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八濱漂泊傳

ダラシナイデラシネ記

反政府 ヒマコ

2011-03-26 23:06:52 | センチメンタル

 

子供の頃、

よく遊んだ山へ、

 

竹切りに向かう。

 

Img_2894

 

この竹やぶは、

横井庄一ごっこ に熱中したフィールドである。

Img_2866

 

こんな窪みで、

竹で屋根を組み、落ち葉で覆い

秘密のアジト をいくつも作って、武器を隠した。

Img_2869

 

ここには、

私の空間認識の原初がある。

 

子供の頃、

確かに、何かに向かって、

私は戦っていた。

 

ああ、もう一度、

横井庄一ごっこ をしてみたい。

 

 

と感傷的になっている横で

 

 

小野田寛郎 的な

ヤツハカ ヒマコ は、

 

黙々とミッションをこなし、

竹切りに励んでいた。 

Img_2881

 

山を降りてからは、 

ヤンマーYM1700 の横で、

 

竹ヤリ ならぬ、

竹バズーカ を振り回し、 

 

Img_2903

 

反政府 ヒマコ も、

何かと戦っているようであった。

 

 

 

 


悩ましくセクシーな魔物

2011-03-15 00:21:20 | センチメンタル

 

本日、

 

偶然、見つけてしまった ヤバイ物 ・・・・

 

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マッセイ・ファーガソン 35X

Img_2454

 

Massey Ferguson 35X 

水冷ディーゼル 2259 CC  37馬力!

1960年頃のフランス製?

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面構えが セクシー!

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Img_2460

 

 

なんと、

 

その後ろに、

もう一台の ファーガソン が・・・・

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そのケツも セクシー!

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ベース車両 と

部品取り車両 があれば・・・・

 

なんとか、

生き返らせることができる! かも?

 

 

エンジン音を聞きたくて、

YOUTUBEで探してみると・・・・

  

 

音まで 超セクシー!

 

 

たまりません。

 

 

 


トマティート号はどこに・・・・

2011-02-23 23:13:25 | センチメンタル

 

『おかやまファーマーズ・マーケット・サウスヴィレッジ』

というメルヘン施設が児島湾干拓地にある。

 

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1997年に、

岡山県が 97億円 を投入して造った

ロマンチックな 拝欧的 南欧風 の施設。

 

 

昨年、この施設は財政難を理由に閉園し、

補修整備した上で、岡山県から岡山市に

無償譲渡されることになったという。

 

計算してみると、

 

97億円 / 13年間 = 7億4615万円 (年)

 

7億4615万円 / 365日 = 204万円 (日)

 

なんと、

 

1日 204万円! の豪華な施設

 

運営の 赤字分 も入れて計算すると、

もっと せつない数字 になるだろう。

 

ご多聞にもれず、

誰も責任をとらない お話 であるが・・・・

 

ひょっとしたら、

この施設を造るとき、

 

関係者の人たちは、

スペイン、イタリア、南欧へ

視察ツアーに行ったりしたのだろうか?

 

ワインで赤ら顔の

ネクタイゆるんだおっちゃんたちが、

ぞろぞろ、ぞろぞろ・・・・ と。 

 

公費を使って、

ぞろぞろ、ぞろぞろ・・・・ と。

 

 

そして、

 

岡山市は、

タダでもらったこの施設を

黒字運営することは難しいという。

 

 

私は、

体験・観光レジャーの発想を捨てて

この施設を 就農希望者 に無償開放したらいいと思う。

 

農地 も、 広場 も、 建物 もタダならば、

全国から 元気溢れる若者 が殺到するだろう!

 

中庭にテントを張れば、

資本主義から迫害された人たちの

難民キャンプ が出来上がる。

 

行政の手を切って、

自主管理 村給村足 を実践すれば、

おもしろおかしく、ホントの意味で ヴィレッジ になるだろう。

 

廃箱物活性化プロジェクト である。

 

 

さてさて、

 

その、

メルヘンチックな 『サウスヴィレッジ』 のデザインは、

私の設計スタイルとは マギャク に位置するところであるが・・・・

 

なんと、なんと、

 

意外なところで、

 

私の感覚との 

興味深い一致 を発見した!

