限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【2011年度授業】『国際人のグローバル・リテラシー(10)』

2011-06-24 14:38:32 | 日記
【国際人のグローバル・リテラシー 10.中国 哲学(儒教、老荘、韓非子、墨子)、仏教】

中国は歴史上、日本には政治、文化のあらゆる面において非常に大きな影響を与えた国である。現在の中国の人口および経済成長を考えると我々日本人が好む・好まないに拘わらず今後は一層両国の関係は緊密にならざるをえない。

中国人を理解する一つの観点はやはり、良くも悪くも、2500年来彼らの行動規範を縛っていた儒教を初めとした哲学を正しく理解することであろう。彼らの哲学は基本的には、全て紀元前数世紀の春秋戦国時代に完成していると言っても過言ではない。

今回は、儒教、老荘、韓非子、墨子をとりあげ、その根幹の理念について議論した。日本人が理解している儒教と中国人が考えている儒教は果たして同じものか?またかつて中国の思想界を儒教と二分した墨子の教えについても考える。墨子は日本では、全くと言って良いほど知られていないが、その思想がなぜ生まれたか、そして何故、大流行した割には数十年も経たず、ほぼ完全に歴史から消滅してしまったのか?仏教に関しては、墨子とは違った意味で、一時大流行したが、次第に歴史の表舞台から姿を消している。

墨子、仏教の消長の原因について考えることで我々の知らない中国、および中国人が見えてくると私は考えている。



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本稿は今回の講義のまとめである。一部、語句を修正したところがある。またところどころ筆者(本稿をまとめた学生)の意見が入っている。

モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト:Atsushi,Rihoko

今回の授業は、現代中国において漢文(故事成句)を学ぶ重要性についての話から始まった。

中国人は歴史が大好きである。大好きだといっても、日本の義務教育のように、年号や人物を暗記することを大切だと思っているのではなく、歴史を学ぶことを通じて己の生き方を学ぶことを重要視しているのだ。

そして故事成語(蒙求など)をとても重んじる。だからたとえ現代中国語を話すことができても、故事成語を知らないのなら、それは中国人が認めるに値しない教養だと考えているようだ。

*蒙求

主として魏晋時代の人物を取り上げ、その人柄が活き活きと想像できる数多くのエピソードが、短編小説の形で紹介されている。そしてそれぞれの篇には四字のタイトルが付けられている。

例:「孟母三遷」、夏目漱石の名前の由来となった「孫楚漱石」、 "蛍の光窓の雪"で知られる「孫康映雪 車胤聚蛍」

筆者が思うに、歴史を通じて生き方を学ぶという中国人の姿勢は、歴史を「読み解く」側の人間にだけではなく、歴史を「書く」側の人間にも見られるのではなかろうか。例えば司馬遷は、宮刑に処されても史記を書き上げた。また戦国時代の史官の中には、何度殺されても、代理がその意志を継ぎ、何とか後世に正しい歴史を書き残そうとした者たちがいる。これらの事実は、筆者には後世の人々に次のような問いかけをしているように思える。つまり、彼ら自身が歴史の中に理想の生き方を捜し求め、今の中国の権力者たちの生き方がはたして理想的なのか?、と。

Q1.儒教はいったい何を教えているものなのか

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳を備えて、五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。

一応、「仁」が最高の徳目だとされているが、筆者は、「仁」と同じくらい「礼」も重要視されていると考える。

まず、二つの語の定義について考えよう。(スーパー大辞林より)
「仁」・・・己に克ち、他に対するいたわりのある心
「礼」・・・社会生活をする上で、円滑な人間関係や秩序を維持するために必要な倫理的規範の総称で、人として従うべき行動様式全般を包括する


