ティコ・ブラーエ


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マヤコフスキイ

2009-12-21 | パパ
今日は、1910年代頃から20年代末にかけて展開されたロシア・アバンギャルドの革命的な詩人マヤコフスキイを紹介。



ロシア・アバンギャルドは、詩、絵画、デザイン、建築、演劇、サーカス、音楽などさまざまな領域で横断的に展開された芸術による社会革命です。革命は道半ばにしてスターリンの社会主義リアリズムにより幕を閉じ、以後歴史の表舞台からは消し去られていましたが、1970年代頃から再評価の動きがでてきました。特に、映像やデザイン面においては、革新的な手法が取り入れられ、現在にまで影響を及ぼしています。





ロシアの文豪トルストイは1897年の日記に書いている。
もし多くの人びとの生活全体が無意識に過ごされていくなら、そのような生活は存在しないも同然なのだ。

当時のロシアは、おそらく旧態依然とした空気が漂う場所だったのでしょう。

マヤコフスキイらは、その習慣的で無意識的な生活に風穴を開けて工業化へと変わりゆく時代に大衆を導こうとしました。その方法が芸術であったこと、そして一時的ではあるが、革命が実現されたところに歴史的な特殊性があったといえます。
ロシア語には生活様式、日常性などをあらわす「ブイト」という語があります。
マヤコフスキイの詩には
「わずかの動きもないブイト」
「すべては何世紀たってもそのまま。ブイトの雌馬は鞭も入れられず、びくとも動いていない」
「脂肪がブイトの裂け目に流れ込み、おだやかに、幅広く固まってゆく」
などブイト批判がたくさんでてきます。

なにもせず、なにも感じず、なにも考えなくても、時は惰性でもって安逸に流れていきますが、彼らにとっては、それは死にひとしいことでした。だからこそ、ブイトは命にかえてでも倒さなければならない敵だったのです。

ロシア革命化レーニンの庇護のもと、芸術家は革新的な活動を自由に行っていましたが、スターリンの時代に入ると、生産効率を優先する政策の転換により、厳しく表現が管理されるようになっていきました。

マヤコフスキイは1930年で次のように演説している。

いまもおぼえているが、20年前には、われわれは新しい美について語り始めていた。喧噪の都市に住んで新しい生活をはじめようとしており、またやがて革命の道に足を踏み入れるであろう数百万の人びとは、美術館の大理石の美しさや腕の折れたミロのヴィーナス、古典的なギリシアの美などに満足はできまい、と語っていたものだ。ところが、きょう、司会をつとめられている同志コンツォワが、報告の間にわたしにお菓子をさしいれてくれたが、その包み紙にはヴィーナスが印刷されている。つまり、この20年間たたかってきた相手が、こんにちではもはや生活のなかにはいってきているのである。いちばん歪んだ、こんな古めかしい美が、われわれ大衆の菓子の包み紙にまで拡がり、またもやわれわれの頭脳に毒をそそぎ、われわれの芸術観を毒殺しようとしているのだ。

亡霊がまたあらわれたと強く感じたのでしょう。しかし、残念ながら、このひと月後に彼は、力尽きて自殺します。遺書のなかには次の詩が残されていました。

これでいわゆる
    「一件落着」
愛の生活は
    ブイトにぶつかり砕け散った
ぼくは人生に貸し借りなし
    かぞえあげるもむだなこと
おたがいさまの痛みや
    不幸や
       侮辱を
どうかいつまでもお幸せに