか」。
 近くの野次馬の一人に善兵衛は尋ねた。
 「いやなにね。火事場泥棒さ。恵美須屋さんの帳場から三十両が盗まれたって話でさ」。
 ほかの一人は、
 「しかしなあ、盗まれたって言っても帳場も焼けちまったんだろ」。
 ことのあらましは、恵美須屋の主人が今朝になって焼け残った蔵を見に行ったところ、鍵が開いたままになっており、中にあった金子の中から三十両がなくなっていた。
 そこで、御番所に届けを出したところ、同心の調べに、番頭の貴平が、「火事の合った晩に蔵から出てくる辰二郎を見た」と証言。「蔵から出て来ただけで、金を取ったとは限らない」と主人が同心を返そうとしたが、貴平は「確かに見た」と譲らないため、辰二郎に聞いてみようと、同心を伴って主人と番頭の貴平が真源寺に戻り、辰二郎を呼んだが、うな垂れたまま何も話さない。「申し開きはないのかい」と同心が尋ねると、蚊の鳴くような声で「はい」と答えたそうだ。
 主人が、「間違いじゃないのかい」、「でき心かい」、「訳を言ってごらん」と水を向けても、それきり貝のように黙りこくっているので、「下手人にされちまうよ」と言っても口を真一文字に結んでいたそうだ。
 騒ぎを聞きつけて、主人の一人娘のひさが駆け付けて、辰二郎の襟ぐりを掴んで詰め寄っても、平手打ちをしても黙ったまま。ひさが大声で辰二郎を詰る声は境内中に響き渡ったそうだ。だが、辰二郎に縄が伐たれると、ひさは、「何かの間違いです。辰二郎がそんなことをする訳がない。今一度お調べください」。そう同心にしがみついたり、「縄を外せ」と噛み付いたりの大暴れだったらしい。
 ひとしきり野次馬たちの話を聞いてから善兵衛たちは、本堂へ上がった。本堂は、焼け出されて人たちで埋め尽くされており、恵美須屋の家族は住職の私室を仮住まいにしていた。
 部屋の隅には振り乱した髪、着崩れしたままを改めめようともせずに、放心状態でしゃがみ込むひさが、痛々しい。
 「恵美須屋さんでございましょうか」。
 主人とおぼしき上等の着物姿の五十代と思われる男に善兵衛は尋ねた。
 「いかにも、恵美須屋源之丈ですが、あなた様は」。
 「はい。わたしは、近江の宮工大工・大森善兵衛と申します。こちらは、江戸の堂宮大工棟梁・左甚五郎方のところの嘉助さんと平次さんです」。
 そう名乗った。肩書きまで添えたのは、ことがことだけに素性をはっきりさせた方が良いと思ったからだ。
 「その大工さんたちが、何のご用でしょうか。お店の建て直しでしたら、今夜は取り込んでおりますんで」。
 大工と告げればまずはそう思われて当然だ。
 「いえ、わたしどもは、お嬢さんのひささんとも、手代の辰二郎さんとも顔見知りでして。話を聞いて駆け付けた次第です」。
 「そうですか。しかし、こんな状態でして」
 と源之丈はひさに目をやった。ひさは善兵衛たちなど目に入っていないどころか、自分の名前にも反応を示さず、まるで生ける屍のようだ。
 「一つだけ教えてください。旦那さんは、御番所への届けを取り下げるおつもりはありませんか」。
 唐突な申し出に源之丈は、目をぱちくりさせながら、
 「わたしだって、辰二郎が盗みをやったなんて思いたくもありませんよ。だがね、善兵衛さんとやら、辰二郎は認めているのですよ。それに、わたしは悔しいんです。わたしは辰二郎を信頼していました。真面目で、気働きもできる。いい商人に育ててきたつもりです。これが、恩のあるわたしどもへの仕打ちですか」。
 「おっしゃるとおりです」。
 善兵衛たちは場を辞するしかなかった。

ついた餅も心持ち 第四十話

2011年03月02日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 上野東照宮では、朝から、昨晩の日本橋から出た火事の話で持ち切りだった。
 「お店がそうとうやられたらしい」。
 「永富町界隈から、神田まで火の手が伸びたらしい」。
 火事と喧嘩は江戸の花とは良く言ったもので、江戸の町は家事が多い。だが、この時代まだ町火消制度はなく、火の見櫓から半鐘の音が響き、いろは四十七組の登場は、享保三年(1718)八代将軍・吉宗の時代まで待たなくてはならない。
 では、どうしていたのかというと、慶安元年(1648)に幕府が、各町に人足を10人ずつ備えておくことの御触書を出したことから、町人が自身で組織した店火消が消火活動を行うのだが、制度化されている訳ではなく、技量も未熟であった。
 ひとたび火事が起これば、町人はそれこそ身ひとつで逃げ出すのが常であった。
 善兵衛が江戸にやって来てふた月の間に、三度ほど近場で火事騒ぎがあったが、いずれも小火で、大事には至らなかった。だが、今回の火事は善兵衛にも聞き覚えのある地名が出てきている。善兵衛は一抹の不安を抱いていた。
 すると、永富町の表長屋も全焼とかで、新吉たちは町家の建て直しに取られるとの知らせが入った。
 日本橋呉服町には太物問屋の恵美須屋。永富町には平造親方。「皆さん、ご無事だろうか」。善兵衛は気を揉んでいた。

