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限りなき知の探訪

50年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・65】『Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ』

2011-09-25 23:50:44 | 日記
現在、大阪市内に住んでいるが、夕方散歩の途中で、たまたまプール学院という私立高校の前を通りかかった。以前ここを通り過ぎたときに、ギリシャ語の文句を見かけたが、その時は詳しくは見なかった。しかしその文句が気にかかっていたので、今日は足を止めて読むことにした。
 Η  ΑΛΗΘΕΙΑ  ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ  ΥΜΑΣ

幸いなことに、私でも分かる単語が並んでいた。『真理を知れば自由になる』という意味と理解できた。しかし、出典に関しては分からなかったので、家に戻ってから調べた。同学院はクリスチャンの高校なので、聖書に関連しているらしい当たりをつけた。案に違わず新約聖書・ヨハネ伝(8-32)の文句であった。
(文語訳)『真理は汝らに自由を得さすべし。』
(口語訳)『真理はあなた達を自由にする。』
(KJ・英訳)The truth shall make you free.
(Vulgate・羅訳)Veritas liberabit vos.




話は変わるが、一年ほど前、朝鮮・韓国の科学技術の歴史を知りたくて、全相運著の『韓国科学技術史』(高麗書林)を読んだことがあった。しかし、分量的にも内容的に、物足りなくて、機会があればもう少し調べたいと考えていた。それで最近、朝鮮・韓国に関する科学技術の本を2冊見つけたので、読んでみた。
 『韓国科学史』全相運・著(日本評論社)
 『朝鮮の科学と技術』任正爀(イム・ジョンヒョク)(明石書店)

前回理解が足りなかった内容に関しては、この一年間に、朝鮮・韓国に関する本を幾つか読んだおかげで今回この本を読んで、彼らの思想的な欠陥が明白に分かった。それは:

 『李朝朝鮮では、科学技術に対する評価はずっと低かった。科学技術というのは、社会のエリート層である両班が携わるものではなく、一ランク下の中人が携わる卑しい仕事であった。ただ、たまに名君(世宗、英祖、正祖)が出現して民生に力を入れた時だけ、科学技術が進展する。しかし、それ以外の時は科学技術に対して関心も熱意もないので、科学技術に関する器物や業績はまともに保存・保護されていなかった。それ故、朝鮮の科学技術史に関する現存している資料は非常に少ない。それにもかかわらず、現在の朝鮮・韓国の科学技術史家は、資料が少ない理由を全て、秀吉の朝鮮出兵と日帝36年の支配のせいだと、罪を日本になすりつけている。』

果たして、彼らのこの結論は正しいのだろうか?私はそうではないと考える。江戸時代の日本では、職人はそれなりの生活ができていた。一方、朝鮮においては、職工の境遇といえば、奴婢であるので、牛や馬のように売買される対象であった。そんな彼らに技能者としての誇りや技術伝承に熱意を期待できるはずがない。またその一ランク上の中人の技術者にしても、官位は低く、たとえ立派な業績を挙げたとしても、歴史に名前が残るのは上官の両班達であるから技術伝承に責任を感じる訳はない。しかしその両班にしても、科学技術といえば、蔑視対象であったので、興味も沸かないし、出世街道から外れているので、まともに職務に勤しんだはずはない。

結局、こういった思想背景から朝鮮・韓国の科学技術は、従来全く顧みられることがなかった。その結果として、日本の侵略や支配とは無関係に時代とともに科学技術の遺物が散逸し、湮滅してしまったのであった。つまり、朝鮮・韓国において過去の科学技術に関する資料が少ないのは、両班たちの科学技術蔑視にあったという点から出発しない限り、本当の理由も分からないし、将来への展望も開けない。ヨハネ伝にいう、『真理を知れば自由になる』というのは、まさにこのようなことをいうのであろうと帰り道に考えた次第であった。

しかしよく考えてみれば、この言葉はひとごとではなく、現在の日本にも当てはまる。今回の福島原発の事故でも、東電による意図的ともいえる情報隠蔽で放射能汚染の実態が分からず、住民は疑心暗鬼に陥った。早い段階で発生したメルトダウンの状況が報道され、風向きで放射能が特定方向に多く流れたことが分かっていたなら、対応の仕方もことなっていたであろう。また、沖縄の普天間基地の移設問題にしても、鳩山元首相が県外移設を言い出したために沖縄県民が期待を抱くようになったが、アメリカ軍にはそのようなオプションは全く考えられない、ということがあらかじめ分かっていたなら、もっと違った対応が考えられたであろう。

朝鮮・韓国が問題の本質に迫ることを意図的に避けているのと同様、日本人もこれら2つの問題に対して同様の態度をとっている、と私には思える。結局、直面するこれら2つの問題の根本に横たわるのが、交付金問題である。つまり、膨大な交付金を投下することで、原発にまつわるマイナス面から地域住民の目をそらせることを強いた。また沖縄や各地の米軍基地にしても基地周辺の経済がそれによって潤っているので、声高に基地の県外移設を要求していても内心は基地がなくなると困ると思っている住民も多い、と聞く。要するに、日本では、原則論よりも目先の生活の方が大切だと考えている人の方が多いのがこれらの問題の根っこの部分なのだ。

この点、ドイツは明らかに日本と異なっている。ドイツも終戦後、米軍が長らく駐屯していて、基地経済が地元を潤していたのは日本と同じであったが、米軍基地の撤退を決めた。また原子力に関しても、福島原発事故から数ヶ月もたたない内に、原発の全面廃止を決議した。いづれも、ドイツ人は目先の利益よりも、もっと大切な守るべきものがあるということ良心的判断を下した。彼らのこの判断ことが、まさしくこの言葉、
 Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ
が意味するところのように私には思える。
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