新聞、テレビの小沢バッシングが狂気の沙汰である。小沢一郎が「予算が成立したら政倫審で説明する」と言っているにもかかわらず、各社横並びで「出席拒否は許せない。証人喚問だ。議員辞職せよ。離党せよ」と、それも社説で、大上段に振りかぶっての騒ぎである。社説とは社論、社の基本的な考え・主張である。日本のほとんどのマスコミが、手段を選ばず「小沢抹殺」で狂奔している光景は異常以外の何ものでもない。朝日、読売、毎日など新聞各社は、本音では、デフレ脱却や雇用など国民生活にとって待ったなしの課題よりも「小沢抹殺」のほうが最重要問題だと考えているのである。何故か。
昨年暮れから正月にかけて一線で活躍する記者たちと懇談した。
「小沢さんの話は論理的で分かりやすい。日本の政治家で小沢さんのような、骨太の国家観、歴史観、洞察力を持った人はいない。スケールの大きい本物の政治家という感じがする」
「TPPはアメリカの世界戦略だという冷厳な国際政治が分かっているようだ」
「小沢さんの政治とカネの問題は『期ずれ』だけだろう。ガタガタ騒ぐのがおかしい。もっと冷静でいい。政治にはカネは必要だよ。私腹を肥やすのは論外だが、カネの出入りを透明にすればいいのではないか」
「検察審査会の問題は恐ろしい。目障りな政治家や高級官僚、或いは宗教団体など、小沢さんをやっつけるやり方で強制起訴して潰すことは簡単だ。仲間たちと『これは政治テロ』だって話している」
「それにしても、小沢さんには熱烈な支持者も多いが、問答無用で切り捨てるアンチも多い」。
記者魂を持った中堅・若手の記者のほうが冷静で、まともだ。はっと思った。「マスコミの社長や幹部が、心底、小沢が怖くてしかたがないのだ」
小沢一郎は自民党幹事長時代、記者会見を記者クラブに所属していない雑誌記者、フリーランサー、外国人特派員にも開放し、自由に参加出来るオープンな場にしていた。それ自体、画期的なことだったが、1993年8月23日、新生党代表幹事として細川連立政権を支えるキーパーソンになった小沢は、従来の「記者クラブの、記者クラブによる、記者クラブのための記者会見」ではなく、記者クラブに所属していない記者も参加し、どんなことを質問してもいい平等で「開かれた会見」にすることを宣言した。また「『本音と建前』を使い分けることはしない。ここで言わないことは、どこでも言わない。言えないことは言わない。」と強調し、政界実力者が偽の情報を流して政敵を貶めたり、野党を分断するために利用する番記者のオフレコ記者懇談会も止めたのである。1996年5月には、小沢は新進党訪中団の随行記者団に、慣行を無視して記者クラブ15社17名のほか、週刊誌3社のフリーランサー5名など記者8名を参加させたのである。北京のホテルにはプレスルームが開設され、各社均等にデスク、電話、テレックスを備えた専用ブースが割り当てられ、中国首脳との会談後のブリーフィングも差別なく各社一緒に行われた。真の「国民の知る権利」を守るために、記者クラブを通して情報を独占するという既得権にしがみつく大手マスコミに挑戦状を叩きつけたようなものだ。論理的に太刀打ち出来ないマスコミは陰微な手段を駆使し、「小沢抹殺」を始めた。
余談だが、このときの江沢民主席との会談では、歴史認識をめぐって厳しいやりとりをしたうえで、小沢は日中関係が経済中心であることに懸念を示し「日本にはカネの切れ目が縁の切れ目という諺がある。経済協力は大事だが、それ以上に両国の信頼関係強化が大事だ」と持論を展開した。
大手マスコミは、記者クラブを通して行政、立法、司法、地方行政の全ての情報を独占している。このマスコミがお互いに談合し、「霞ヶ関」と結託すれば日本をどうにでも出来る恐ろしい存在になる。「大新聞は日本民主主義の最大の敵だ」と喝破するカレル・V・ウォルフレンが日本の大手マスコミに目の敵にされるのも、むべなるかなである。小沢一郎も「日本ではマスコミが最大の守旧派になっている」「マスコミほど今の社会で既得権を得ているところはない」とマスコミの姿勢を厳しく批判している。