 

 

今現在、

私が取り込んでいる 自邸計画 は、

ヒマコ が運転する オールドトラクター で

 

私が暮らす 小屋 を

引っ張るというプロジェクトなのであるが・・・・

 

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『サウスヴィレッジ』 に発見した

興味深い物は・・・・

 

乗物 トマティート号!

 

 

 

『サウスヴィレッジ』 という

殺風景な 拝欧的 南欧風 の風景を

疾走する トマティート号 のキッチュさこそが、

 

私の描きたい

作品 『54帖の中庭』 の世界なのかもしれない。

 

 

ところで、

 

トマティート号 は、

どこへ行ったのだろうか?

 

知ってる人がいたら

教えてください。

 

 

 


俺たちの明日は・・・・

2010-12-16 00:21:13 | センチメンタル

 

岡山 禁酒会館 へ行った。

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大正12年の建物。

 

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禁酒運動 とくれば プロテスタント

 

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プロテスタント とくれば 禁酒法

 

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禁酒法 とくれば 世界恐慌

 

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禁酒法 世界恐慌 とくれば・・・・

 

 

ボニー&クライド!

Bonnieclyde

 

 

ヒマコ!

 

俺たちの明日は・・・・

『隠鶏庵』 でマッコリを密造しようぜ!

 

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高原五郎七という人

2010-09-29 00:01:00 | センチメンタル

 

本日は!

もう一度、

素性不明の浪人 高原五郎七 の話。

 

あるいは、

 

謎の陶工 高原五郎七 の話。

 

  

高原五郎七 は、

文禄・慶長の役 の折、

朝鮮から連れてこられた陶工?

 

という説がある。

 

 

とすれば・・・・

 

高原五郎七 の 

高原 という姓は、

 

水軍を担った瀬戸内直島の

高原水軍 に由来するのかもしれない。 

 

 

また、 

高原五郎七 は、

 

大坂夏の陣 で、 

石火矢の大砲を数百挺もつくって、

 

さんざん、

徳川方を悩ましたお尋ね者という。

 

 

高原五郎七 は、

徳川の時代になって、

博多に落ちのびて 承天寺 に身を寄せる。

 

 

その後、

 

伊万里や有田で

白磁 や 青磁 の技法を広めるが・・・・

 

     ※ ちなみに、初代柿右衛門に 白磁 を

        指導したのは 高原五郎七 である。

 

 

寛永10年(1633年)

 

高原五郎七 は、

青磁 に必要な道具類を

すべて谷に投げ捨てて・・・・

 

 

忽然と姿を消す。

 

 

その時、

高原五郎七 は、

 

  「安寧(あんにょん)!」 

 

なんて、言ったのだろうか?

 

 

 

高原 という姓の由縁からか・・・・

 

高原五郎七 という人が

ずっと昔から気になっている。

 

 

この私も、 

いつの日か、

 

糸島 から

忽然と姿を消す日が来るのだろうか?

 

 

五郎八茶碗 で

茶漬けを食べながら、そう思った。

 

 

 

 


そしていつの間にか、そいつの涙も乾いてしまった・・・・

2010-09-27 00:01:00 | センチメンタル

 

本日は!

大杉栄 『鎖工場』 の話。

  

 

 『鎖工場』

  

 夜なかに、ふと目をあけてみると、

 俺は妙なところにいた。

 目のとどく限り、無数の人間が

 うじゃうじゃいて、みんなてんでに何か

 仕事をしている。鎖を造っているのだ。

 

 俺のすぐ傍にいる奴が、

 かなり長く延びた鎖を、自分のからだに

 ひとまき巻きつけて、

 その端を隣りの奴に渡した。

 

 隣りの奴は、またこれを長く延ばして、

 自分のからだにひとまき巻きつけて、

 その端をさらに向うの隣りの奴に渡した。

 

 その間に初めの奴は横の奴から鎖を受取って、

 前と同じようにそれを延ばして、

 自分のからだに巻きつけて、

 またその反対の横の方の奴に

 その端を渡している。

 

