限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【2010年授業】『ベンチャー魂の系譜(5)-- Part2』

2010-11-06 20:51:41 | 日記
【ベンチャー魂の系譜 4.死と隣り合わせの求道(法顕、玄奘、空海、河口慧海)】

モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト 
 かなかな(法・1)
 ゆうゆう(農・1)
 ぶんちん(経・2)
 A:聴衆

前回から続く。。。

【どうして今回のテーマを選んだか】

かなかな:前期の授業(『国際人のグローバル・リテラシー』)で、河口慧海の名前を聞いて、
自分は仏教系の中学に行っていたのに、この人の名を知らなかったから、調べてみたくなった。
(SA):河口慧海や、南方熊楠のような非常にすごい人が、あまり知られていないのは現在の日
本の教育が小説家や政治家だけをとりあげているせいだ。日本文化の伝承の欠陥だと私は考える。
ゆうゆう:家が臨済宗だが、空海は日本の仏教に大きな影響を与えた人なので、このテー
マを選んだ。
(SA):日本の宗教のいい点は、宗派がちがっても対立しない点である。
ぶんちん:仏教思想全般に興味があった。家に、仏教の本がたくさんあって。河口慧海の
凄さに惹かれて。

(SA):どの人を調べてきたか?
かなかな:河口慧海と玄奘。
ゆうゆう:空海。
ぶんちん:河口慧海、法顕。

【河口慧海について】

(SA):どのような人?
かなかな:1865年生まれ。
(SA):どこの生まれ?
パネリスト:(知らない)
(SA):大阪の堺の人。家は仏教の寺。それからどうしたか?
かなかな:僧になって、漢訳された文章に誤訳が多いのを遺憾に思った。
(SA):なぜ彼は、それが誤訳だとわかったのか?
かなかな:訳本によって、言っていることが違っていた。
(SA):もともとの仏教の本は、漢訳ではないのではないか?何語で書かれているか?
かなかな:サンスクリット語。
(SA):サンスクリット語で書かれているものを、何人かで翻訳したら、違うのは当然では
ないのか?
かなかな:意味がまったく正反対であったりした。
(SA):明治の河口慧海に至るまで、それまでの人は疑問に思わなかったのか?
かなかな:疑問に思ったと思う。
(SA):疑問を持った人はどうしたか?
かなかな:原書が読むことができたらなら・・・
(SA):原書はどこにある?
かなかな:チベット?
ぶんちん:残ってないのではないか。
A:インドの北のほうにある。そのあたりからブッタが出てきた。
(SA):ブッタが生まれたのはインドの北で、ヒマラヤ山脈の麓。サンスクリット語で書か
れた原典そのものは、かなり中国にも入って来てたはず。河口慧海の時代に、それは入手
できたか?
A:できなかったと思う。
(SA):河口慧海のころ、つまり1900年ごろは、どうしてサンスクリット語の原典は入手でき
なかったのか?
A:たぶん、中国語以外のものは、入ってこなかったのではないか。
(SA):漢訳をする限り、サンスクリット語は必要なかったのか?奈良・平安時代は、サン
スクリット語を日本でも僧侶は習っている。つまりサンスクリット語が読める必要があっ
たことになる。つまり、サンスクリット語の本が、日本にも来ていたと推察できる。
一方、インドを統治していたイギリス人・ウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)がサンスク
リット語を研究しだしたのは1780年以降。その後ヨーロッパでは、比較言語学が非常な
発達を見せた。そのきっかけは、サンスクリット語とギリシャ語やラテン語の語彙が似て
いるとウィリアム・ジョーンズが見抜いたことから。
夏目漱石がロンドンにいた時(1900年ごろ)、サンスクリット語の研究が盛んであった。

(SA)サンスクリット語の仏典はほとんど無くなってしまっている。チベットには昔の仏典
が残っていたが、それは何か?
ぶんちん:チベット語訳の仏典。
(SA):なぜサンスクリット語ではないのか?

