探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

正則の墓の話 ・・・参考文献の検証

2013-11-18 23:37:39 | 歴史

 正則の墓の話

参考文献・・・・・「伊那路」 昭和47年3月号

以前に、保科正則の幻の墓のことを、ブログにアップしているが、年齢の部分を考察すると」、いくつかの疑問があることを既述していた。

この度、郷土史誌「伊那路」に、偶然保科正則の墓の記述があることを見つけて、ここで検証してみることにする。

・・・「保科正則の墓を訪ねて」・赤羽篤

*「伊那路」第16巻 第3号 昭和47年 3月 ・・・ 目次の3段目にあります。

それでは、要点のみ書き出していきます。


「保科正則の墓を訪ねて」

・・・これによると、保科氏の高遠から多古への移封は正直ではなくて正光に命ぜられている事になる・・・保科正則夫婦の墓については、昭和17年発行の藤沢村史に、その概略が記載されている・・・わたしは昭和46年10月4日千葉県八日市場市飯高の大乗山法華寺に、その墓を訪れる機会を得た・・・寺院の建物はなく、わずかに墓地と寺院跡とその一角に、間口六間奥行き三間半ぐらい・・・お堂と集会所・・・この法華寺は戦国、北条氏の家臣の末流平山、鈴木、高橋氏が先祖代々この寺と墓を守ってきたとのことである・・・この二基並んだ夫婦の墓の裏には

・・正則公の墓 天正19年9月6日 去   (表は、法名の刻印)

・・正則公妻の墓 慶長7年6月20日 去  (表は、法名の刻印)

・・・ともに、元禄3年創建とあります。

・・・保科氏の高遠復帰が慶長6年であるから、正則の死後その側室は墓を守り高遠へは帰らずにこの寺で没したのではないかと考えられる・・・元禄3年・・・建福寺住職の喝道は正直の廟堂が敗壊しているのを嘆いて、会津藩主松平正信に修復を乞い、正直の墓とともに飯高の正則夫婦の墓も・・・修理させた・・・正俊については・・・「生死年月法名葬地不詳」と記されている・・・「保科世譜」によれば、正則の死亡の時、正俊は・・・84歳にあたる・・・として、正則、正俊については不自然という表現で、疑問を投げかけている・・・

*会津藩主松平正信は、正式に言うと、この呼称はない。会津藩主保科正信の時、幕府の親藩第一の藩が由緒ある松平を名乗って欲しいという強い要望で改名, 重四郎(幼名)→保科正信→正容→松平正容となる。会津松平藩第3代当主(1681-1731年)。会津藩二代藩主正経に子がなかったため、弟の正信が嫡子予定で、正経の養子に入る。正之の子。

ここには、いくつかの新事実があります。

1;正則の妻は、正則死後も多古に残っていただろうと言うこと

2;正俊の詳細は、不詳という表現で記述がないこと

3;天正19年(1591)-慶長6年(1601)-元禄3年(1690)の期間・99年間の歳月

正則、正俊、正直、正光、正之、正信と系譜は流れます。この系譜の保科家の家臣は、ほぼ激動の期間を伴にしたと思われます。父、祖父、曾祖父の時代に、激動の時期を主君とともに、苦楽を一緒にしながら過ごしたのであるから、語り継がれた歴史の事実の精度は、正信(松平正容)の時代は、かなり高かったと思われます。

それならば・・・

1;保科正則の存在と、多古での死去は事実であろうと推測が可能です。そうすると、北信濃の保科の里から、村上一族に追われた保科正利、正則親子は、矛盾になります。

2;保科正俊の「生死年月法名葬地不詳」は意図的な隠しが感じられます。あるいは、多古移封に逆らって、高遠?に残ったのかも知れません。

以上、分かったことは、この2点が、かなり不自然であること、となります。

下記の記述が、ずっと気になっています・・・

四方赤良の余談集4 『其之 74』H19.5.11~H19.6.16

・・・8月6日、多古城内の館にて隠居をしていた祖父の保科正俊が亡くなりました。祖父は武田家配下の高坂昌信、真田幸隆殿と共に、槍の名手として「三弾正」と恐れられ、若い頃よく祖父から槍の手ほどきを受けたものでした。拙者はかつての主君、武田勝頼様の斡旋により、真田昌幸殿の娘を正室に迎えていました。そこで祖父の死に際して直ちに信濃国上田の真田昌幸殿へ使いを送り、丁重な御返礼をいただきました。・・・

この人の文章を読むと、豊富な知識に裏打ちされていることが分かりますので、あながち無視も出来ません。しかし出典が分かりません。もしかしたら、飯野藩の所蔵の古文書のあるのかも知れません。江戸時代の人のハンドルネームをもつ四方赤良さんに、教えを請いたいと思いますが、連絡の方法が分かりません。

この頃(1593年)、朝鮮の役の後詰めで、九州に出仕いていた真田昌幸は、大阪を経て、上田に戻っていたと思われる。保科正直、正光親子も同様だが、主人は真田の方は秀吉で、保科の方は家康であった。その前の1590年頃、真田の沼田領の代替えとして、秀吉は箕輪を真田昌幸に与えている。この飛び地の箕輪の代官領主は誰であったのだろうか。真田と保科は、その時も以後も、かなり”良い関係”の親戚であった。お互いの信頼も緊密であったようで、このことが気に掛かる。保科正俊は、本当に多古に行ったのだろうか。