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限りなき知の探訪

50年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第181回目)『幻のタイトル 「リベラルアーツ ルネッサンス」(その9)』

2015-11-22 22:42:20 | 日記
前回

従来のリベラルアーツの欠点は、本稿の(その2)でも述べたように普通の学科の通りの教え方をしていることだ。つまり、『従来のタコツボ的専門分野の研究結果のばら売り状態』であり、リベラルアーツが本来目指す『学際的』なものには全くなっていないからである。ここでいう本物の『学際的』とは、文理を問わないだけでなく、語学的に言えば、横文字と縦文字をも問わない。

横文字と縦文字の対立が『学際的』なものを形成するのに如何に阻害要因となっているかについて私の考えを述べよう。

そもそも、日本人はヨーロッパ語に弱い人が多いので、すこしでも英語ができればそれで満足してしまって、他のヨーロッパ語を全くかじろうともしない。そして、英語の知識だけで日本語との比較やヨーロッパ語一般を語ろうとする。― それは大きな誤解だということを『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』の第6章で述べたので参照していただきたい。― 歴史的にも客観的にもヨーロッパ言語内における英語の位置は、相撲番付でいうと、せいぜい小結ていどで、大関にも届かない。もっとも、かつての寺尾や舞の海のように、番付は低くとも横綱や大関以上の人気を誇るが。。。

ヨーロッパのことを少しでも真剣に調べようとすると、当然いろいろな言語にぶつかってしまう。文章を完全に理解するのは確かに難しいが、少なくとも単語は原語から調べて正しい意味だけでなく歴史的背景も含んで理解する必要がある。もっとも、ヨーロッパ語をいくつかかじると、単語の由来、つまり語源的なセンスが身に付き、単語を通してヨーロッパ各国の相互作用や関連までもが分かってくる。この意味で、リベラルアーツに真剣に取り組むには、横文字も英語だけに留まっていてはものにならない。必然的に多言語へと進むことになる。言うまでもなく、横文字の言語はヨーロッパ言語だけにとどまらず、アラビア語やヘブライ語もあり、さらにはインド・東南アジアの言語もあるが、これらの言語は私の能力と時間のキャパをオーバーするので今はまだ取り組んでいない。

さて、ヨーロッパ言語内部に関する問題よりも、一層深刻な問題が、横文字と縦文字にかかわる学者同士の心理的反発である。この問題は、私の見る所、劣等感と優越感がないまぜになっている所に問題の面妖な複雑性が隠されている。この点は、以前のブログ
 百論簇出:(第35回目)『フランス語も流暢な中国文学者・狩野直喜』
で次のように指摘した:
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現在、私は、授業や個人的な談話を通じて京都大学の文学部の学生達と接触する機会が多くあるが、ほとんどと言っていいほど日本、中国関連の専攻志望の学生は、英語を初めとした西洋語が出来ない、あるいは嫌っている。高校の時に英語ができなかった、という消極的理由で、専攻を東洋に振り向けているのだ。この消去法的傾向は、学生のみならず、残念ながら一部の教官にも見られる。
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つまり、英語などのヨーロッパ言語が(出来ないために)嫌いになった学生が国文や中文に進学するのだが、その逆もまた真なりである。学生だけでなく、教官もなべて英語が(とびっきり)できる人はたいてい漢文はできないものだ。心のなかでは、それぞれの派は、「自分は漢文はすらすら読める」あるいは「自分はヨーロッパ語ならすらすら読める」と優越感をもっているが、反対の言語は全くダメだと、優越感と劣等感が同居しているのだ。

教える教官自体がこういう態度であるので、教えを受ける学生もそのように感化されてしまう。さらに、ジャーナリズムたるもの、本来は批判的精神を発揮して、そのような状況を叱り飛ばさないといけないにもかかわらず、このような現状を当たり前だと考えてしまっている。

とりわけ「漢文などはカビのはえた骨董品の如く、現代の世の中ではもはや使い道のないものだ、それに反し、英語は世界の共通言語だ」との観点から、横文字派の鼻息は荒い。そういった世間の侮蔑感を肌身に鋭敏に感じている国文・漢文専攻の教官たちは、鬱屈した劣等感の裏返しとして、漢文を読めることの優越意識をもつ。一方、ヨーロッパ語ができる人たちも、やはり漢字が母国語の日本人であるため、漢字のありがたみは、身にしみて分かっている。しかし、四字熟語ですら、つまづいたりするので、漢文の文章ともなると、とても難しいとお手上げになり、心ひそかに漢文が読めない劣等感に恥じる。

経緯はどうであれ、結果的に、横文字派、縦文字派、それぞれが相手の言語が牛耳る学問分野に踏み入れないよう、細心の注意を払ってきたおかげで、お互いの学問領域は不干渉と不可侵のまま平和裡に併存し得てきた。しかし、その結果、文化圏を越えた比較論が全くありえなかった。たとえば、歴史書でいうと、ヘロドトスの『歴史』と司馬遷の『史記』の比較など、素人がエッセー風に取り上げることはあっても、専門家が学問的観点から掘り下げることはなかった。(あったとしても散発的でとうてい、新たな学際分野として研究することにはなっていない。)それで、世の中の歴史の本といえば、決まって文化圏別に縦割りにばらばらであった。例外は、私の知っている範囲では、東洋史と仏教学がある。(それだけではなしに、時代別に横割りのばらばら状態でもある。)

私の『リベラルアーツ ルネッサンス』では本来の『リベラルアーツ』の修得をめざし、このような無意味で因襲的な垣根はいっさい取り払う。さらに、膨大な学問分野をひとつづつシラミつぶしに学ぶことを目標とせず、これらの科目全体を統括した学際的立場から文化のコアと呼ばれるものを取り出すことを目標とする。そのために、膨大な科目全体を言語の区別をつけず、次の4つの分野に括り直す。
 ○人間の心のしくみ
 ○人間社会のしくみ
 ○自然界のしくみと自然の利用
 ○技の洗練・美の創造




文理、言語の垣根を取り払った学際的見地から、文化のコアをつかむためには、たとえば次のようなテーマから攻めてみることを勧めたい。



前回「リベラルアーツの科目」で示したようにリベラルアーツが包含する科目自体は極めて膨大なものだが、それをこのようにくくりなおしてみると案外、取組みやすいものに思えてこないだろうか?しかし、全体のスキームは分ったが実際にどうすればいいのやら、とまだ納得できないと感じている人もいることだろう。次回はその点について述べよう。

続く。。。

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