マスコミが重大視しているのは、小沢が一貫して「政権交代したら官邸の会見はオープンにする」と主張し続けていることである。一昨年3月の記者会見でも、フリーランサーの上杉隆の確認を含めた質問に、小沢代表(当時)は「どなたでも会見にお出で下さいということを申し上げております。この考えは変わりません」と答えている。「約束を守る男・小沢」が総理になったら必ず官邸の記者会見はオープンになるだろう、そうすれば、全省庁の記者会見もオープンになり、検察、警察、裁判所、各県の県政記者クラブの会見もオープンになる。それでは、大手マスコミは情報を独占出来ず特権的地位から引きずりおろされ、世論操作も出来なくなる。記者も癒着・談合の世界から、自由競争の厳しい世界に放り出され、雑誌記者やフリーランサーとの取材合戦に敗れるかもしれない。新聞の紙面作りも難しく、廃刊に追い込まれる社も出てくるだろう。各省庁も、例えば「このままではギリシャの二の舞になる。消費税増税をしなければ大変なことになる」」などと記者クラブを洗脳し、メディアを通して官僚の思惑通りに世論を誘導し、国民を洗脳する手段を失うだろう。「小沢抹殺」は大手マスコミにとって至上課題なのだ。
ここで、横道にそれるが、小沢の「開かれた会見」の実相はどうだったのか、検証してみよう。1994年10月発行の季刊雑誌『窓』に雑誌記者の石飛仁が書いている。
「私が参加したその会見の場は、意外にぎこちないものだった。双方に未だ質疑のやりとりに滑らかなものがないのだ。質問が具体性を帯びていないというのか、小沢から引き出す側の工夫がほとんど成されておらず、新人記者の初歩的質問風に小沢が丁寧に答えていくというもので、きわめてぶっきらぼうというか、時局のディテールを知り尽くした上での専門家の質問という感じがほとんどしないのだ。これが私の受けた第一印象であった。小沢については、噛んでふくめるような論旨で丁寧に答えていくのが印象的であった。(略)私は正直、小沢という政治家は味も素っ気もないその言い回しのなかに全てを率直に埋めて正攻法で語っていく人物であることに驚いた。きわめて非日本人的な率直さが、そこにあるので驚いたのである。よし、これは発言の主旨をちゃんと正面から聞いていけば、政局はある程度読めるぞ、と思ったのである。
この「開かれた会見」の場は、日ごとに重要性を増し、また話題性を発揮し、きわめてアクチュアルな政治報道の場と化して、注目を集める場となっていった。小沢自身がこの会見を重要視していることも感じとれてきた」
自民党幹事長時代から小沢の会見を取材しているフリーランサーの田中龍作は先日、私に「小沢の答弁は丁寧で分かりやすい。的を射たいい質問をされると、嬉しそうな顔をして、大学の教授が学生に教えるように説明する。主旨や意図不明の質問や毎回繰り返す同じような質問だと『もっと勉強してきなさい』とたしなめることがあった」と語ってくれた。
私も自由党時代、安全保障問題での「開かれた会見」の進行役を務めたことがある。びっくりするような質の高い質問をする記者もいれば、初歩的な質問をする者もいて、玉石混交で面白かったが、某英字新聞の記者の質問には『同じような質問で、何度も答えている。勉強して来なさい』とたしなめたのが印象的だった。その記者は会見終了後、青い顔をして『党首に怒られた。来週から来てはいけないということか』と泣きべそをかきそうな表情をしいているので『そんなことはない。しっかり勉強して、党首が立ち往生するような核心を突いた質問をしなさい。小沢は喜ぶと思うよ』と励ましたことを覚えている。