(SA):本を読むときのポイントは、テーマごとにまとめていっぺんに読む。一冊だけ読ん
ではだめ。たくさん読むと混乱するように思えるが、頭の中に、いろいろなことが関連付け
られて入ってくる。更に言うと、本を読むときは疑問を持ちながら、答えを想定しながら
読む必要がある。

(SA):言語的には、サンスクリット語とチベット語とは、どのような関係にあったか?
かなかな:文法とか、語彙が似ていたと思う。
ゆうゆう:両者の間には、ヒマラヤ山脈があるので、言語的にはかなり隔たりがあったと
思う。
ぶんちん:サンスクリット語とチベット語は、近い部分はあったと思う。
(SA):想像するに、サンスクリット語とチベット語の関係はまるで、漢文と日本語の漢文書下し文の関係のようなものであっただろう。サンスクリット語の仏典はチベット語へ逐語訳された。ヒマラヤは、彼らにとっては平地のようなものだっただろう。サンスクリット語の原書はほとんどなくなっているから、次善の策として、河口慧海はチベットへ仏典を探しに行った。それが、彼がチベットに行った一番の理由。チベットに行ってどうなったか?自分を求めているものを、得たのか?達成するために何をしなければいけなかったか・
かなかな:チベット語を覚えた。
(SA):すぐに覚えられたのか?
かなかな:7ヶ月ぐらいで覚えたそうだ。
(SA):河口慧海はチベットで困難に出会ったか?
かなかな:支那の僧と偽って、チベットに入っていったが、何回か正体がバレそうになる。
中国語で話かけられたときに、自分は話せなかったので、自分は方言が強いと誤魔化し、
漢文を見せたら、しのげた。しかし、結局最後の方で正体がばれた。そのことを知ってし
まった人は、密告しなければいけない義務があり、助けてくれた人が、虐待を受けた。
(SA):仏典の解釈が違うところを正すという、初期の目標は達成できたのか?
ぶんちん:仏典をいくつか持って帰って、目標は達成したのではないかと思う。
かなかな:目的は達成できたと思う。
(SA):彼のパッションの強さは、もともと目的が明確であったことだ。5年かかかってい
るが、ちゃんと目的を達成できた。幾多の困難を経て、日本に仏教の貴重な資料をもって
帰ってきても、学歴がないので、日本の中では、評価されなかった。これが日本のいけな
い点。後日、OEDを編纂したJames Murray(ジェームズ・マレー)の話をするが、マレーは
能力が認められ、中学の先生に過ぎなかったのに、オックスフォード大学から博士号を授与
され、OEDの編集主幹に任命されている。日本では、河口慧海、南方熊楠、牧野富太郎など、
たとえすごい実力があっても学歴がないと評価されない。
それにしても、河口慧海のパッションの強さは比類がない。我々の苦労というのは、彼が
経験したものに比べるとゴミのように見えてくる。