それではなぜ、「仁」と同じくらい「礼」が重要視されていると儒教では考えたのか?
それは、「仁」が「礼」に通じるものだと考えたから。

「仁」は、「他に対するいたわりある心」とされている。しかし中国におけるこの場の「他」とは、血縁関係のあるもの(しかも血縁とは男系の家族)に限られている。中国人は、自分の血縁関係外の『他人』に対しかなり排他的である。これは、彼らの氏姓制度や養子縁組に見られる。たとえば、中国の氏姓制度において、夫婦別姓が原則となっており、かつては、子供は全員父親の姓を名乗ることになっていた(1980年に婚姻法が定められ、現代では父親か母親のいずれかの姓から選択可能)。嫁いできた妻は苗字を変えることなく、子供が生まれても一家では母親だけが別姓を名乗っている状態だったのである。養子にするにも原則として父方の同姓の甥などを迎えるが、母方の甥を迎えて苗字を変えさせることはほとんどないようだ。

つまり彼らは、自分の血筋にかなりの誇りを持っていたということ、と言える。自分の血筋に誇りを持つということは、父親、兄弟には絶対的な「愛」をいだくということにつながるのではないだろうか。この、父親、兄弟への愛=「仁」が、「目上の者」に対する道徳、礼儀、マナーを意味する「礼」になると、筆者は考える。よって、「儒教」においては、「礼」は「仁」と同じくらい重要視されている結論づけられる。

さて、この「礼」であるが、これははっきりいって身分格差があることを認めるものである。正確には、それぞれの身分において、上の身分のものを敬い、自分の身分に応じた責務を果たすべきだというのが儒教の「礼」なのである。(ただし孔子は、人を支配するには、ひとつの身分の中にある格差をなくすことが大切であるとも言っている。)

Q2. 儒教は中国の歴史にどういう意味を持っていたのか.

儒教といえば、「孔子が作ったもの」というイメージが強い。
しかしその実、儒教は孔子がゼロから作ったものではなく、中国に住み着いていた人々の考えを、孔子が紀元前五世紀ごろに体系付けたものに過ぎない。儒教は、先祖信仰から生まれたものと考えることができる。中国では、古来、先祖が死ぬと一族の墓に土葬し、祀る風習があった。その後の中国では、風水で埋葬に良い日取り占い、よい土地を選んで土葬したくらい、先祖を大切にすることが広く知られている。このことも「仁」につながると考えてよいだろう。庶民ですらそうなのだから、皇帝などは言うまでもなく、先祖の信仰はかなり強かったに違いない。

筆者は、儒教ほど、皇帝が人民を支配する上で都合のいい思想はないと考える。なぜならば、上述のとおり、儒教は、事実上身分格差を認め、人民が皇帝を敬うことを絶対だとさせることができる思想だからである。

儒教は、秦の始皇帝によって大弾圧を受けた。それなのにその後、前漢時代にはすでに儒教が国教となった。これは、儒教というのが中国における支配でかなりの力を持っていたという社会情勢の反映と考えるべきであろう。

中国人にはもとより、少しでも身分差があると、すぐに下のものをこき使いたがるという性質があるという。だから、身分差を認める儒教というのは、国教とし、国民の支配原理とするのにとても都合のよいものだったと考えられる。しかし本当に、国民(特に最下層に位置する農民など)が諸侯や皇帝に従っていたのは、儒教のおかげだったのだろうか?

儒教が先祖信仰から生まれたものだというのなら、血筋を大切にする中国人が両親や兄を敬うのは自然なことだと思う。しかし、農民たちは、両親や兄を思うように、皇帝を思っていたとは考えにくいのではないだろうか。

もし穀物が取れなくても税が搾り取られていたり、戦に頻繁に借り出されたりしていたら、むしろ皇帝や王を思おうとは思わなくなるのではないだろうか。それでも儒教が国教として成り立っていたということは、農民は、儒教によってというよりも皇帝や王の恐怖支配によって従わざるを得なかったと考えることはできないだろうか。

そして、少しでも身分差があると、すぐに下のものをこき使いたがる性質というのは、何も中国人に限った訳でなく、多かれ少なかれ我々日本人にもあるものではないだろうか。

Q3.日本はいつごろから中国思想を取り入れていたか

日本には「儒教」という言葉と、「儒学」という言葉があり、どちらも同じような意味で使われることが多いが、これらは別々のものである。歴史的に見て、日本には「儒学」は入ってきたが、「儒教」が根付くことはなかったと言える。

「儒教」は、「儒学」に比べ、宗教的な意味合いが強い。つまり、学問としてある「儒学」と違って、「儒教」には宗教として人々の行いを定める規範(「礼」など)があったということである。

それではなぜ「儒教」が日本に入ってこなかったのだろうか?