1993年10月、小沢が「記者会見は義務ではない。サービスだ」と発言したと言って物議をかもしたことがある。その点について、去る1月17日夜行われた小沢一郎と岩上安身、江川紹子、田中龍作など13名のフリーランサーとの「割り勘でオープンな懇談会」で上杉隆が「サービス発言」の真意を聞いた。それに対し小沢は「僕は、記者会見は公共サービスだと言ったんです。政府や政党の会見は公のものでしょう。だから、新聞やテレビの記者諸君で独占するのはおかしい。公財である記者会見も公共サービスであり、公平に雑誌や海外メディアの諸君にも参加してもらおうと言ったわけだ。それがまったく逆の意味で使われたわけなんです」と答えた(ダイヤモンド・オンライン2011.01.20))。「てにをは」をちょっといじるだけでまったく逆の意味に変えてしまう手品のようなマスコミの陰湿さには開いた口が塞がらないのである。
大手マスコミが恐れるのは小沢のマスコミ対策の方向性だけではない。歴史を知り、歴史に学び、そこから未来を見通す洞察力と綿密に計算したうえでそれを実行する決断力と度胸だ。
小沢一郎が、枝野幹事長より1歳年上の47歳で自民党幹事長に就任した1989年(平成元年)は、戦後世界を支配してきたパックス・ルッソ・アメリカーナ(米ソによる平和)というパラダイムが崩壊する世界史に残る激変の時代の幕開けの年だった。菅総理は今年を「平成の開国元年」にしようとしているが、1989年こそ日本にとっても世界にとっても、文字通りの「平成の開国元年」だったのだ。6月にはポーランドで一党独裁政権が崩壊し、11月にはベルリンの壁が壊れた。1991年1月には湾岸戦争が勃発した。アメリカの庇護のもとで金儲けに余念のなかった町人国家日本は覚悟も準備もないままに国際社会に放り出された。明るくて人のいい海部総理には未曾有の国難に対処する能力はなかった。政権政党自民党は慌てふためくだけで、何の構想もない。野党は一国平和主義のタコ壺に逃げ込んで泣き叫ぶだけだった。町人国家を普通の国・国際国家に質的転換しなければ日本は国際社会で相手にされず、国益も守れないないという危機感をもって行動したのは、小沢だけだろう。日本丸が難破の危機を乗り切れたのは党を抑え、海部総理を励まし、野党を説得した小沢の腕力に負うところが大きいと評価せざるを得ない。小沢が主張した「集団的自衛権と国連による集団安全保障は違う。国連の決議のもと、国連の警察活動に参加することは憲法の理念に合致するもので、憲法違反ではない」という理論は大きな論議を巻き起こしたが、今では、日本の平和活動・国際貢献の原点であるばかりでなく、アメリカも国連のお墨付きをもらわなければ、海外での武力行使はし難くなったのである。
小沢は官房副長官時代、日米建設摩擦、日米電気通信交渉でタフ・ネゴシエーターという評価を得た。アメリカは、日本の国益・原則を踏まえて正攻法で押しまくる交渉上手な小沢に、「脅かせば言うことをきくこれまでの日本人」とは異質の、自立した、手ごわいサムライを見出したのだろう。
小沢は湾岸戦争が終わった直後、訪ソしてゴルババチョフ大統領と北方領土問題について会談、その後、ブッシュ大統領と会談している。モスクワ滞在中、イワシコ・ソ連共産党副書記長に言った言葉がすごい。
「人類史上で欧亜大陸にまたがる帝国をつくったのは蒙古とソ連だ。蒙古はあなた方にとっては非常に嫌な思いだろうけれども、蒙古帝国の世界史的に果たした役割は非常に大きい。あれは人種、宗教に寛容だ。それから、域内の自由交通を認めた。ヨーロッパ文明はどれだけあそこで教えられたか。文物の交流と、欧亜両大陸の親睦、その意味では非常に貢献した。ジパングなんて国を紹介したのはいつだ、マルコポーロはなぜ中国、北京まで来られたか。それは、あの時代、小アジアからずっとこっちまでの帝国の中を自由に行き来できたからだ。
