畑倉山の忘備録

日々気ままに

歴史を静思して目を覚ます(1)

2016年09月06日 | 歴史・文化
歴史を見るは今日のためなり。今日を見るは未来のためなり。それなくして歴史には、小説を超えるー片の意味もなし。(中略)

ところが過去のすぐれていた面と、過去の過ち・犯罪は、歴史上に発生したいくつかの巨大な、文化的、思想的な断層によって途切れたので、歴史がそのまま、現在のわれわれに直結するわけではない。冷徹な目を持った人が見れば、懐古趣味の武道に酔い、郷土礼賛に自惚れるがごとき、現今まで物書きによって流布されてきた講談史は、穴だらけの古着のようなものにすぎないと言うだろう。それでもなお人が、郷土の歴史をたくましく発掘するのは、現在を豊かにするため、過去の佳きものを求め、その精神、その知恵の復活・伝承を望んでいるからである。特に戦前と戦後の思想を結びつけるかどうかは、現代人の行動と考え方にかかる。本書に登場する会社と組織と人物は、すベてその原則の上にある。

その意味から、歴史と現在は、三つの関係を持つべきである。第ーは、すぐれた過去の思想と知恵、技を伝承し、現代人が学び、吸収する。古く佳(よ)きものを決して破壊しないことである。

第二は、誤った過去を静かに凝視し、事実を記録することによって、過ちを導いた源や悪しき思想の因習を断つことである。愛するあまり郷土や先人を誇大に評価してはならない。第三は、現代人の引き起こす新たな問題が、悠久の歴史と郷里・先人を汚さないよう、大いに努める。

したがって、たとえ歴史に悪人と思われる人物や悪徳企業が登場し、それが自分の父母や先祖や近親者であったり、現在自分がつとめる企業や組織であっても、その事実を知り、被害者に対して誠実に罪の償いをおこない、源を断っているなら、もはや罪を問われるものではない。恥じるどころか、現在を誇り、喜ぶベきである。

(広瀬隆『持丸長者 国家狂乱編』ダイヤモンド社、2007年)