 その日、豊島町の堂宮大工棟梁・左甚五郎の家に戻ると、永富町の大工・平造親方の娘・みつが善兵衛たちを出迎えた。
 「おみつさんじゃないですか」。
 驚く善兵衛たちに、
 「知り合いかい。こっちの方が驚いたね。全くあんたたちは若い女を良く知ってること」。
 そう言うかよ。
 「うちも焼けてしまったんで、甚五郎親方のご好意で、わたしだけ、お世話になることに」。
 健在なみつに会えて、善兵衛は胸をなで下ろしていた。
 「で、平造親方や新吉さんたちは」。
 「はい、みんな無事です。ただ、おとっつあんたちは、焼けた町家の建て直しがあるもんで、向こうに残っています」。
 「なら不幸中の幸いだ。日本橋はどうなのですか」。
 と、善兵衛。日本橋ではなく恵美須屋だろうとみつは察した。
 「夜更けだったもので、詳しくは分かりませんが、恵美須屋で怪我人などの話は聞いちゃいないです」。
 
 夕餉も終わり、善兵衛は部屋で寝自宅に入っていた。すると障子の向こうから、みつの呼ぶ声がした。
 みつは、「ここでは話せないので、階下の居間に来て欲しい」と言う。いつにないみつの緊迫した口調に善兵衛は、「ただごとではない」。そう思った。
 みつの声は、当然同室の内弟子たちにも届いている。
 「恵美須屋さんに関わる話でしたらあっしたちも」。
 と、嘉助と平次も加わった。
 みつによると、昨晩焼け出され、真源寺に身を寄せ、一晩明かしたが、そこで恵美須屋一家にも会い。互いの無事を喜び合った後、手代 の辰二郎に呼び出され、
 「これを善兵衛さんにお渡しください」。
 と、袱紗を渡されたと言う。
 その袱紗を、善兵衛の前に出した。手にした善兵衛。
 「これは」。
 と言った切り。手に触れただけで小判だと分かった。それも三十両の大金だ。
 「これを善兵衛さんに渡してくれればそれで分かるとおっしゃいました」。
 善兵衛には、この小判は、妹身請け金とはすぐに分かったが、金の出所に一抹の不安を隠し切れない。それは、嘉助と平次も同じだった。
 普通に考えて、三十両もの大金は手代ごとこが用意できる額ではない。
 「ねえ。何ですか。何があったんですか」。
 みつは、善兵衛に食い下がった。だが、
 「で、辰二郎さんはご無事なんですね」。
 「はい。恵美須屋さんも土蔵以外は焼けてしましたから今も、真源寺だと思います」。
 聞くや否や、善兵衛、嘉助、平次の三人は真源寺に向かって走り出していた。

ついた餅も心持ち 第三十九話

2011年03月02日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 「ねえ、嘉助さん。わたしに何ができるでしょうか」。
 帰り道、善兵衛は嘉助に尋ねた。
 「お前さんは、裕福な家に育っているから知らないだろうが、今日みたいな話はそこいら中に転がっているのさ。だけど、それを悲しがってたってしようがないから、誰もが、嫌なことや悲しいことは忘れて、前だけを見て生きて行くんだよ。くよくよしたって、笑ってたって一日は一日だ」。
 「それが江戸っ子ですか」。
 「そうさ。まあ、口が悪いんで誤解もされちまうがな」。
 
 数日間誰とも口を聞かなかった平次にだったが、そいつの間にかいつも通りの平次に戻り、一安心した頃、日本橋呉服町に店を構える大店、太物問屋の恵美須屋の一人娘のひさの縁談が決まったと風の噂が運んできた。お相手の婿さんは、同じく大店の回船問屋の二男坊。大店同士の縁組みとあって、恵美須屋では、まるでどこぞのお姫様かというくらいの婚礼衣装を用意しているらしい。
 「一人の娘の値段と同じくらいの金子で身を飾れる娘もいる」。そう思うと善兵衛はやるせなくなった。
 縁談が決まってひさも大人しくしているのだろう。あれから善兵衛の元を訪れることもなくなっていた。最も、辰二郎が共を嫌がっていたのかも知れないが。
 
 ひさの婚礼を恵美須屋と同じくらいに喜んでいたのが、永富町の大工
平造の娘のみつ。喉のつかえが取れたような壮快さ。なにせ、普段なら誘われたって嫌な恵美須屋へ、わざわざ豊島屋の餅菓子を持ってひさを尋ねたくらいだ。
 「なあに、おみつちゃん」。
 ひさは、およそ花嫁には相応しくない仏頂面。何かに怒っているようにも見える。
 「おひさちゃんの婚礼が決まったって聞いたから、お祝いを言いに来たのよ。はい。これ」。
 「ふっ婚礼のお祝いが豊島屋の餅菓子なの」。
 「相変わらず感じが悪いわね。で、お婿さんはどんな人なのさ」。
 「別に」。
 「別にって、年格好とか、顔かたちとかあるじゃないの」。
 「そんなに興味あるなら、おみつちゃんが一緒になればいいじゃないの」。
 ひさはすでに木箱から餅菓子を一つ手に取って口に運んでいる。
 「あー。美味しいこと。おみつちゃんも食べれば」。
 「言われなくても食べるわよ、何さ」。
 とこそへ、辰二郎が茶を運んで来た。
 「辰二郎。これ、おみちゃんから。辰二郎もいただけば」。
 「いえ、わたしはまだお店の仕事がありますんで」。
 「ふーん。おみつちゃんからの婚礼のお祝いよ。辰二郎も食べて祝いなさいよ」。
 婚礼が決まったというのに、ひさの不機嫌さが不思議なみつだった。そして、ひさは機嫌が悪い時は必ず、こうやって辰二郎に絡むこともみつは知っていた。
 「おひさちゃん。婚礼嬉しくないの」。
 「嬉しいも何も、ひさの知らない間におとっつあんが決めちゃってたんだもの」。
 みつは、気の毒に思いながらも、恵美須屋ほどの大店の跡取り娘ともなれば、致し方ないのではとも感じていた。
 「おひさちゃん。ひょぅとして好いてる人でもいるの」。
 ひさは、餅菓子を詰まらせた胸をとんとん叩きながら、
 「いないわよ。そんな人」。
 「ひょっとして善兵衛さんじゃないの」。
 「馬鹿じゃないの。どうして善兵衛さんを好きにならなきゃいけないのよ」。
 みつは、浅草寺の水茶屋で甘えたような口調のひさを思い出していた。
 「大体、善兵衛さんを好いてるのは、おみつちゃん、あんたでしょ」。
 突然予想もしていなかったことを言われ、みつは言葉に詰まってしまった。
 「ほおら、ご覧なさい。そのとおり。大体あんたは昔から好いた人の前に出ると、鼻の頭を人差し指で掻く癖があるからすぐに分かるのよ」。
 「だったら、何であんな、善兵衛さんに色目を使ったのさ」。
  ひさは、黙りこくって二個目の餅菓子を食べていた。
 まるで喧嘩口調のやり取りだったが、みつは、「今日の火差ちゃんの方が、話しやすいや」と笑みがこぼれた。
 恵美須屋の前の通りでは辰二郎が打ち水をしていた。
 「辰二郎さん。おひさちゃんはずっとあんな調子なんですか」。
 「はい」。
 「婿さんが気に入らない素振りはあるのかい」。
 「それよりも、お嬢様は善兵衛さんをお慕いしているのではないでしょうか」。
 「それはないみたいだよ」。
 「お嬢様がそうおっしゃったんで」。
 「おひさちゃんは意地悪だけど、嘘はつかないもの」。
 二人して大笑いした初夏の夕暮れだった。