【空海について】

ゆうゆう:774年、いまの讃岐のあたりで生まれる。親は郡司で、お偉いさんの子ども。
(SA):生まれてから、ずっと讃岐にいたのか?
ゆうゆう:15歳ごろまで、讃岐にいて、京都に上り、大学に入った。
(SA):大学はそのように簡単に入れるのか?
ゆうゆう:16歳くらいの間に試験を受けた。身分もよかった。
(SA):大学に入る勉強はどこでしたのか?
(SA):彼の母方の舅である阿刀大足について漢文を習った。そもそも彼は、仏道者になり
たかったのか?
ゆうゆう:最初は、仏道の道に進むか、学問の道に進むか迷っていた。
(SA):学問の道に進むとは、どのようなことか?
ゆうゆう:大学へ行って勉強すること。
(SA):勉強をしたら、どのような職業につけるのか?
ゆうゆう:大学は官僚養成機関であった。空海は、失望して、仏道に入った。
(SA):彼は好んで仏教の道を選んだ。22歳のときに、仏教、儒教、道教の優位性を論じ
た定、『三教指帰』がある。このレベルの漢文は、いまの大学の教授でも書けない。当時の
生活では、教材のない中で、よくそれだけのレベルまで勉強していたと感心する。いま、教
材がありすぎるが、パッションが足りないので、漢文が出来ないのだ。ほとんど何もないと
ころから、強烈なパッションによって、偉大なことを成し遂げた人がたくさんいる。熱望し
ない限り、何もできない。
(SA):空海の時代、遣唐使とは、どのようなシステムか。何隻ぐらいの船で行ったか?
ゆうゆう:4隻ほどの船で。一隻、100人ぐらい乗ったと思われる。
(SA):一隻、最大で300人ぐらい乗った。その内、150人ぐらいが、漕ぎ手、や雑役係。150
人が役人や、留学生。合計で一回の遣唐使は、1000人くらいの団体。さて、遣唐使の1000人
は全員帰ってきたのか?
ゆうゆう:当時の船技術は、あまり発達していなかったので、かなりの人が死んだ。5人
に2人ぐらいは、死んだのではないか。
(SA):それは、死刑になっているのと、似たようなものではないのか?このよう危険な旅に、
誰がすき好んで行くのか?遣唐使に行きたいと本当に志願する人はいたのか?
ゆうゆう:朝廷から優秀な人が任命されて行ったと思う。
(SA):本当にすき好んで行ったのか?それとも、いやいや行ったのか?感情まで考えるの
が、大事だ。「日本書記」、「続日本紀」、「日本後紀」、「続日本後紀」を読むべし。
「続日本後紀」には遣唐使のことが書いてあり、任命された人はほとんどが嫌だと思って
いた。「続日本後紀」では任命されている大使のほとんどが、先祖が朝鮮人の帰化人である。
任命されても何らかの手段で逃れようとする。台風などで何度も引き返して、帰ってきた
ケースもある。しかし、今年ダメでも、何回も繰り返して派遣している。彼ら遣唐使がどう
いう気持ちで船に乗り込んで行ったかを考えて欲しい。とても晴れがましい気持ちではな
かったはずだ。
(SA):空海は何年くらい中国に行っていたか?また、私費留学か、それとも公費留学か?
ゆう:私費で行った。
(SA):私費と公費だと、待遇はどちらのほうがいいか?
ゆう:公費のほうがいいと思う。
(SA):公費のほうが抜群にいい。中国にいっても、様々な便宜が図られる。空海といっし
ょに行った人は誰?
ゆうゆう:最澄。最澄は公費で行った。
(SA):最澄は公費で行った。このことが原因かどうか分からないが、後年、最澄と空海が
喧嘩分かれしてしまった。空海は中国へ行ってから、どうしたか?何年くらい行ってきた
か?自分がそのひとになった場合どうするか、当時の様子を想像することが大事。空海は
もともと20年のつもりで行ったが、実際は何年いたか?
ぶんちん:具体的な年はわからない。
(SA):彼は2年くらいで帰ってくる。普通は、2,30年くらいいるものだが、空海の場
合は、恵果に会って、密教の伝来の宝物を渡され、すぐに帰ってきた。唐に学ぶものが何
もなかった。彼の知識のレベルは、日本にいながら、世界最高峰のレベルになっていたの
だ。

【空海で心に残ったエピソード】

(SA):空海が四国の山の中で修行したのが、「虚空蔵求聞持法」である。これは、一定の
作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あら
ゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなると言われている。これは脳幹が開く(活
性化)することで可能になるらしい。人間の頭は、普段意識に取り囲まれているが、意識
下に圧迫されている細胞を活性化するとこういった超能力を得ることができるといわれて
いる。脳波が、θ波になると、意識が半覚半眠の状態、つまりトランス状態に入り、脳を
最大限に使うことができ、物事が何でも覚えられるようになるらしい。



【玄奘、法顕について】

(SA):玄奘は何をしたか?
かなかな:隋から唐に移行するころに、仏教の仏典の研究は、原典によるべきだと思い、
インドへ行き、ヴァルダナ朝(Vardhana)の保護を受け、原典657部を唐に持ち帰って
翻訳した。
(SA):何年間くらいかけて旅行したか?
かなかな:16年くらい。
(SA):旅程について言うと、法顕、玄奘とも陸路でインドに行った。ただし、法顕は、帰
りはインドシナを回る海路で帰ってきた。玄奘は再度陸路で帰国した。ほとんど死ぬ覚悟
で行っている。いろんな困難を乗り越えてから帰ってきたことを、想像してほしい。彼は
どれくらい翻訳できたか?
かなかな:持ち帰ったすべてのものを、翻訳することができなかった。ひとりで、毎日、
15,6時間やっていた。
(SA):仏典(サンスクリット語)を漢文に翻訳するのは1人ではやっていない。5人位の
グループで共同訳でやっている。玄奘は一日12時間ぐらい時間をかけ、それを15年く
らい続けて翻訳していた。
(SA):法顕はどうしたのか?
ぶんちん:長安からインドの旅に出た。陸路でインドに行って、帰りはスリランカに寄り、
その過程で、経典を集めて、帰ってきた。
(SA):何冊も何百部持って帰ってきているはず。玄奘にしても、法顕にしても、求めてい
る経典の量が、膨大であった。死をも恐れないパッションは見習わないといけない。しか
しそれ以上に、玄奘のように長時間の翻訳を死ぬまで続けるのは、自分のミッションを自
覚していた証拠だ。
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