ところが、ソ連及びロシア帝国は、図体ばかりでかくて、権力で支配して、何をしたか。何もできなかった。それで破産に瀕しているだけだ。そのことをあなた方は考えなきゃだめだ」
こうした小沢のことを当時、識者たちはどう見ていただろうか。
五百旗頭真は「世界秩序が大きく揺らぐ時には、国際感覚を伴った国家感覚がないとやれない。田中外交は戦後政治の主流をなす経済中心主義の枠内だった。今は経済大国の上に『何か』が必要で、日本の国家像が問われている。小沢氏がそのことをまともに受け止めようとしているのは注目に値する」(小沢一郎探検、朝日新聞)と評価した。
三木元総理のブレーンで「ストップ・ザ・オザワ」のリーダー、国弘正雄は小沢を「国家改造主義者」と位置付け、ドイツ統一の立役者ビスマルクに擬したが「小沢さんが歳をとってね、人生の悲哀を感じ、挫折も感じてね、経験の中で、むちゃくちゃな挑発型だったリンカーンが最後に『角熟』していったようになるかもしれません。そうあってほしいな」と語った(前掲書)。
小沢に対しては好き嫌いが激しい。それはそれでいい。日本が「春のうららの隅田川」であれば小沢の出番の必要はない。しかし、百数十年続いている中央集権・官僚主導国家を政治主導・地方主権国家に衣変えする大事業は小沢でなければ出来ないことは、反小沢も認めざるを得ない現実だ。小沢は論理の男だ。しかし、それだけだろうか。アンチ小沢の急先鋒、時事通信の田崎史郎の見方が面白い。
「岡田さんが地方回りで青森へ行ったとき、県連の人がぜひ食べてもらおうと、わざわざ大間のマグロを取り寄せて準備していたそうです。しかし、やってきた岡田さんは『私、コンビニでカロリーメイトを買いますから』と言って、箸もつけずに帰ってしまった。
小沢さんは岡田さんとは対照的に、どこへ行っても地元の人たちと酒を酌み交わす。だから、ある若手議員が言ってましたが、岡田さんには7回きてもらったけれど、1回だけ来た小沢さんのほうが、はるかに効果があったと。小沢さんは、地方へ行くと、その日集まって酒を飲んだ支持者の名前と住所を、後で全部教えてもらうんです。それで全員に手紙をだす。そういう人を動かす上での配慮は、政治家にとって一つの大きな力になります」(週刊現代2011.01.19/26)────「風」で当選した政治家から見ると「古い手法、古い政治家」なのだろうが、むしろ新しい理論・構想を持ちながら、居酒屋で酒を飲み、カラオケを歌う小沢のような「古い」政治家のほうがはるかに魅力的だ。
胡錦涛中国国家主席が先日、国賓として訪米した。その際、アメリカは自国の国益を考えて、次期国家主席に予定されている習近平の早期訪米を要請した。一昨年秋、習近平が来日したとき、中国の要請で天皇との会見がセットされた。これに対して、宮内庁長官の羽毛田某は、小沢が天皇を政治利用したと騒ぎだし、自民党やマスコミの一部が同調した。しかし、国益を考えれば小沢の判断は正しかった。
小沢は20年以上、ポケットマネーで米中との草の根交流をしている。昨年8月下旬、小沢は代表選のため参加出来なかったが、無名の庶民で構成された小沢訪米団がサンフランシスコで、アマコスト元駐日大使などアメリカの有力者に大歓迎された。中国でも、青年時代、小沢の招きで来日し研修した者が指導的立場で多数活躍している。小沢は一級の国際政治家でもある。
「君見ずや 管鮑貧時の交わりを 此の道 今人棄つること土のごとし」──杜甫
諸君、ご覧なさい。昔、管仲と飽叔とが貧乏な時代に結んだ堅い友情を。今の時代の人びとは土くれのようにうち棄てて顧みない。誠に嘆かわしいことだ。───意味はこうである。
私たちは忘れない。手を握り、肩を組み、叫んだ09政権交代を!