ついた餅も心持ち 第三十八話

2011年03月02日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
「そうさな。恵美須屋だったら、そのくらいの金どうにでもなるだろう。旦那さんに頼んでみたかい」。
 「とんでもないことです。実は、父上がわたしの知らないところで旦那様からわたしの給金の前借りをしているようなのです。旦那様はそんなことは一言も口にせず、わたしの給金はきちんとくださるのです。もうこれ以上何もお願いはできません。それにお借りしてもわたしには返す宛がありません」。
 「そうだな。そればっかりは、あっしらでもどうにもしてやれねえ。まあ、呑みねえ。今夜はあっしの奢りだ」。
 「でもよ、禿っつことは、末は太夫だ。食うや食わずの貧乏長屋で暮らすよりは案外幸せなんじゃねえか」。
 すっかりいい気分になった平次がろれつの回らない口で、言い放った。その瞬間、辰二郎の顔色がみるみる変わる。
 「何をおっしゃいます。太夫とて所詮は遊女じゃないですか。あのどぶで囲まれた中でだけしか生き生きられないんだ」。
 あまりに大きな声に、驚きながら善兵衛が辰二郎をなだめようとするよりも早く、
 「馬鹿野郎。てめーって奴あ。どこまで腐ってるんだ」。
 と、嘉助が平次の胸蔵を掴み、殴りかかっていた。平次も「何だと」と反対に嘉助を掴みにかかる。
 「お止めください。嘉助さんも平次さんも」。
 二人の間に割って入った善兵衛の頭に、振り上げた嘉助の拳が当たった。
 「うっ」。
 低いうめき声を上げてうずくまる善兵衛。その隙を縫って、辰二郎は唇を噛み締めながら走り出てしまった。
 「待ってください。辰二郎さん」。
 善兵衛は辰二郎に追い付くと、
 「申し訳ありません。平次さんも決して悪気はないのです。どうかお許しください」。
 立ち止まった辰二郎は、
 「悪気のない人があんな酷いことを言えましょうか」。
 涙ながらにそれだけ言うと、静かに流れる神田川に目をやった。どれくらいの時間が流れただろう。善兵衛は静かに見守ることしかできない自分が歯がゆかった。
 そこへ、随分探したのだろう、まるで盥の水を頭から被ったかのような汗を流しながら、嘉助がやって来た。
 「辰二郎さん、すまねえ」。
 だが、辰二郎は黙して動かない。
 「辰二郎さん、お怒りかとは思いますが、ひとつ、話を聞いてだせえ」。
 平次の父親は町大工で、慎ましやかに母親と平次、妹の四人で暮らしていたが、仕事中に足を滑らせて呆気なく死んでしまい、後には、まだ四歳の平次と、二歳の妹を抱えた母親が残されたのだった。
 それでも最初の頃は、棟梁や親戚が面倒を見てくれたりもしたが、次第に誰も見向きもしなくなり、母親は力仕事でも、物売りでもなんでもして働いた。それでも生活は困窮するばかり。ついに母親は病に倒れ、明日食べるものさえなくなり、赤ん坊だった妹は栄養失調で死んでしまい。母親も後を追うように亡くなった。
 一人残された平次は、町を彷徨い歩き、つい出来心で、ある人の財布を盗もうとして捕まった。それが左甚五郎だったのだ。
 垢まみれの平次を甚五郎は家に連れ帰り、それこそ、自分の子どものように慈しんで育てたのだと言う。
 「平次の妹も、母親も腹を減らしたまま逝っちまったんだ。だから、ついあんなことを口走ってしまって…。本当に申し分けねえ」。
 誰もが、もう口を開くことはなかった。ただ黙って辰二郎を恵美須屋まで見届けるだけだ。
 恵美須屋の裏木戸の前で辰二郎は、
 「妹にも、富士山や日本橋や、浅草や、見せたいものが沢山あって、あり過ぎて…。妹は何もしらないのです」。
 それだけを言い、木戸を閉めた。

