(前回)
〇「漢文が自在に読めるようになったこと」(『教養を極める読書術』 P.30)
前回、中国古典や故事成句がもてはやされる理由の一つとして漢字の魅力・魔力を挙げた。子供のころ、(多分)誰でも例外なく漢字テストにいじめられた思い出があるはずだ。漢字とは自分の知能を越えたものだと考え、生涯に渡り、いわば漢字コンプレックスが心に刻印されている。それで、漢字だらけの文、つまり漢文、にはありがたいことが書かれているはずだという強い思い込みがある。
しかし、この本で紹介したように私は耳から学ぶことで、漢文を自在に読みこなせるようになった。その結果、1万ページもある資治通鑑を初め、数多くの漢文を読んで漢字コンプレックスを完全にふっきることができた。つまり、漢文に対して非常に冷静な眼でみることができるようになったわけだ。その観点からいうと漢文というのは、いわば「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のごとく、見かけはすごい文であるように見えても実は構造上は全くプリミティブな表現しかできない、低品質言語であることがわかった。低品質言語とは、たとえば高校生の書く英文のようなもので、単純な短い文章を AND や BUT のような接続詞でずらずらと連結しているようなものだ。
しかし、そのような低品質言語の漢文が立派な文章に見えるかといえば、それは、漢文をそのまま読んでいるのではなく、漢字書き下し文を読んでいるからだ。つまり、漢文そのままの文ではなく、ひらがな交りの日本語では日本語のリッチな文法のおかげで、細かいニュアンスまでを伝えることができる。元の漢文が読めない日本人はこの漢文書き下し文を読んで、内容といい、ニュアンスといい、非常に高度に表現されていることに感嘆するということだ。
言語では分かりにくいので、建築に喩えて考えてみよう。
ギリシャ時代にはセメントが無かったので、切り石を積みあげて作った。イメージ的には、レンガを積み上げて作ったフランドル地方の教会のような建築物は構造美に乏しい。それに比して、2000年も前に建てられたローマのパンテオンはローマンコンクリートを使っているので、自由な造形を可能であった。この2つを漢文に喩えるとレンガの教会は漢文であり、パンテオンは日本語で書き下した文であるとも言える。
西洋では、古典ギリシャ語のもつ魔力に魅せられた多くの文化人がいる。たとえば、トロイの遺跡を発見したシュリーマンは古典ギリシャ語に魅せられホメロスをすっかり暗唱した。なぜ、ギリシャ語がそのように魔力を持つかといえば、パンテオンと同様、文章の構造の自由度が高く、細かいニュアンスまで表現できるからだ。結局、インドヨーロッパ語族の屈折語としての長所を存分に活かすことで、初めて微妙なニュアンスまで正確に伝えることができるのだ。それとほぼ同じ程度の高品質言語が日本語であるのだ。
そもそも、言語というのは、耳から聴いて理解できるものでなければならなかったはずだが、中国語(漢文)の場合、残念ながらそうはならなかった。中国語の単音節では表現に限度があるので、四声という方法で、なんとか音韻体系に依存して限度を広げようとしたが、結局行き詰ってしまった。それで仕方なく、言語が本来備えるべき「音韻だけで理解できる」という縛りを破って、非常手段として、聴覚と視覚とのペア―によってのみ理解できる言語体系を作った。
その視覚的補助手段として持ち出した漢字は、当初は、象形文字(ideograph)として始まったはずだが、これも漢字が数百を越えることから限界がでてきたので、第二の非常手段として、形声文字(phono-semantic compound characters)を開発した。これにより、表意文字としての漢字の制限が事実上なくなってしまった。つまり、漢字は一般的に意符と音符から成り立つ。意符(semantic component)は通常、部首(radical)と呼ばれ、意味を表わす。音符は発音を表し、通常は意味を持たず、発音記号のような機能をもつ。