 みんなして、こんなふうに、同じことを

 繰返し繰返して、しかも、それが

 目まぐるしいほどの早さで行われている。

 

 もうみんな、十重にも二十重にも、

 からだ中を鎖に巻きつけていて、

 はた目からは身動きもできぬように

 思われるのだが、鎖を造ることと

 それをからだに巻きつけることだけには、

 手足も自由に動くようだ。

 

 せっせとやっている。

 みんなの顔には何の苦もなさそうだ。

 むしろ喜んでやっているようにも見える。

 

 しかし、そうばかりでもないようだ。

 俺のいるところから十人ばかり向うの奴が、

 何か大きな声を出して、その鎖の端を

 ほおり投げた。

 

 するとその傍に、やっぱりからだ中

 鎖を巻きつけて立っている奴が、

 ずかずかとそいつのところへ行って、

 持っていた太い棍棒で、三つ四つ殴りつけた。

 

 近くにいたみんなは、ときの声をあげて、

 喜び叫んだ。前の奴は泣きながらまた

 鎖の端を拾い取って、小さな輪を

 造っては嵌め、造っては嵌めしている。

 

 そしていつの間にか、そいつの涙も

 乾いてしまった。

 ・・・・・

                     大杉栄

 

 

 

 

 

 


ケエツブロウに捧ぐ

2010-09-23 00:01:00 | センチメンタル

 

本日は!

もう一度、

伊藤野枝 と 糸島 の話。

 

伊藤野枝 の足跡を辿り

生まれ故郷 糸島今宿 を

訪ねる人は多い。

 

しかしながら、

 

糸島今宿 で、

伊藤野枝 の足跡を探すことは

極めて困難である。

 

 

なぜ、

生まれ故郷 糸島 で、

 

大正期を代表する女流作家

伊藤野枝 は抹殺されるのか?

 

 

その手がかりは、

 

地元 糸島新聞 の

当時の記事から推察することができる。

 

 

大正11年10月、

伊藤野枝 が 大杉栄 を伴って

糸島 に帰郷した時、

 

糸島新聞 の社説 『言論』 は、

 

 「思想界を悪化する社会主義者 伊藤野枝、

  困った女が糸島郡に帰った。

  彼らに接近するな」 

 

という見出しの記事を書き、

 

 「糸島郡が、

  かかる女を産んだのは

  郡民の恥辱・・・・

  日本の米を食いながら、日本の国体を

  傷つけ秩序を乱す非国民は、

  宜しく最重の刑に処し、

  以って彼ら主義者を根絶したいものと思う」

 

と主張している。 (参考 志摩町史)

 

 

当時の、

伊藤野枝 に対する

郷里 糸島 の風当たりは残酷である。 

 

 郡民の恥辱・・・・

 

 最重の刑に処し・・・・

 

 彼ら主義者を根絶したい・・・・

 

公然と書かれる

恐ろしい言葉 にもビックリする。

 

 

メディアが流布した

強烈なイメージは、

 

現在もなお、

糸島 に深く深く

浸透しているのではないか?

 

 

逆に、

 

強烈な逆風に負けることなく

子供を連れて 糸島 に帰省する

伊藤野枝 の芯の強さにも驚く。

 

Noe  

  

  

大正12年9月16日、

 

伊藤野枝 大杉栄 甥の橘少年 が

甘粕正彦憲兵大尉らによって

虐殺された時、 

 

郷里 糸島 では、

どのように報道されて

どのように受け止められたのだろうか?

 

 

糸島 での、

伊藤野枝 の名誉復権のためにも

そのあたりの検証が必要だと思う。

 

 

 

 

『無政府の事実』  伊藤野枝

(前文略)

世間の物知り達よりはずっと聡明な社会主義者のある人でさえも、

無政府主義の『夢』を嘲笑っている。しかし私は、それが決して『夢』ではなく、

私共の祖先から今日まで持ち伝えて来ている村々の、小さな『自治』の中に、

その実況を見る事が出来ると信じていい事実を見出した。

(略)

私は今ここに、私が自分の生れた村について直接見聞きした事実と、

それについて考えた事だけを書いて見ようと思う。

(略)