その問いの鍵を握るのは、やはり「礼」であろう。日本に論語が入ってきたのは、三世紀の応神天皇の時代だといわれている。百済から王仁という人物が派遣され、論語を応神天皇に謙譲したのだ。ここで当然、儒教の「礼」がまとめられた礼記もその時に入ってきたと考えるべきであろう。

日本で始めて儒学を政治思想として取り入れたといわれているのは聖徳太子である。聖徳太子が定めた憲法十七条には、「徳治」・「仁政」思想が入っている。しかし、「礼」が憲法十七条の中には見られない。その後、吉備真備が八世紀、称徳天皇に『礼記』・『漢書』を講じたという記録は残っているが、日本に「礼」が定着したということは聞かない。

これはなぜだろうか?

礼記には、同族を娶ることは禽獣の行いだと糾弾している。しかし、当時(白鳳・奈良時代)の日本では、同族のいとこ同士の結婚が普通に行われていたことから、礼記に従うには抵抗があった、それで礼記という本そのものも無視したのであろうと推察する。ついでに言うと、筆者は個人的には儒教の「礼」があると、女性天皇を立てる上でも妨げとなり、不都合があったのではないか、とも考えている。

更には、中国人の言う「仁」と、日本人の言う「仁」も異なっていると考える。上述のとおり、中国人の「仁」は、血縁関係(男系のメンバー)に対してのみの「仁」であるが、日本の「仁」というのは、嫁、婿、養子などもその範疇に入るのである。

Q4.老子、荘子、道教は何を主張していたのか、道教との対立点は?

道教の中心概念となる道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。道教とは、不老不死を求める神仙思想である。

老子、荘子が唱えたのは、人間は、無為自然(俗世間、人為を避けること)であるべきだということだ。老子、荘子は、儒教の唱える身分格差を、社会の外側から規定されているものだととらえ、否定した。無為自然を唱える老子荘子は、この点で儒教と対立している。

Q5.韓非子は何を主張していたか、儒教との対立点は?

韓非子は、法治国家(法の運用に、人のえこひいきが入らないこと)をめざし、信賞必罰(情実にとらわれず、賞罰を、決まりに沿ってわたすこと)を唱えた。ということは裏を返せば、中国では法治がおこなわれていなかったということである。当時(戦国時代)の中国では、法治でなく、人治が行われていたのだ。そしてそれは、秦によって中国が統一され、法が整備されても変わらず、今になっても変わっていないとも言われる。人治とは、賞罰や政治を皇帝や王、諸侯が独断によって行うという支配体制である。

そこでは何が起こるか?

身分が下のものは、莫大な賄賂を上のものに贈って取り入るようになり、身分が上のものは、賄賂をくれた人のためになるようなこと(その人に高い位、土地を与える、など)しか行わなくなる。これが進行すると、身分が上のものは下のものからもらう賄賂だけで十分贅沢な暮らしをすることができるようになり、政治に無頓着になっていき、実際の政治は、身分が低いものが行うということになるのではないだろうか。

例えば、中国においては、身分の低い胥史・宦官が、身分が上の官に賄賂を贈り、官の政治意欲を失わせて、政情が官に伝わらないように情報操作を行い、実際の政治を行っていた例が多々ある。一例を挙げると、蜀で劉禅に仕え、蜀の実権を握り自分勝手に人事を変え、蜀の滅亡の元凶となった黄皓などが、その好例である。