(二見伸明 2011.01.28)http://www.the-journal.jp/contents/futami/2011/01/post_33.html
昨年暮れから正月にかけて一線で活躍する記者たちと懇談した。
「小沢さんの話は論理的で分かりやすい。日本の政治家で小沢さんのような、骨太の国家観、歴史観、洞察力を持った人はいない。スケールの大きい本物の政治家という感じがする」
「TPPはアメリカの世界戦略だという冷厳な国際政治が分かっているようだ」
「小沢さんの政治とカネの問題は『期ずれ』だけだろう。ガタガタ騒ぐのがおかしい。もっと冷静でいい。政治にはカネは必要だよ。私腹を肥やすのは論外だが、カネの出入りを透明にすればいいのではないか」
「検察審査会の問題は恐ろしい。目障りな政治家や高級官僚、或いは宗教団体など、小沢さんをやっつけるやり方で強制起訴して潰すことは簡単だ。仲間たちと『これは政治テロ』だって話している」
「それにしても、小沢さんには熱烈な支持者も多いが、問答無用で切り捨てるアンチも多い」。
記者魂を持った中堅・若手の記者のほうが冷静で、まともだ。はっと思った。「マスコミの社長や幹部が、心底、小沢が怖くてしかたがないのだ」
小沢一郎は自民党幹事長時代、記者会見を記者クラブに所属していない雑誌記者、フリーランサー、外国人特派員にも開放し、自由に参加出来るオープンな場にしていた。それ自体、画期的なことだったが、1993年8月23日、新生党代表幹事として細川連立政権を支えるキーパーソンになった小沢は、従来の「記者クラブの、記者クラブによる、記者クラブのための記者会見」ではなく、記者クラブに所属していない記者も参加し、どんなことを質問してもいい平等で「開かれた会見」にすることを宣言した。また「『本音と建前』を使い分けることはしない。ここで言わないことは、どこでも言わない。言えないことは言わない。」と強調し、政界実力者が偽の情報を流して政敵を貶めたり、野党を分断するために利用する番記者のオフレコ記者懇談会も止めたのである。1996年5月には、小沢は新進党訪中団の随行記者団に、慣行を無視して記者クラブ15社17名のほか、週刊誌3社のフリーランサー5名など記者8名を参加させたのである。北京のホテルにはプレスルームが開設され、各社均等にデスク、電話、テレックスを備えた専用ブースが割り当てられ、中国首脳との会談後のブリーフィングも差別なく各社一緒に行われた。真の「国民の知る権利」を守るために、記者クラブを通して情報を独占するという既得権にしがみつく大手マスコミに挑戦状を叩きつけたようなものだ。論理的に太刀打ち出来ないマスコミは陰微な手段を駆使し、「小沢抹殺」を始めた。
余談だが、このときの江沢民主席との会談では、歴史認識をめぐって厳しいやりとりをしたうえで、小沢は日中関係が経済中心であることに懸念を示し「日本にはカネの切れ目が縁の切れ目という諺がある。経済協力は大事だが、それ以上に両国の信頼関係強化が大事だ」と持論を展開した。
大手マスコミは、記者クラブを通して行政、立法、司法、地方行政の全ての情報を独占している。このマスコミがお互いに談合し、「霞ヶ関」と結託すれば日本をどうにでも出来る恐ろしい存在になる。「大新聞は日本民主主義の最大の敵だ」と喝破するカレル・V・ウォルフレンが日本の大手マスコミに目の敵にされるのも、むべなるかなである。小沢一郎も「日本ではマスコミが最大の守旧派になっている」「マスコミほど今の社会で既得権を得ているところはない」とマスコミの姿勢を厳しく批判している。