私の生れた村は、福岡市から西に三里、昔、福岡と唐津の城下を

つないだ街道に沿うた村で、父の家のある字は、

昔陸路の交通の不便な時代には、一つの港だった。

今はもう昔の繁栄のあとなどはどこにもない一廃村で、住民も半商半農の

貧乏な人間ばかりで、死んだような村だ。この字は、俗に『松原』と呼ばれていて

戸数はざっと六七十くらい。大体街道に沿うて並んでいる。

この六七十くらいの家が六つの小さな、『組合』に分かれている。

そしてこの六つの『組合』は必要に応じて聯合する。すなわち、一つの字は

六つの『組合』の一致『聯合』である。しかし、この『聯合』はふだんは解体している。

(略)

『組合』は細長い町の両側を端から順に十二三軒か十四五軒くらいずつに

区切って行ったもので、もうよほどの昔からの決めのままらしい。

これも『聯合』とおなじく用のない時には、いつも解体している。

型にはまった規約もなければ、役員もない。組合を形づくる精神は

遠い祖先からの『不自由を助け合う』という事のみだ。

(略)

何の家にか異なった事があればすぐに組合中に知れ渡る。知れれば、

みんなすぐに仕事を半ばにしてでも、その家に駆けつける。

あるいは駆けつける前に一応何か話し合う必要があるとすれば、

すぐ集まって相談する。

(略)

組合の中では村長であろうがその日稼ぎの人夫であろうが、何の差別もない。

威張ることもなければ卑下することもない。

(略)

ある家に病人が出来る。すぐに組合中に知れる。みんなは急いで、

その家に駆けつける。そして医者を呼びに行くとか、近親の家々へ

知らせにゆくとか、その他の使い走り、看病の手伝いなど親切に働く。

病人が少し悪いとなれば、二三人ずつは代り合って毎晩徹夜をしてついている。

それが一週間続いても十日続いても熱心につとめる。

人が死んだという場合でも、方々への知らせやその他の使いはもちろんの事、

墓穴を掘ること、棺を担ぐ事、葬式に必要な一切の道具をつくる事、

大勢の食事の世話、その他何から何まで組合で処理する。

子供が生れるという場合には、組合の女達が集る。

産婦が起きるようになるまで、一切の世話を組合の女達が引き受ける。

(略)

学校へ通うのに道が悪くて子供達が難儀する。母親達がこぼし合う。

すると、すぐに、誰かの発案で、暇を持っている人達が一日か二日がかりで、

道を平らにしてしまう。

(略)

組合の助けを借りる事の必要は、ほとんど絶対のものだ。

ことに、貧乏なものにとってはなおさらの事だ、貧乏人は金持ちよりは

どんな場合でも遥かに多くの不自由を持っている。

その大から小までのあらゆる不自由が、組合の手でたいていはなんとかなる。

(略)

 

 

 


青煙突のバッタンフール

2010-09-01 20:24:55 | センチメンタル

 

本日は!

遊郭紀行 の話。

 

何年も前から、

 

古い港町を巡り、

遊郭建築 を調べてみたいと思っている。

 

陸からのアプローチ ではなく、

海からのアプローチ で。

 

 

そして、

もしも、いつの日か

 

自前のヨットで

海外を放浪するような時がくれば、

 

日本人墓地 を訪ねたいと思っている。

 

 

 

そういえば、 

 

昭和の名船 勝丸 で

広島湾を通過中、

 

不気味な貨物船 と遭遇した。

 

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青煙突のバッタンフール だろうか?

 

  

 

 

  おどみゃ 島原の

  おどみゃ 島原の

  梨の木 育ちよ

  何の 梨やら

  何の 梨やら

  色気なしばよ しょうかいな

  はよ寝ろ 泣かんで オロロンバイ

  鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい

  

  姉しゃんな 何処行たろかい

  姉しゃんな 何処行たろかい

  青煙突のバッタンフール

  唐は 何処ん在所

  唐は 何処ん在所

  海の涯ばよ しょうかいな

  泣くもんな蟹かむ オロロンバイ

  あめ型買うて 引っ張らしょ

  

  あすこん人は 二つも

  あすこん人は 二つも

  金の指輪はめとらす

  金は どこん金

  金は どこん金

  唐金げなばい しょうかいな

  オロロン オロロン オロロンバイ

  オロロン オロロン オロロンバイ

 

 

 

 

 


壇ノ浦 平家漂泊考 その3

2010-08-18 23:52:00 | センチメンタル

  

本日も!

