畑倉山の忘備録

日々気ままに

歴史を静思して目を覚ます(4)

2016年09月06日 | 歴史・文化
鈴木善幸内閣の文部大臣・小川平二は、教科書において、日本が戦前にアジアにおいておこなった行為を「侵略」から「進出」に書き換えようとし、一九八二年六月に中国から厳しい批判を受けた。この文部大臣は、田中義一内閣の鉄道大臣、小川平吉の息子であった。

父の平吉は大臣を退任後、在任中に鉄道会社に便宜を図った汚職が明るみに出て、「五私鉄疑獄事件」として有罪判決を受け、実刑二年で刑務所に収容されたが、鉄道大臣の任期中は国粋主義者として名高く、全国の駅名標をすべて右横書きに書き換えさせ、ローマ字を削除する知能水準の人間であった。(中略)

小川平吉は、一九二八年に関東軍の謀略で満州の統治者・張作霖が爆殺されると、事件をあいまいに処理しようと画策し、関東軍参謀・河本大作が主犯であることが証明されて立場を失った大臣でもある。

息子の平二が、そうした父の時代の事実を教科書の上で消し去ろうとしたに違いないが、奇しくもこの教科書問題が起こった時の総理大臣・鈴木善幸の息子、鈴木俊ーの妻は、小川平吉の孫娘であったばかりか、小川平吉の孫にあたる宮沢喜ーが、時の官房長官であった。

(広瀬隆『持丸長者 国家狂乱篇』ダイヤモンド社、2007年)