ついた餅も心持ち 第三十七話

2011年03月02日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 「あんな真面目そうな人でも吉原通いか」。
 「悪い女郎にでも引っかかっていなければいいがな」。
 他人の知られたくない部分を垣間みるのは面白いのか、嘉助と平次はさきほどからずっと辰二郎を話題にしている。それが尽きると、創作に入った。
 「恵美須屋の旦那さんのお供とか」。
 「昔恋仲だった女がいるんじゃないか」。
 「はら、縄のれんが見えてきましたよ。もうその話はよしましょう」。
 嘉助と平次馴染みの煮売り屋ののれんを潜った三人。昼時が少しづれたせいか、奥まで見渡せる程度の客しかいない。すると、一番奥の端で、独り肩を落として座っている辰二郎が目に入ってた。
 嘉助と平次のけたたまし声に気付いた辰二郎は、一瞬席を立ち上がろうとしたが、思いとどまり軽く会釈をして、居ずまいを変えた。
 「辰二郎さん。もし、お嫌でなければ、お隣よろしいでしょうか」。
 「ええ。どうぞ」。
 善兵衛は、嘉助と平次と離れて、辰二郎と席を共にした。寂しそうな辰二郎の後ろ姿が気になっていたのだ。
 互いに饒舌ではなく、そう親しい間柄でもないことから話題はどうしても、先日のことになる。
 「お嬢様の料理はいかがでしたか」。
 「はい。大変美味しくいただいたのですが、おかよさんが…」。
 とかよが胡蝶の仕出しを買って来て、詰め直しただけだと言っていたこと、甚五郎親方も一目で胡蝶と言ったことを話した。すうるとようやく顔の表情を崩した辰二郎。
 「おかよさんって凄い方ですね。おっしゃったとおりです。わたしが胡蝶まで買いに参りまして、重箱に詰め直したのは奥向きの者です」。
 愉快そうだった。
 「そうですか。それは大変でした。申し訳ありません」。
 「いえ、善兵衛さんが謝ることではありませんよ」。
 「しかし、ほとんど、おかよさんに食べられてしまいましたからね。胡蝶だったら惜しいことをしました」。
 善兵衛が本音を言うと、辰二郎は初めて笑みをこぼす。善兵衛はひさがなぜ自分を訪ねて来たのかを聞いてみた。
 「お嬢様にはどうにも、男の人を振り回して楽しむところがありまして。全ての殿方が自分を好いていてくれないと機嫌が悪いのです。善兵衛さんに対しても、おみつさんへ当てつけでしょう」。
 「おみつさんですか。どうしてまた」。
 「善兵衛さん、本当に分からないですか」。
 何が何やらまたも分からなくなってしまった善兵衛。
 「お江戸はわたしには分からないことばかりだ」
 と苦笑した。
 少しの沈黙の後、辰二郎が、
 「わたしを心訝しがっているのでしょう」。
 と切り出した。先ほどの吉原のことだ。
 「逆に心配しています。辰二郎さんの背中が泣いているように見えました」。
 「そうですか…善兵衛さんはお優しい方ですね、実は、わたしは武家の出で、高梨辰之進と申します」。
 辰二郎はひとたび言葉にすると、堰を切ったように己のことを話し出した。
 辰二郎は、大和高取2万5千石の藩士を父として育ったが、辰二郎が七歳になった十四年前の寛永十四年(1637)、藩主の本多政武に嗣子がなかったため、本多家は無嗣断絶となった。つてを頼って仕官の口を探してみたが、それもままならず、生活も成り立たなくなり、江戸に来てみたが、武士の身分にこだわる父には仕事もなく、母が縫い物で家計を助けたが、どうにもいかなくなり、十歳の時に、長屋の大家を通して、太物問屋の恵美須屋に奉公に出ることにした。
 だが、武士を捨てることに父は激怒し、勘当されたため、以降父親と顔を合わせることはないが、母親には時折会って、恵美須屋の給金を渡していること。辰二郎が奉公に出たすぐ後に、妹が産まれたこと。母は妹と共に会いに来るが、その成長が楽しみだったこと。小さい手を引いて、三人で蕎麦を食べたこと。
 そして、
 「その妹が、十になるかならずで吉原に売られまして」。
 「では、それで吉原へ」。
 「はい。しかし、一度吉原に入った以上、身内と言えども会うことはならず、ああして、時折遠くから眺めているのです。兄として、そんなことしかできず、お恥ずかしい話です」。
 そう言い切ると、さめざめと泣く辰二郎だった。
 辰二郎の妹とは、初音大夫の滑り道中を先導する禿の一人だと言う。
 「できることでしたら、禿のうちに身請けしたいのですが、そんな大金どうすることもできません」。
 いつの間に来たのだろうか、嘉助も涙でぐちゃぐちゃの顔だ。
 「お前さん、苦労なさったんだな」。
 と肩に手をかける。