マスコミが重大視しているのは、小沢が一貫して「政権交代したら官邸の会見はオープンにする」と主張し続けていることである。一昨年3月の記者会見でも、フリーランサーの上杉隆の確認を含めた質問に、小沢代表(当時)は「どなたでも会見にお出で下さいということを申し上げております。この考えは変わりません」と答えている。「約束を守る男・小沢」が総理になったら必ず官邸の記者会見はオープンになるだろう、そうすれば、全省庁の記者会見もオープンになり、検察、警察、裁判所、各県の県政記者クラブの会見もオープンになる。それでは、大手マスコミは情報を独占出来ず特権的地位から引きずりおろされ、世論操作も出来なくなる。記者も癒着・談合の世界から、自由競争の厳しい世界に放り出され、雑誌記者やフリーランサーとの取材合戦に敗れるかもしれない。新聞の紙面作りも難しく、廃刊に追い込まれる社も出てくるだろう。各省庁も、例えば「このままではギリシャの二の舞になる。消費税増税をしなければ大変なことになる」」などと記者クラブを洗脳し、メディアを通して官僚の思惑通りに世論を誘導し、国民を洗脳する手段を失うだろう。「小沢抹殺」は大手マスコミにとって至上課題なのだ。
ここで、横道にそれるが、小沢の「開かれた会見」の実相はどうだったのか、検証してみよう。1994年10月発行の季刊雑誌『窓』に雑誌記者の石飛仁が書いている。
「私が参加したその会見の場は、意外にぎこちないものだった。双方に未だ質疑のやりとりに滑らかなものがないのだ。質問が具体性を帯びていないというのか、小沢から引き出す側の工夫がほとんど成されておらず、新人記者の初歩的質問風に小沢が丁寧に答えていくというもので、きわめてぶっきらぼうというか、時局のディテールを知り尽くした上での専門家の質問という感じがほとんどしないのだ。これが私の受けた第一印象であった。小沢については、噛んでふくめるような論旨で丁寧に答えていくのが印象的であった。(略)私は正直、小沢という政治家は味も素っ気もないその言い回しのなかに全てを率直に埋めて正攻法で語っていく人物であることに驚いた。きわめて非日本人的な率直さが、そこにあるので驚いたのである。よし、これは発言の主旨をちゃんと正面から聞いていけば、政局はある程度読めるぞ、と思ったのである。
この「開かれた会見」の場は、日ごとに重要性を増し、また話題性を発揮し、きわめてアクチュアルな政治報道の場と化して、注目を集める場となっていった。小沢自身がこの会見を重要視していることも感じとれてきた」
自民党幹事長時代から小沢の会見を取材しているフリーランサーの田中龍作は先日、私に「小沢の答弁は丁寧で分かりやすい。的を射たいい質問をされると、嬉しそうな顔をして、大学の教授が学生に教えるように説明する。主旨や意図不明の質問や毎回繰り返す同じような質問だと『もっと勉強してきなさい』とたしなめることがあった」と語ってくれた。
私も自由党時代、安全保障問題での「開かれた会見」の進行役を務めたことがある。びっくりするような質の高い質問をする記者もいれば、初歩的な質問をする者もいて、玉石混交で面白かったが、某英字新聞の記者の質問には『同じような質問で、何度も答えている。勉強して来なさい』とたしなめたのが印象的だった。その記者は会見終了後、青い顔をして『党首に怒られた。来週から来てはいけないということか』と泣きべそをかきそうな表情をしいているので『そんなことはない。しっかり勉強して、党首が立ち往生するような核心を突いた質問をしなさい。小沢は喜ぶと思うよ』と励ましたことを覚えている。