中国において、情報操作によって権力を握った宦官が多々いるということは、史記を読んだ筆者にはかなり納得できることであった。

Q6.墨子は何を主張していたのか。儒教との相違点は

墨子は、兼愛非攻を説いた。そして儒教の説く「仁」を、「父に対する愛」、「兄に対する愛」などと、区別のある別愛だとして非難した。また、儒教の説く、死んだ人を、生きた人よりも大切にせよというおしえにも反対した。
儒教では、自分のできる最大限のことを死者に対してやることが推奨されていた。そのため、貧乏人であっても、両親が死んだら、その口に高価な玉(ギョク)を入れて埋葬するため、身を売ってでも高価なヒスイを買うというようなことが一般的に行われていた。その結果、死者のために生きているものが苦しむといった状況が広まっていた。

死者を生者より大切にするという倒錯した秩序を墨子は糾弾したのであった。また、皇帝が死んだときに行われる、女官などの後追い自殺や、地位によってできる副葬品の差について、兼愛を主張する墨子は怒ったのではないかという意見も出された。

墨子は兼愛非攻を主張していたことなどから、一時中国に広まっていたにもかかわらず、皇帝や諸侯に重んぜられることはなかった。上述したように、中国人は、ちょっとした身分差でも、すぐに身分が下のものをこき使おうとする性質があるようなので、兼愛といったような平等を説く思想は疎んじられたのだろう。

しかし筆者が不思議に思ったのは、なぜ、兼愛、平等を説いていた墨家の思想が、最下層の民衆の間に爆発的に広がらなかったのか?ということである。

筆者なりに考え、次のような仮説を得た。

最下層の民衆の中でもわずかな身分の上下があり、「みんな一緒に最下層」という意識がなかったからではなかろうか。また、時の権力者や政治機構からかなり、弾圧されたのではなかろうか。あるいは、墨家のような思想があることを最下層の民衆は知らなかったのではなかろうか。

Q7中国における仏教と儒教

中国に仏教が入ってきたのは、後漢の時代。その後仏教は、道教と結びつくことによって中国内で発展していった。(仏典の翻訳や解釈に、道教の単語や思想が用いられることが多かった。)戦争がはげしかった時代(三国時代、五代十国時代など)には、多くの人々や王侯たちが救いを求めるために、仏教に帰依した。隋や唐の時代には、王室による寺院建築の保護を受け、最盛期を迎えた。しかし、唐末期になると、インドという異国の宗教であることや、経済的に反映していることからの妬みなどから、しだいに信仰されなくなっていった。

出家した人たちは、免税特権や懲役免除特権があったため、平時においても、戦時においても、僧が多いのは、国家財政にとって望ましいことではない。経済面だけでなく、社会面に関しても仏教徒は、儒教の唱える三綱五常(君臣・父子・夫婦の間の道徳と、仁・義・礼・智・信の五つの道義。)に反対していた。これらの理由から、仏教を排斥する皇帝もいた。(三武一宗の法難とよばれる弾圧があった。)

もともと、国を治めるためには、仏教よりも、儒教を国教としたほうが、身分差をはっきりさせることができて都合がよいと考えられる。そのため、民衆や王侯たちが心のよりどころを求めなくてもよいような平和な時代には、仏教よりも儒教のほうが重要視されて当然だと筆者は考える。

★おわりに

今回、日本では道徳規範の根底にある、自明なものと考えられている儒教について詳しく知ることができた。中国の道徳は、古代ギリシャの道徳が「自由、平等」を基調としていたのに対して「格差、身分差」を基調としていると筆者には思えた。しかし、実際に社会で生活していくうえでどちらがいいとは一概には断言できない。どちらの道徳を採用するにしても、それがどのような背景で生まれ、またその根幹をなすものは何であるかをしっかりと学ぶことは重要だと思った。

筆者としては、今の日本の、格差のある道徳というものが大きく間違っているとは思わない。敬語や目上の人を尊重するということも日本の文化のうちの良い一面だと思っている。
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