ついた餅も心持ち 第三十六話

2011年03月02日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 少し戯ける嘉助。善兵衛はうんざり顔だが、帰ろうにも平次に腕を掴まれたままで身動きが取れない。空いている方の腕も嘉助に掴まれ、そもまま引きずられるようにして、大門を潜らされた。周囲は高い木の壁で覆われ、その外側にはどぶが巡らされ嫌な臭気が漂っている。が、ひとたび門を潜るとそこは別世界。豪奢な家が建ち並び、見たこともない、竜宮のような世界が二丁四方に及んでいる。
 「嘉助さん、ここは」。
 善兵衛はようやく理解できた。日本橋葺屋町にある、幕府公認の遊廓。その名の由来には、開拓者・庄司甚内が吉原宿出身であったためとと、元々、葦の生い茂る低湿地だったための二説があるが、徳川家康の隠居地である駿府城城下の遊郭を家康亡き後、駿府から移したのが始まりとされている。
 明暦三年(1657)の明暦の大火で焼失後、浅草田んぼに移転を命じられ、新吉原となる。
 「おう、吉原さ。たまには息抜きも必要さ」。
 嘉助と平次が両脇の格子から手練手管で客を引く遊女をしげしげと眺めながら、ゆっくりりと歩を進めている。時には、格子越しに袂を引かれたりもして、満更でもなさそうだ。
 善兵衛はむせ返るような化粧の匂いと、乾いた土埃の入り混じった独特の香りが先ほどから鼻腔をくすぐり、鼻がむずむずして、くしゃみがでそおうだった。
 「嘉助さんも平次さんも、こういうところに良くおいでなんですか」。
 「そうそうは、来れないがね。何せお足がないもんで」。
 善兵衛の問い掛けも、心ここに非ずで、格子から格子へと目を走らせる嘉助。右へよろよろ。左へよろよろ。まるで酔っぱらいの蛇行のようだ。
 「嘉助兄い。太夫が出てきましたぜ」。
 格の高い遊女は、引手茶屋を通して呼び出しをするのが習わしだった。呼び出された太夫(花魁)は、禿や振袖新造を従えて、遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中(後に花魁道中)と呼んで、その艶やかさをひけらかしたのだ。
 「ほう」。
 道の両脇の見物人の目が太夫一人に注がれ、溜め息が漏れる。
 「初音大夫でしたね。やっぱり初音大夫が一番だ」。
 平次が言うには太夫は吉原に三人しかいない最高級遊女だ。
 「さっ、帰えろうぜ」。
 嘉助がそう言うと、平次も何の躊躇もなく従う。遊女を買おうなどと思ってもみない善兵衛だったが、先ほどまでの意気込みはどうしたと言いたいくらいにあっさりと引き揚げようとしている二人だった。
 「あったりめえよ。吉原で遊べるくらいにお大尽じゃないぜ」。
 当然だと言わんばかりの嘉助だ。善兵衛には何が何だか分からず終い。
 「あれっ、善兵衛さん。女郎を買うつもりだったんですかい」。
 「そんなんじゃありませんよ」。
 大慌てで否定する善兵衛を面白おかしくからかう二人。
 「もしかしたら、わたしをからかうためにわざわざこんなところまで来たのですか」。
 善兵衛は口を尖らせた。
 「まあ、そう怒りなさんな。あっしらだって毎日、おかよみたいなおかちめんこ見てたら、たまにはいい女を見たくなるってもんさ。だから、たまにはこうやって息抜きをしてるのさ。ささ、煮売りやで一杯引っかけて帰ろうぜ」。
 またしてもこの二人に振り回された善兵衛だった。大門へと引き返すと、途中、物陰に隠れるように佇む辰二郎の姿が目に入った。
 だが、場所が場所だけに気付かぬ振りで通り過ぎようとする善兵衛の 横から、平次が、「あれっ、あの人は」とつぶやくや否や、
 「お前さん、この前の。確か恵美須屋の手代さんじゃないかい」。
 と声をかけてしまった。善兵衛は、時既に遅しとばかりに手の平を額に当てる。
 ふいに声をかけられた方の太物問屋恵美須屋の手代の辰二郎は、口をぱくぱくさせて声にならない声を発しているようだ。こうなっては黙って通り過ぎることもできない。
 「辰二郎さん。この前はどうも」。
 と、善兵衛は頭を下げた。辰二郎さんも照れくさそうに頭を下げると、足早に大門を外へと去って行った。

ついた餅も心持ち 第三十五話

2011年03月02日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙

 久し振りに裁縫の手習いに姿を見せたひさは、みつを見付けると、隣に座り、相変わらず手よりも口を動かす方が多い。
 「おみつちゃん。この間ね、善兵衛さんにお会いしたのよ」。
 手に持った己の針が左手の中指を指したが、それよりも胸がきゅんと痛んだみつ。縫い物から目を離し、ひさを見つめる。
 「ひさのこしらえたお弁当を、たいそう美味しいって」。
 不適な笑みを浮かべながらひさは、あれこれ、意味ありげに善兵衛のことを勝手に話し始めた。しかし、自分が押し掛けたことや、手代の辰二郎も一緒だったこと、かよにほとんどを食べられたことなどは決して話そうとはしない。
 「おひさ、手が少しも動いていませんね」。
 師匠の激が飛び、ようやくひさから逃れることができたみつだった。それでもひさの言葉が耳に残り、うつむいて縫い物をしていると涙がこぼれそうになるのを歯を食いしばって耐えていた。
 ひさはまだ話し足りないだろう。捕まらないように、そそと道具を仕舞って急き立てられたかのように、みつは帰路に着いた。
 だが、それでも込み上げてくるものを堪え切れないみつは、和泉橋の上から神田川の流れを眺めていた。夕暮れにもなると、寂しさはひとしおで、とうとう涙が頬を伝う。手で拭っても拭い切れない涙は、みつの善兵衛への思いと同じであった。
 
 善兵衛は迷っていた。恵美須屋に行った方がいいのだろうか。軽い気持ちでした返事が悔やまれていた。日本橋の大店と聞いただけで足が竦んでしまう。「いったい、いかほどくらいするのだろう」。かよに聞いたらまた嫌みを言われるだろうし、嘉助や平次では役不足だ。
 どうでもいいが、また来られるようなことがあればと気も引ける。「いっそのこと、早く梅雨が終わって休みがなくなればいいのに」。と願っていた。

