限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第140回目)『エピクロス派とストア派 - 類似と相違』

2011-06-05 14:57:25 | 日記
このブログではすでに何度か古代ローマに流行した哲学の2大潮流であるエピクロス派とストア派について述べた。
『ストイック=禁欲主義、の誤解』
『エピキュリアン=享楽主義、の誤解』
『ストア派のいう「ト・ヘーゲモニコン」の意味』

この中で、『ストイック=禁欲主義、の誤解』で私は下記のように述べた。

 *************************************************
私が到達した結論はというと、
 『ストア派は大乗仏教』
 『エピクロス派は小乗仏教』

。。。(中略)。。。

ストア派の言い分は、『差し支えのない限りは、社会的活動を積極的にする』であるのに対し、エピクロス派は『やむを得ない事情がある時には、社会的活動をするが、できることなら社会的活動は避ける』というものである。(この意見は確か、セネカの 124通ある道徳書簡集のどこかに載っていたように思うが、記憶が定かでない。)

 *************************************************

記憶が定かでなかったので、その後セネカの『道徳書簡集』を何回か見直したが、発見できなかった。それで他の本を当たっていたら、ひょんなことからセネカの『De otio(閑暇について)』(3.2)という本にこの部分があったので紹介したい。この文では、まずエピクロスの意見が述べられていて、次いでストア派の創立者のZenon(ゼノン)の意見が述べられている。

【ラテン語】
Epicurus ait: "non accedet ad rem publicam sapiens, nisi si quid interuenerit"; Zenon ait:"accedet ad rem publicam, nisi si quid inpedierit."

【英語】
Epicurus says: "The wise man will not engage in public affairs except in an emergency." Zeno says: "He will engage in public affairs unless something prevents him."

【ドイツ語】
Epikur sagt: "Der Weise wird nicht in die Politik gehen, ausser wenn ein Notfall eintritt."; Zenon sagt: "Er wird in die Politik gehen, ausser wenn etwas daran hindert."

【フランス語】
Épicure dit. « Le sage n'approchera point des affaires publiques, à moins d'y avoir été poussé par quelque circonstance. » Zénon dit : « Le sage approchera des affaires publiques, à moins d'en avoir été empêché. »



ところで、ヨーロッパでは、知識人の任務として積極的に政治活動に参加すべきだと考えているように私には思える。物理学者のアインシュタインは晩年には科学者と言うより、核兵器の廃絶や科学技術の平和利用を訴えた平和思想家としての活躍が輝く。またハンガリーのユダヤ人であるジョージ・ソロスは国際的に巨額のヘッジファンドを操り『イングランド銀行を破綻させた男』として悪名高いが、手にした巨額資金を自分の信念にもとづく政治活動家たちに支援している。この意味では、彼らはいづれもストア派の信念に近い行動倫理を持っているといえよう。

一方、エピクロス派は、『エピキュリアン=享楽主義、の誤解』でも述べたように本来、エピクロスのいう快楽(hedone)とは『苦痛のない、平穏な心持ち』の状態を指していた。ところが、既に古代でも近代でも常に『エピキュリアン=享楽主義』と誤解されていた。ブルクハルトがその著『イタリア・ルネサンスの文化』で述べるところによると、14世紀のイタリア・フィレンツェの文人、ジョヴァンニ・ヴィッラーニ(Giovanni Villani)は当時の放蕩児マンフレドのことを『彼は、神も聖者も信ぜず、肉感的な快楽のみを信じたエピキュリアンであった。』をけなしていた。

【ドイツ語原文】Von Manfred sagt er: »Sein Leben war epikureisch, indem er nicht an Gott noch an die Heiligen und überhaupt nur an leibliches Vergnügen glaubte.«

【英語訳】 The same writer says of Manfred, "His life was Epicurean, since he believed neither in God, nor in the Saints, but only in bodily pleasure."

しかし、このような享楽的生活をエピクロスが勧めたというのは誤解であるのは間違いない。ただ、エピクロスは『隠れて生きよ(lathe biosas, λάθε βιῶσας, Live in Obscurity)』を生き方の基本方針としていたので、上で述べたように已む無き事態に陥るまでは、政治へは不関与の態度を取っていたのであった。

混迷せる現今の日本の政治のように、無意味かつ無策な党略にうつつを抜かす俗悪な政治屋が跋扈する世界にあっては、ストア派よりむしろエピクロス派に賛同したくならないだろうか?
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3 コメント

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知者と仁者 (yu)
2011-06-08 13:09:58
最近、桑原武夫の論語を読んでおりましたところ、知者と仁者の説明に、エピクロスを引き合いに出している箇所がございました。