壇ノ浦の戦い の話。

 

壇ノ浦の戦い から 禁じ手 の話。

 

壇ノ浦の戦い で

源氏 が勝利した要因に、

 

義経 の、

禁じ手 破りの戦法を

忘れてはならない。

 

 

舵取り、水夫(かこ)を弓で射殺す という

当時、最も卑怯とされた戦法を

義経 は平気でやってのけた。

  

非戦闘員である

舵取り、水夫(かこ) にとっては

たまったものではない。

 

義経 が意図した

心理的 脅迫効果 は計り知れない。

 

 

舵取り、水夫(かこ) は

命からがら船を捨て、

海に飛び込み逃げ出したことだろう。

 

武士は船を操れない。

  

船足を止められた 平家 は、

防戦一方を強いられたことだろう。 

 

以後、

 

海の合戦での

舵取り、水夫(かこ)を弓で射殺す 

という行為は常識となった。

 

 

 

昔、 

元寇の第1回目 文永の役 の時、

 

鎌倉武士 は

相手陣地まで駆け寄り、

 

馬上で勇ましく、

 

 「やあやあ、我こそは何々何がしの・・・・」

 

なんて名乗りを上げているうちに

毒を塗った矢が一斉に飛んできたり

鉄砲(てつはう)が炸裂したりして、

 

ボロ負けした。

 

鎌倉武士 の 禁じ手 など

おかまいなしに蒙古軍は毒矢を放つ。

 

2度目の 弘安の役 では

さすがの 鎌倉武士 も

名乗りを上げずに、防塁を楯に戦ったという。

 

 

 

昔、

戦国時代、

 

秀吉 は備中高松城攻めで

敵と直接戦わず、足守川に堤を築いて

大湖水を作り、兵糧攻めをした。

 

武士にあるまじき

陰湿な 禁じ手 である。

 

備中高松城内の

餓えの悲惨さは

地獄絵 そのものだったという。

 

その後、

 

天下を取った 秀吉 は、 

京都市中を取り囲む

壮大な 御土居 を築き、

 

御園橋(みそのばし) の堤を切れば、

 

いつでも、

鴨川の水を 洛中 に流し込める

都市計画を断行して朝廷を脅し続ける。

 

御土居 は 秀吉 による

禁じ手 の都市計画である。

 

 

 

昔、

鳥羽伏見の戦い では

 

重苦しい武士階級で構成された

旧態依然の幕府軍は、

 

近代的な最新の装備で

軽快に戦う新政府軍に

コテンパンに打ちのめされた。

 

もはや、

 

戦(いくさ)とは身分や面子ではなく、

効率よく殺傷できる兵器と軍隊に

取って代わった。

 

 

 

昔、

ナチス は ゲルニカ を無差別爆撃して

非戦闘員である市民を大量殺戮した。

 

世界中は ナチス を非難した。

 

にもかかわらず、

 

その後、日本は

中国重慶を無差別爆撃して 

多くの民間人を殺した。

 

そして、アメリカは

日本中に焼夷弾の雨を降らし

多くの民間人を焼き殺し、

 

とどめに、

 

2発の 原爆 で

十数万の民間人を一瞬にして殲滅した。

 

 

禁じ手 の麻痺である。

 

 

 

現在、

 

アメリカやイスラエルによる

圧倒的で陰湿な抑圧 は、

弱者の テロ を誘発させている。

 

そして、 

誘発させた テロ を口実に、

 

あるいは、

自作自演の テロ を捏造し、

 

弱者の行動を

禁じ手 を破ったと罵り、

 

新たな 無差別殺戮 という

報復の 禁じ手 の嵐が荒れ狂う。

 

 

 

私たち人類は、 

悪魔の囁き に屈し、

 

 