 梅雨が明けると、本格的な夏がやってくる。寺社の境内では、朝顔やほおづきが売られ、庶民はささやかな季節感を味わうのだ。
 上野東照宮の御普請もすでに三カ月が過ぎようとしていた。毎日の成果が手に取るように分かるようなると、職工たちの士気も挙る。すると、昼は精一杯働いて、夜は煮売り屋で垢を落とすのが日課になってくる。ほとんど酒の呑めない善兵衛も、数回に一度は、付き合いをするようになっていた。
 そこへ、また嘉助と平次から怪しげな誘いが。
 「善兵衛さん。今日は、あっしに付き合いねえ」。
 「水茶屋ですか」。
 「いや、もっと面白いとこへ連れて行ってやるよ。江戸見物だ。楽しみにしときな」。
 そう言うと、不敵な笑みを漏らしている。
 「嘉助さん、まだですか。ちいとばかり遠くありませんか」。
 「ああ、もう少しだ。そう弱音を吐くな」。
  日本橋着きそうにもない。
 「嘉助さん。わたしはもう。腹も減りましたよ。いったいどこに行こうってんですか」。
 昼になろうとしていた。
 「ここは…。嫌ですよ。わたしはこんなところ。帰ります」。
 踵を返そうとする善兵衛の腕をしっかりと掴んだ平次。
 「まあ、そう言わず。騙されたと思ってさ」。
 平次がにやにやしながら言うが、そのいい方もまた噓くさい。
 「こんなところでどうしようと言うのですか。えっ、嘉助さん」。
 「そりゃあ、言わずもがな」。

ついた餅も心持ち 第三十四話

2011年03月02日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 辰二郎が先ほどから持っている大きな紫の風呂敷をほどき、三段の重箱を蓋を外して差し出す。出汁巻き、ゴボウの甘辛煮、蒲鉾、きんとん、鯛の串焼きまで、色とりどりに飾り付けされている。
 「善兵衛さんに食べていただきたくて、わたしがこしらえました。ささ、どうぞ。召し上がってくださいな」。
 「あらま、お嬢様のお手製なら、いただかなくっちゃね善兵衛さん。あらまあ、美味しそうなこと。今、箸をお持ちしますよ」。
 ようやくかよが席を立った。だがほっとしたのも束の間。あっと言う間に四人前の小皿と箸を携えて戻って来てしまう。
 「せっかくだから、みんなでいただきましょう。ねえ、お嬢さん」。
 これにはひさも嫌とは言えず、膨れっ面で辰二郎の袖を引く。すると、辰二郎。
 「いえ、こちらはお嬢様が善兵衛さんのためにこしらえたものですので、わたしはご遠慮させていただきます」。
 「あら、いいじゃないですか。一緒にいただきましょうよ。ねえ、善兵衛さん、いいでしょう」。
 これだけ言われて断れる人間がいるだろうか。かよは、善兵衛より先に箸をのばし、黄金色のふんわりと焼けた出汁巻きを賞味する。
 「あら、本当に美味しいこと。こんなに美味しい出汁巻きをこしらえられるなら、いつでもお嫁に行けるわね。ああ。美味しいこと。善兵衛さんもお上がんなさいよ」。
 いくらひさが睨みつけても、かよにはどこ吹く風の様子。「ささ、どうぞ」と善兵衛は皿に取り分け辰二郎にも勧めるが、辰二郎はうつむいたまま箸をつけようとはしない。
 かよ一人が食べていたのでは、ひさの機嫌が悪くなる一方なので、慌てて善兵衛も箸を取る。
 「ああ、本当に美味しい。お嬢さんは本当に料理上手だ」。
 ようやくひさの機嫌が直り、「あらいやだ」と袖で顔を隠す仕草もまた可愛い。
 「善兵衛さん、今度は絶対に、お店に来てくださいましよ」。
 ひさは、辰二郎に伴われて帰って行った。
 「おかよさん。酷いじゃないですか。わたしのためにお嬢さんがこしらえてくれた料理を、こんなに平らげるなんて」。
 善兵衛が気を遣っている間に、かよがほとんど食べてしまっていた。
 「わたしは鯛だって、卵だっていただいていなかったんですよ」。
 物静かな善兵衛のいつにない激しい口調に、かよは、「あらま」と感じた。
 「いけ好かない女だね。何が、こしらえましたのよ。だよ。こりゃあ、深川の胡蝶のもんだよ。どうせ、あの手代が朝っぱらから走らされたんだろうよ。重箱に詰め直したのだって、どうせ手伝いの女子衆だろうさ」。
 「深川の胡蝶って。あの有名な料理屋ですか」。
 「そうさ、あたしが出汁巻きが好きなもんで、親方が深川に行った折りには、買ってきてくださるのさ。あれは、間違いなく胡蝶の味だったね。」。
 「そんなわけはないでしょう。お嬢さんだがこしらえたっておっしゃってるのだから」。
 善兵衛は少し拗ねて口を尖らせた。どっちにしても食べ損ねたことに変わりはない。
 「善兵衛さんも隅に置けないね。いつの間にあんなお嬢さんと知り合ったんだい。それにしてもあんたの気を引こうって気なのかね」。
 「とんでもない。大店の一人娘ですよ」。
 否定しながらも悪い気はしない善兵衛である。
 「前に嘉助さんと平次さんに誘われて浅草寺のお参りに行った時に、永富町の平造親方の娘さんと来てなさってまして。
 「浅草寺ねぇ。嘉助と平次のやつまだ懲りてないんだね。お詣りじゃなくてどうせ水茶屋目当てだろ」。
 図星である。「おかよさんには嘘がつけないや」と善兵衛は苦笑していた。
 「おい、誰か来てたのかい。」。
 出かけていた甚五郎が帰宅し、ほとんどみよに食べられた重箱を覗き込むと一言。
 「おや、胡蝶とは豪勢な。どこぞのお大尽が来なさったかね」。