1993年10月、小沢が「記者会見は義務ではない。サービスだ」と発言したと言って物議をかもしたことがある。その点について、去る1月17日夜行われた小沢一郎と岩上安身、江川紹子、田中龍作など13名のフリーランサーとの「割り勘でオープンな懇談会」で上杉隆が「サービス発言」の真意を聞いた。それに対し小沢は「僕は、記者会見は公共サービスだと言ったんです。政府や政党の会見は公のものでしょう。だから、新聞やテレビの記者諸君で独占するのはおかしい。公財である記者会見も公共サービスであり、公平に雑誌や海外メディアの諸君にも参加してもらおうと言ったわけだ。それがまったく逆の意味で使われたわけなんです」と答えた(ダイヤモンド・オンライン2011.01.20))。「てにをは」をちょっといじるだけでまったく逆の意味に変えてしまう手品のようなマスコミの陰湿さには開いた口が塞がらないのである。
大手マスコミが恐れるのは小沢のマスコミ対策の方向性だけではない。歴史を知り、歴史に学び、そこから未来を見通す洞察力と綿密に計算したうえでそれを実行する決断力と度胸だ。
小沢一郎が、枝野幹事長より1歳年上の47歳で自民党幹事長に就任した1989年(平成元年)は、戦後世界を支配してきたパックス・ルッソ・アメリカーナ(米ソによる平和)というパラダイムが崩壊する世界史に残る激変の時代の幕開けの年だった。菅総理は今年を「平成の開国元年」にしようとしているが、1989年こそ日本にとっても世界にとっても、文字通りの「平成の開国元年」だったのだ。6月にはポーランドで一党独裁政権が崩壊し、11月にはベルリンの壁が壊れた。1991年1月には湾岸戦争が勃発した。アメリカの庇護のもとで金儲けに余念のなかった町人国家日本は覚悟も準備もないままに国際社会に放り出された。明るくて人のいい海部総理には未曾有の国難に対処する能力はなかった。政権政党自民党は慌てふためくだけで、何の構想もない。野党は一国平和主義のタコ壺に逃げ込んで泣き叫ぶだけだった。町人国家を普通の国・国際国家に質的転換しなければ日本は国際社会で相手にされず、国益も守れないないという危機感をもって行動したのは、小沢だけだろう。日本丸が難破の危機を乗り切れたのは党を抑え、海部総理を励まし、野党を説得した小沢の腕力に負うところが大きいと評価せざるを得ない。小沢が主張した「集団的自衛権と国連による集団安全保障は違う。国連の決議のもと、国連の警察活動に参加することは憲法の理念に合致するもので、憲法違反ではない」という理論は大きな論議を巻き起こしたが、今では、日本の平和活動・国際貢献の原点であるばかりでなく、アメリカも国連のお墨付きをもらわなければ、海外での武力行使はし難くなったのである。
小沢は官房副長官時代、日米建設摩擦、日米電気通信交渉でタフ・ネゴシエーターという評価を得た。アメリカは、日本の国益・原則を踏まえて正攻法で押しまくる交渉上手な小沢に、「脅かせば言うことをきくこれまでの日本人」とは異質の、自立した、手ごわいサムライを見出したのだろう。
小沢は湾岸戦争が終わった直後、訪ソしてゴルババチョフ大統領と北方領土問題について会談、その後、ブッシュ大統領と会談している。モスクワ滞在中、イワシコ・ソ連共産党副書記長に言った言葉がすごい。
「人類史上で欧亜大陸にまたがる帝国をつくったのは蒙古とソ連だ。蒙古はあなた方にとっては非常に嫌な思いだろうけれども、蒙古帝国の世界史的に果たした役割は非常に大きい。あれは人種、宗教に寛容だ。それから、域内の自由交通を認めた。ヨーロッパ文明はどれだけあそこで教えられたか。文物の交流と、欧亜両大陸の親睦、その意味では非常に貢献した。ジパングなんて国を紹介したのはいつだ、マルコポーロはなぜ中国、北京まで来られたか。それは、あの時代、小アジアからずっとこっちまでの帝国の中を自由に行き来できたからだ。
ところが、ソ連及びロシア帝国は、図体ばかりでかくて、権力で支配して、何をしたか。何もできなかった。それで破産に瀕しているだけだ。そのことをあなた方は考えなきゃだめだ」