常に、

禁じ手 を破る 恐怖の宿命 を

背負っているのかもしれない。

 

 

Img_7203

 

日方(ひかた) のおかげで、

予定してた 干珠島・満珠島 を断念し、

 

長府串崎の

古い造船所跡 に逃げ込んで、

 

そんなことを思った。

 

 

 

 


壇ノ浦 平家漂泊考 その2

2010-08-17 23:00:00 | センチメンタル

 

本日も、

壇ノ浦の戦い の話。

 

元暦2年/寿永4年3月24日

(ユリウス暦1185年4月25日)

 

平家一門 が船500艘で

赤間関壇ノ浦を東に進んだ時刻は、

  

午の刻(12時ごろ)

 

 

源氏 の勝利で

戦いが終了した時刻は、

 

申の刻(16時ごろ)

 

 

通説では、

 

最初は 平家 が優勢であったが、

潮の流れが逆転して

源氏 が巻き返す・・・・ 

 

となっているが、 

これは 怪しい!

  

 

海上保安庁のHPで

当日の時間帯の潮流を調べてみると・・・・

  

 

  ユリウス暦1185年4月25日 12:00

  03_1185042512_2

  東へ 2.6ノット

 

  ユリウス暦1185年4月25日 14:00

  03_1185042514

  西へ 0.1ノット

 

  ユリウス暦1185年4月25日 15:00

  03_1185042515

  西へ 1.0ノット

 

  ユリウス暦1185年4月25日 16:00

  03_1185042516

  東へ 0.8ノット

 

午の刻(12時ごろ)の潮流は

平家 の船500艘を素早く

東へ運んだと考えられるが、

 

その後、

西向きに潮が反転したとしても

わずか1.0ノットの潮流である。

 

戦いが終了する頃は、

再び、東向きの潮流となっている。

 

 

平家 の船500艘も

源氏 の船800艘も、

 

同じ潮流に乗っているわけだから

お互いの相対速度は変わらないハズだ。

 

潮流の変化で、

戦況が変わるとは考えにくい。

 

 

むしろ、 

戦いを左右したのは潮流ではなく・・・・

 

春先に吹く、

東風(こち) か 南風(はえ)

だったのではないだろうか?

 

 

風は決まって、

昼過ぎから強くなる。

 

東風(こち) か 南風(はえ) によって 

海峡の白波の波頭は西に吹き飛び、

 

船上から見れば、

潮が強く西に流れているような

錯覚を引き起こす。

 

 

平家 が射る矢は、

向かい風となって 源氏 に届かない。

 

一方、

 

源氏 が射る矢は、

追い風に乗って、面白いように

平家 に当たったことだろう。

 

 

ちなみに、

 

昭和の名船 勝丸 で

関門海峡を東に向かった時の潮流は、

 

Sh3h0083

  

東へ 2.0ノット の追い潮である。

 

日方(ひかた) とよばれる

南風(はえ) が吹いて、

 

狭い関門海峡は

風の通り道となり、

 

海上は、

ビュンビュン吹き荒れ

潮より風に流される始末。

 

 

木の葉のように

波に揉まれる 勝丸 を操船しながら、

 

平家 への追悼を胸に、 

源氏 が優勢に転じた要因を推理した。

 

 

 その3 につづく

 

 

 


壇ノ浦 平家漂泊考 その1

2010-08-16 23:02:00 | センチメンタル

 

本日は!

壇ノ浦の戦い の話。

 

昭和の名船 勝丸 の回航途中

下関 彦島 を訪ねて、

 

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壇ノ浦の戦い をリアルに考えた。

 

 

元暦2年/寿永4年3月24日

(ユリウス暦1185年4月25日)

 

瀬戸内海を転々と敗走を続ける

船上生活者集団 平家一門 は、 

最後の拠点 彦島 を船出して、

 

午の刻(12時頃)、

 

船500艘をもって、

赤間関の潮に乗り

待ち構える 源氏 に攻めかかる。 

 

Dan01_2  

 

この時、

 

陸路はすべて

源氏 に制圧されていることを考えれば、

 

既に、 彦島 は、

源氏 の手によって

陥落寸前だったのかもしれない。

 

彦島 の砦に、

女性を置き去りにしたという話はあっても

兵士を残したという事実は見つからない。

 

平家一門 は、

彦島 の砦を捨てたのだろう。

 

また、

 

船上生活する船団ごと

源氏 に挑んでいるところをみれば、

 

壇ノ浦の戦い は、

壮絶な 玉砕戦 を覚悟してたのだろうか?