ついた餅も心持ち 第三十三話

2011年03月01日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 これを目の前で見ていた嘉助が善兵衛にもらす。
 「善兵衛さんよ。江戸に来て間もねえのに、こんな可愛らしい娘さんと知り合いだなんて、お前さんも隅におけねえな」。
 堅物だと思っていただけに、嘉助は今己の目の前で繰り広げられている光景に驚きを隠せない。
 「とんでもない。こちらは永富町の平造親方の娘さんでみつさんで、あちらはみつさんのお知り合いの日本橋呉服町の太物問屋の恵美須屋さんのお嬢さんだそうです」。
 そう答えた。
 「平造親方の。これは、初めまして」。
 嘉助と平次は改まってみつに挨拶した。みつもそれに答えたが、嘉助とが冷やかすのを「とんでもない」と即座に否定した善兵衛の言葉が突き刺さるような思いだ。

 数日が過ぎ、あれからひさは手習いに通って来ない。元々真面目ではなかったので、普段ならそう気に止むこともないのだが、浅草寺での善兵衛とひさが交わしていた約束があるだけに不安で仕方がない。
 特に雨の日はいてもたってもいられず、「いっそ、おひさちゃんを訪ねてみようか」と考えては、訪ねる理由も思い当たらずに溜め息をつく。
 雨が降れば、大工は休みである。新吉も安治もこうして、みつの家で将棋を指したりしながら暇を持て余しているのだ。当然、善兵衛だった休んでいる筈。「恵美須屋へはいつ行くのだろうか、いや、もう行ったのではないだろうか」。

 「ご免くださいまし」。
 玄関口から若い男が呼びかける。ばたばたと足尾tが聞こえてくる。手伝いのかよが玄関に向かったのだろう。しばらくすると、二階の善兵衛の元へかよがやってきた。
 「善兵衛さん。お客さんですよ。日本橋の太物問屋のえーっと、何だってけ、確か…恵也屋、江守屋…えはついたんだけどねぇ」。
 かよは江戸っ子らしく気が早い。人の言葉を最後まで聞かない癖がある。早とちりもしょっちゅうだが、奥向きの仕事はきちんとこなすため、甚五郎の妻・千代は過大な信頼をおいている。今年で二十六になるかよは婚期を逸し、すっかり行かず後家なのだが、そんな陰口を叩かれても一向にきにする様子もない。
 甚五郎夫妻は「かよはうちから嫁に出す」が口癖で、もう八年も見合いを勧めているのだが、かよが首を縦に振らないのだった。
 「恵美須屋さんじゃないですか」。
 善兵衛は右腕で頭を支え寝転がっていたが、かよから、「日本橋の太物問屋」と聞いて飛び起きた。
 「そうだ、その恵美須屋さん」。
 だだだとけたたましい音を立てながら、善兵衛は玄関口へと急ぐと、そこには恵美須屋の手代の辰二郎と、その後ろからひさが顔を出した。
 「善兵衛さんがちっともお店に来てくれないから、ひさが来ちゃいました。ご迷惑でしょうか」。
 「そんな迷惑だなんて。それよりもこの雨の中わざわざ。ささ、どうぞお上がりください」。
 ひさと辰二郎を促すと、かよに茶を頼む。かよは急な来客がおよそ善兵衛とは関わりのある人とは思えず、興味深そうに善兵衛を見上げて、
 「あいよ。ちょうど豊島屋の団子があるからつけようかい」。
 それはありがたいのだが、団子と茶を盆に乗せたかよは、そのまま、善兵衛の横に居座ったまま。
 「かよさん、ありがとうございます」。
 と、善兵衛が礼を言っても、「あいよ」と動こうとしない。善兵衛も甚五郎夫妻の信任の厚いかよを無下にはできず、仕方なしに渋々同席を認めざるを得なかった。
 「あら、美味しい。これは豊島屋さんですね」。
 さすが大店のお様。舌が肥えている。
 「で、お嬢さん。今日は、わたしにご用でも」。
 「あら、ご用がなくちゃ来ちゃいけなかったかしら。善兵衛さんのお顔を見に参りましたのよ」。
  善兵衛は顔が赤くなるのを隠そうとうつむいたが、「あれま」。かよは見逃していない。
 「それに、善兵衛さんにこれをお持ちしましたの」。