「子曰、知者楽水仁者楽山、知者動仁者静、知者楽仁者寿」
(中略)
「優劣を離れて二つの類型と見れば、俊敏と重厚、行動と静観、追及と安居、努力と幸福、など多くの対比が考えられる。孔子は水も美しい、山も美しい、と見ているのだ。知者が楽しむ、の場合の楽しむには上品な意味での快楽、エピクロスが求めたようなものとしての快楽の語感がある。仁者は快楽を否定する禁欲主義者では決してないが、歓楽をたのしみにまで減速濾過することによって、生命を静かに永くするのである。」
『論語』(桑原武夫、ちくま文庫、P.155-156)

この減速濾過という見方には、エピクロスとストア、小乗と大乗、知者と仁者、それぞれ対極にあるとされる両者の違いと同時にその繋がりを感じ、この章は幾度も読み返しました。
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エピクテトスとエピクロス (yu)
2011-07-22 22:31:20
あれから少し調べてみたのですが ・・・『人生談義(上)』エピクテートス(岩波文庫)の第二三章「エピクーロスに対して」10行目当りに、以下の文章を見つけました。「エピクーロスは分別のある人は、公事に携わらぬようにというのである。」社会活動をする人は分別が無いかの様に言っていると、エピクテトスはエピクロスを非難しています。

エピクテトスは本書の中の至るところで、エピクロスを取り上げ、攻撃しています。エピクロスが書いている真意など全く無視しており、言い掛かりに近いものも感じます。彼らストア派に取って、それだけエピクロス派が無視出来ない大きな存在だったということかも知れません。「エピクロス派=快楽主義」という様な偏った見方は、この辺りの対抗意識から来ているに相違ありません。

しかし、同じストア派でもセネカは極めて冷静で、「幸福な人生について」に、エピクロスについて触れているところがありますが、彼は努めてニュートラルな立場で解釈を行おうと試みています。共感するところは惜しげもなく共感し、同じストア派に気遣ってか言葉を選んで言及しています。まるでエピクロス派の人間が言っているかの様です。これは彼の懐の深さと言っても良いのかも知れませんが、セネカに取っては少なくとも、ストア派か?エピクロス派か?などの問題は、どうでも良い瑣末な事だったのだと思います。エピクロスを一番理解しようとしたのは、実はこのストア派の領袖であったセネカであったかも知れません。

時代が移りますが、湯川秀樹の自伝『旅人』に、社会と自分との関係性について、以下の様な述懐があります。少し長いですが引用します。「学問というものが、広く深い意味で、常に人間のためにあることは認められねばならない。思いがけない社会的関連も、生じるであろう。しかし、学問を尊重する気持が国民の間にあるのなら、学者はなるべく研究室に置いて、ことさら繁雑な世界にひき出さないようにしてほしいと思う。これは、私一人の注文ではないだろう。多分、多くの学者たちの切ない望みだと思って、代弁しているのである。 私はもうずっと以前に、「名なしの権兵衛」ではなくなってしまっている。だれも、私をほうって置いてはくれない。利用価値があると思われること自体は、私に取って嬉しくないことはない。しかし、それが私にとって重荷であることもまた否定出来ない。」

湯川秀樹が学問に一途に没頭出来たのは、中学を出た頃から、中間子論を書き上げる27歳頃までで、10年もなかったと言います。こういうことに対する一個の人間の感情として、エピクロスが言う「隠れて生きよ。」と附合する気がします。こういったことはネガティブな本音として世間から誤解を招き易く、なかなか言い辛かったと思います。湯川秀樹とエピクロス、奇しくも原子という同じカテゴリーを研究テーマとした二人の知者は、その悩みもまた無縁ではなかったと感じました。
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アタラクシアについて (yu)
2011-09-30 18:26:28
お世話になっております。いつも初歩的な質問ばかりで大変恐縮ですが、ひとつだけ質問させて下さい。

エピクロスは、「心境の平静」を人間の最高の状態としています。セネカには、『心の平静について』という題名の書簡があります。翻訳とはいえ、エピクロス派とストア派が、似たような言葉を使っていることに、以前から疑問がありました。その様な中で、最近、両派を引き合いにして、快楽を論じている西田幾多郎の説明を発見しました。

「人間もし快楽が唯一の目的であるならば、人生ほど矛盾に富んだ者はなかろう。むしろ凡て人間の欲求を断ち去った方がかえって快楽を求むるの途である。エピクロースが凡ての欲を脱したる状態、即ち心の平静を以って最上の快楽となし、かえって正反対の原理より出立したストイックの理想と一致したのもこの故である。 - 中略 - 我々は決して快楽に由りて満足することはできない。もし単に快楽のみを目的とする人があったならばかえって人生に悖った人である。」
『善の研究』 第三編 第八章 倫理学の諸説 その四(岩波書店)

これを読み、両派はプロセスやアプローチが異なるものの、結論的に同じような幸福感を目指していたのだと納得したのですが、セネカが『心の平静について』で言った「心の平静」を指す言葉は、エピクロスの言った「アタラクシア」だったのか?(単語が)些細なことですが、大変気になっております。御教授頂ければ幸いです。

以上
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