 

 

仮に、

壇ノ浦の戦い で、

平家 が勝利したとしても、

 

源氏 に占拠された

陸地へは上陸できない。

 

後は、

豊後水道を抜けて南下する

漂泊の海路 のみである。 

 

 

関門海峡 を東に進まず、

日宋貿易の海路 玄界灘 を西に進み、

 

壱岐 あるいは 対馬 で、

平家亡命政府 を

構えることもできたと考えられるが、

 

玄界灘 を知る 松浦水軍 が

平家 から離脱したとなっては、

 

西への活路は、

完全に断たれたも同然。 

 

 

もはや、

 

平家一門 には東へ進み、

赤間関の早潮に乗り、両岸から放たれる

おびただしい弓矢の嵐をくぐり抜けて、

  

待ち受ける 源氏 の船団800艘に

正面突破を仕掛ける戦法しか

残されていなかったのか?

 

 

 

 その2 につづく

 

 

 

  


掻き消される戦争遺跡

2010-08-14 23:33:00 | センチメンタル

 

本日は!

軍艦防波堤 の話。

 

昭和の名船 勝丸 の回航途中

荒れる響灘を避けて、

 

北九州若松の洞海湾に入り

軍艦防波堤 を訪ねた。

 

3隻の軍艦を沈めて

防波堤の代わりにした 軍艦防波堤

  

Dscf3836 Dscf3845

Dscf3842 Dscf3851

 

 

1974年空中写真

Gunkan1974c 

 

赤枠拡大写真

Gunkan1974a

 

上から順に、

 

駆逐艦 「冬月」 

駆逐艦 「涼月」   

駆逐艦 「柳」   のシルエットが確認できる。

 

3隻とも、

戦う気をなくすくらい

風流な艦名であるが・・・・

 

駆逐艦 「冬月」 と

駆逐艦 「涼月」 は、

 

戦艦 「大和」 の護衛として

沖縄海上特攻作戦 に参加し、

 

米軍機の攻撃を受けながら

奇跡の生還を果たした軍艦である。

 

特に、

 

駆逐艦 「涼月」 は、

船首を大破して低速後進のみで

佐世保に帰還し、

 

ドックに入ったとたん、

力尽きて沈没したという。

 

 

現在、

空中写真で確認できるのは

駆逐艦 「柳」 のみ。

 

駆逐艦 「冬月」 と

駆逐艦 「涼月」 は、

コンクリートに埋没している。

 

Gunkan2009

 

戦争の記憶 が

一斉に喪失してゆく時代を

象徴するかのように・・・・

 

3隻の軍艦という 戦争遺跡 は、

日本の流通を支えるコンクリート構造物に

掻き消されて消滅しようとしている。 

 

経済の猛スピードは

行きつく先のあてもなく、

何もかもを忘却させて暴走を止めない。

 

Sh3h0079

  

軍艦防波堤 を後にして、

 

とびきりスピードの遅い伝馬船で 

関門海峡 の白波に揉まれながら・・・・

  

そんなことを思った。

 

 

 

 


幕末とテロと周防灘

2010-08-13 23:37:00 | センチメンタル

 

本日は!