ついた餅も心持ち 第三十二話

2011年03月01日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 「善兵衛さんじゃありませんか」。
 それまでのやり取りなんぞ耳に入っていなかったのだろう。善兵衛は初めて、みつを見た驚きの表情だった。
 「これはこれはおみつさん」。
 「善兵衛さんは、こういった店には良く来るのですか」。
 みつは善兵衛もそこいらの男と同じだったのかと少し皮肉を込めて言った。
 「いやね、ここにいる、嘉助さんと平次さんに誘われて浅草寺にお詣りをした帰りでして。おみつさんこそ、何でまた」。
 「今日は、手習いの帰りにおひさちゃんに誘われて」。
 その視線の先には、高島田で銀細工の簪をつけ、上等な振袖姿のひさが、愛らしく微笑んでいた。
 ひさはみつの鮫小紋の袖を引っ張って、
 「お知り合い。誰よ。おみつちゃんのいい人なの」。
 と小声でみつにすがる。良くない予感がしたみつだったが、仕方なくひさに善兵衛を紹介した。
 「こちらは近江の大森善兵衛さん。上野東照宮の御普請のために江戸に来なさってる宮工大工です」。
 「うわー。凄い。東照宮の御普請ですって、ご立派なのね」。
 ひさは、こういった著名に弱い。ましてや、善兵衛の凛とした涼しげな様子は、女子なら誰もがほおっておかないくらいだ。みつは、ひさと己の身なりの違いに、逃げ出したいくらいだった。
 「近江ですって、うちでも近江との取引があるのですよ」。
 こういった時、ひさは饒舌だ。
 「取引と言いますと」。
 「うちは日本橋呉服町に店を構える、太物問屋の恵美須屋でございます。近江からも上等の反物を仕入れています」。
 「それは、それは。で、どうですか近江の反物は」。
 「繊細で美しい。わたしなぞ、店先に並べないで自分のものにしたいくらいです」。
 嘘っぱちだ。と気付いているのは、みつと辰二郎だけ。恵美須屋に近江の反物などありはしないどころか、ひさは家業など気にも止めていない。
 それでも善兵衛はひさの話に聞き入っているようである。みつは、自分と二人きりで接した時の善兵衛とは違う善兵衛を見ているようだった。
 そもそも大店の一人娘に縁談がない訳ではない。十八になろうかというひさには連日のように縁談が持ち込まれているのだが、当のひさがどうにも首を縦に振らないのだ。
 みつは知っていた。何不自由なく育ったひさは。これまで望んで手に入らなかったものがない。人の心も己が望めば必ず手に入ると思い込んでいることを。持ち込まれた縁談では面白みに欠けるのだ。
 だが、それでも十分に男たちが放ってはおかないくらいに、ひさは美しく愛らしい。
 「自分もひさと同じような衣装を身に着ければ少しは綺麗に見えるだろうか」。そう思う自分が卑屈にも思え悲しくなるのだった。
 そればかりではない。年頃の娘なら誰でもそうだろう。自分より格段器量良しに加え、はるかに上等の着物を纏うひさを見ているだけで、己が惨めでならないのだ。
 だが、善兵衛は、「そこいらの男衆とは違う」。そう信じたいみつだった。
 しかし、男というものは、いつのご時勢でも同じもの。見栄えでほとんどを迷わされる。
 善兵衛も、すっかりひさに引き込まれ、気が付けば、今度、恵美須屋で母への江戸土産の反物を選ぶ約束までしているではないか。
 「だったら、わたしが選んで差し上げましょう」。
 みつが言うと、
 「嫌だわ、おみつちゃん。ひさは太物問屋の娘ですよ。おみつちゃんより見る目は確かだわ」。
 ひさに反物の善し悪しなど分かる筈もない。だが、善兵衛がそれを望んでいるのだ。もうみつの出る幕はなかった。
 「善兵衛さんにまた会えますように」とだけ祈願した。するとそのとおりに会えた。だったら、「善兵衛さんとめおとになりたい」と願うべきだったとみつは帰り道に悔やんでいた。

ついた餅も心持ち 第三十一話

2011年02月28日 | ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙
 「おみつちゃん、たまには浅草でもいかない」。
 みつを誘ったのは、日本橋呉服町に店を構える大店、太物問屋の恵美須屋の一人娘ひさ。この日は、裁縫の手習いの帰りである。そもそも、ひさには手習いなど必要ないのだが、「太物を扱う店の跡取りとして、着物ひと重ねくらい縫えるように」と母親から通わされているだけなので、少しも身が入らず、帰りには決まって、どこかに遊びに行きたがるのだ。
 大工の棟梁の愛娘で、若い衆の面倒も一手に見ているみつにはそんな時間がある筈もなく、いつもはにべに断っているのだが、浅草寺と聞いて、願掛けに行きたくなった。
 みつは、ひさと恵美須屋のお付きの手代の辰二郎の三人で浅草寺へ。
 「どうか善兵衛さんとまた会えますように」。
 長い間お祈りをするみつを不思議そうに覗きこんだひさは、
 「何をおいのりしたの」。
 と興味深げだが、こればっかりは、
 「話しちゃったらご利益がなくなるもの」。
 そうお茶を濁す。
 「ふーん。おみつちゃんって、意地悪」。
 こういうことを屈託なく言えるのも大店の娘ならではだろうか。少し拗ねたように口を尖らせていたが、境内の水茶屋に寄ろうと言い出した。
 「お嬢様、駄目でございます。あのようなところに行かれてた、わたしが旦那様にしかられます」。
 辰二郎は必死に止めるが、聞く耳持たないひさ。
 「大丈夫よ。おとっつあんには黙っていればいいの。一度でいいからああいう店に行ってみたかったの。だって、給仕の娘さんがとても器量良しで殿方が目当てで通っているのでしょう」。
 小首を傾げて手代を困らせる。みつも、いつも若い衆が、「どこどこの誰それの口元が色っぽい」だの、「誰それは、鬢を書き上げる仕草がいい」などと言い合っているのを耳にしていたので、興味はあった。しかし、「行きたいと言ったらはしたない」だろう。ここはひさに任せてみようと。
 「大丈夫。ひさは桜湯が飲みたい」。
 と小走りになるひさを追って手代も歩調を早め、今さっき開いたばかりの床机にひさはしっかりと腰を下ろしていた。
 「おみつちゃん。こっちよ、早く」。
 そう手招きする。可哀想に、半分泣き顔のような辰二郎は、ひさの傍らに突っ立ったままだ。
 「辰二郎さんもお掛けになってくださいな。ちょいと詰めればねえ、おひさちゃん」。
 みつは、いつもひさの我がままに振り回されている辰二郎が気の毒でならないのだ。「お店奉公なのに、こんなお嬢様の子守りまでさせられて気の毒に」と常日頃から感じていた。
 「あら、辰二郎はいいわよね。ここに三人は窮屈だわ」。
 「だったらわたしも」。
 みつが断ると、はす向かいの見知らぬ男が、
 「おい、兄さん。こっちが開いてるぜ」。
 と声を掛けてきた。
 「ありがとうございます。でも、わたしはここで結構でございますのでお気遣いなく」。
 辰二郎は誰に対しても低姿勢なのだ。
 「いいってことよ。なあ、姉ちゃん」。
 こう言われては、ひさも、嫌とは言えず。みつもお礼を言おうと声の主を見ると、その横で茶をすする今さっき、「会いたい」と願った善兵衛の姿が目に入った。

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