こうした小沢のことを当時、識者たちはどう見ていただろうか。
五百旗頭真は「世界秩序が大きく揺らぐ時には、国際感覚を伴った国家感覚がないとやれない。田中外交は戦後政治の主流をなす経済中心主義の枠内だった。今は経済大国の上に『何か』が必要で、日本の国家像が問われている。小沢氏がそのことをまともに受け止めようとしているのは注目に値する」(小沢一郎探検、朝日新聞)と評価した。
三木元総理のブレーンで「ストップ・ザ・オザワ」のリーダー、国弘正雄は小沢を「国家改造主義者」と位置付け、ドイツ統一の立役者ビスマルクに擬したが「小沢さんが歳をとってね、人生の悲哀を感じ、挫折も感じてね、経験の中で、むちゃくちゃな挑発型だったリンカーンが最後に『角熟』していったようになるかもしれません。そうあってほしいな」と語った(前掲書)。
小沢に対しては好き嫌いが激しい。それはそれでいい。日本が「春のうららの隅田川」であれば小沢の出番の必要はない。しかし、百数十年続いている中央集権・官僚主導国家を政治主導・地方主権国家に衣変えする大事業は小沢でなければ出来ないことは、反小沢も認めざるを得ない現実だ。小沢は論理の男だ。しかし、それだけだろうか。アンチ小沢の急先鋒、時事通信の田崎史郎の見方が面白い。
「岡田さんが地方回りで青森へ行ったとき、県連の人がぜひ食べてもらおうと、わざわざ大間のマグロを取り寄せて準備していたそうです。しかし、やってきた岡田さんは『私、コンビニでカロリーメイトを買いますから』と言って、箸もつけずに帰ってしまった。
小沢さんは岡田さんとは対照的に、どこへ行っても地元の人たちと酒を酌み交わす。だから、ある若手議員が言ってましたが、岡田さんには7回きてもらったけれど、1回だけ来た小沢さんのほうが、はるかに効果があったと。小沢さんは、地方へ行くと、その日集まって酒を飲んだ支持者の名前と住所を、後で全部教えてもらうんです。それで全員に手紙をだす。そういう人を動かす上での配慮は、政治家にとって一つの大きな力になります」(週刊現代2011.01.19/26)────「風」で当選した政治家から見ると「古い手法、古い政治家」なのだろうが、むしろ新しい理論・構想を持ちながら、居酒屋で酒を飲み、カラオケを歌う小沢のような「古い」政治家のほうがはるかに魅力的だ。
胡錦涛中国国家主席が先日、国賓として訪米した。その際、アメリカは自国の国益を考えて、次期国家主席に予定されている習近平の早期訪米を要請した。一昨年秋、習近平が来日したとき、中国の要請で天皇との会見がセットされた。これに対して、宮内庁長官の羽毛田某は、小沢が天皇を政治利用したと騒ぎだし、自民党やマスコミの一部が同調した。しかし、国益を考えれば小沢の判断は正しかった。
小沢は20年以上、ポケットマネーで米中との草の根交流をしている。昨年8月下旬、小沢は代表選のため参加出来なかったが、無名の庶民で構成された小沢訪米団がサンフランシスコで、アマコスト元駐日大使などアメリカの有力者に大歓迎された。中国でも、青年時代、小沢の招きで来日し研修した者が指導的立場で多数活躍している。小沢は一級の国際政治家でもある。
「君見ずや 管鮑貧時の交わりを 此の道 今人棄つること土のごとし」──杜甫
諸君、ご覧なさい。昔、管仲と飽叔とが貧乏な時代に結んだ堅い友情を。今の時代の人びとは土くれのようにうち棄てて顧みない。誠に嘆かわしいことだ。───意味はこうである。
私たちは忘れない。手を握り、肩を組み、叫んだ09政権交代を!
(二見伸明 2011.01.28)http://www.the-journal.jp/contents/futami/2011/01/post_33.html