中根市之丞 の話。

 

幕末、文久3年

 

下関で外国艦船に砲撃した

長州藩 を詰問するために

幕府 は使節団を送った。

 

使節団は、

中根市之丞 ら6名である。

 

一途に攘夷を決行した

長州藩 にしてみれば、

 

攘夷決行に尻込みをした

幕府 から詰問されるほど、

腹立たしいものはない。

 

下関に到着した 幕艦「朝陽丸」 は

長州藩 から砲撃され

奇兵隊 に占拠される。

 

中根市之丞 ら6名は、しかたなく

藩庁近くの小郡まで別船で行く。

 

 

そして、

 

惨劇 は始る・・・・

 

まず、

小郡の宿で、狂信的攘夷派によって

使節3人が切り殺され、

 

命からがら、

伝馬船で中関まで逃げようとする

中根市之丞 ら残りの3人は、

 

周防灘の海上で、

あえなく惨殺されてしまう。

 

 

その、

 

中根市之丞 の墓を

昭和の名船 勝丸 で訪ねた。

 

 

風と波でキツイ航海の末、

やっと 防府向島 の風下に入り

海が凪いだところに墓はあった。

  

 

逃げる伝馬船 と 追う伝馬船

 

 

2艘の伝馬船が早櫓で通過した

同じ周防灘に身を置くと、

 

息が詰まるほど、

臨場感がヒシヒシと伝わってくる。

 

私の船も、

同じ木造伝馬船なのである。

 

Sh3h0102

Img_7222

Img_7221

  

風雨と波にさらされて

中根市之丞 の墓は

防府の磯にひっそりと建つ。 

 

まるで、

訪れる者を拒絶するかのように・・・・

 

まるで、

その死を隠蔽するかのように・・・・

 

 

中根市之丞

享年27歳の悲劇である。

 

 

 

 


家船後遺症

2010-08-11 23:02:00 | センチメンタル

 

本日は!

福岡糸島に居る。

 

岡山から福岡まで、

パートナーの ヒマコ とふたり

青春18きっぷ で帰ってきた。

 

 

2週間かけて航海した

せっかくの距離を、

 

2時間足らずでカッ飛ぶ

トンネルだらけの新幹線に乗って

後戻りするのは・・・・

 

あまりにも 悲しい!

 

 

福岡から岡山までの

距離の密度 は、

2週間かけても足りなかった。

 

歴史、風土、言葉、生活、文化・・・・

 

 

なぜ、世間の人たちは、

2時間足らずで移動する方法を

選ぶのであろうか?

 

時間の使い方が もったいない!

 

と思う。

 

 

私には、

12時間程かかる

各駅停車を乗り継ぐ旅でさえ、速すぎて

 

車窓から見える瀬戸内海が、 

とても センチメンタル に染みた。

 

ただ、ただ、

あの海に戻りたいと思う。

 

 

今回の航海では、

 

海から陸を眺めながら、

道路 や 鉄道 といったインフラの

馬鹿馬鹿しさに気付いた。

 

 

道路 や 鉄道 に費やした膨大な建設費と

年々膨れ上がる維持管理費に比べれば、

 

海路 は、

古代の昔から存在する

大自然の大動脈である。

 

海路 のメンテナンスは、

月の満ち欠け に任せればよい。

 

帆をあげて、

潮と風を読めば、

自由自在に航海もできるし、

 

移動のスピードと

距離の密度 が同調して、

何の違和感もない。

 

 

私からすると、

 

やたら時間を短縮して

利便性を尊ぶ現代人は、

ノイローゼ のように思える。

 

地域 を切り捨て、

歴史 を切り捨て、

文化 を切り捨て、

 

山を削り、海を埋め立て

巨大な 悪夢の架け橋 を建設し、

 

Img_7912

 

やがて、

取り残された

高齢者 を切り捨てて、

 

日本は、

何処に向かっているのだろうか?

 

 

 

昭和の名船 勝丸 の

大回航を終えて・・・・

 

海上に漂う 必然性 を

失ったことが原因なのか、

 

なんとなく、私は 

精神的な調子 が 変! なのであるが、

 

 

世間が、

ノイローゼ なのか?

 

私が、

ノイローゼ なのか?

 

は、ともかく・・・・

 

 

私は、

 

ただでさえ、世間の感覚と

ズレまくっているのであるが、

 

2週間も、

海上を漂っていると・・・・

 

いよいよ、世間の感覚と

ズレまくってしまって、

 

もう、ここいらで腹を決めて

無理して世間に合わせることは、やめようと思う。

 

 

より大きな地図で 勝丸回航 を表示

 

 

勝丸 回航記録を、

まとめながら・・・・

 

 

 私は、そう決めた!