このようないわば苦し紛れの末に捻りだした逆転技が見事に決まった。元来、意味と発音の間に全く脈略のない字を新たに作ったので、それらの漢字(たいていは形声文字)は丸暗記するしかない。それも、100文字程度では収まらず、数千文字にもなる。漢代では官僚になるには最低でも 9000文字を書けなければならなかった。(『漢書』《芸文志》「太史試学童、能諷書九千字以上、乃得為史」)これらの文字は、部首で意味の大体の方向性は分かるものの、細かい意味は丸暗記となる。その時、発音(音符)はほとんど助けにならない。この結果、あるレベル以上の文脈を話すことができるには、これらの難しい文字を覚えないといけないということになる。本来なら、そのような面倒なことがないように、耳からだけでも意味が分かるように言語仕様を修正すべきであったが、中国人はそれをしなかった(あるいは、できなかった)。
現代風にいうと、プログラミングが出来て、 IT機器を自由に使いこなせないと官僚になれないというようなものだ。現在でもバリバリにプログラミングを組んで仕事をこなすことのできる人は人口の1割か、せいぜい2割程度であろう。それが出来なければ全くお呼びではなかったのだ。このような乗り越えるのが非常に困難なリテラシーデバイドを意図的に作り、維持してきたのが中国語であった。この点から考えると日本人の方がはるかに漢字を自分たちの言語に近づけていると言える。それは、訓読みと豊富な助詞や助動詞のおかげといえる。
結局、漢字書き下し文ではなく、漢文をそのまま読めるようになって、私は初めてそこまで漢文が醸し出していた「荘厳+幽玄」の幻想的なイメージではなく粗末な低品質言語のむき出し構造がよくわかるようになった。
(続く。。。)
〇「漢文が自在に読めるようになったこと」(『教養を極める読書術』 P.30)
前回、中国古典や故事成句がもてはやされる理由の一つとして漢字の魅力・魔力を挙げた。子供のころ、(多分)誰でも例外なく漢字テストにいじめられた思い出があるはずだ。漢字とは自分の知能を越えたものだと考え、生涯に渡り、いわば漢字コンプレックスが心に刻印されている。それで、漢字だらけの文、つまり漢文、にはありがたいことが書かれているはずだという強い思い込みがある。
しかし、この本で紹介したように私は耳から学ぶことで、漢文を自在に読みこなせるようになった。その結果、1万ページもある資治通鑑を初め、数多くの漢文を読んで漢字コンプレックスを完全にふっきることができた。つまり、漢文に対して非常に冷静な眼でみることができるようになったわけだ。その観点からいうと漢文というのは、いわば「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のごとく、見かけはすごい文であるように見えても実は構造上は全くプリミティブな表現しかできない、低品質言語であることがわかった。低品質言語とは、たとえば高校生の書く英文のようなもので、単純な短い文章を AND や BUT のような接続詞でずらずらと連結しているようなものだ。
しかし、そのような低品質言語の漢文が立派な文章に見えるかといえば、それは、漢文をそのまま読んでいるのではなく、漢字書き下し文を読んでいるからだ。つまり、漢文そのままの文ではなく、ひらがな交りの日本語では日本語のリッチな文法のおかげで、細かいニュアンスまでを伝えることができる。元の漢文が読めない日本人はこの漢文書き下し文を読んで、内容といい、ニュアンスといい、非常に高度に表現されていることに感嘆するということだ。
言語では分かりにくいので、建築に喩えて考えてみよう。
ギリシャ時代にはセメントが無かったので、切り石を積みあげて作った。イメージ的には、レンガを積み上げて作ったフランドル地方の教会のような建築物は構造美に乏しい。それに比して、2000年も前に建てられたローマのパンテオンはローマンコンクリートを使っているので、自由な造形を可能であった。この2つを漢文に喩えるとレンガの教会は漢文であり、パンテオンは日本語で書き下した文であるとも言える。
西洋では、古典ギリシャ語のもつ魔力に魅せられた多くの文化人がいる。たとえば、トロイの遺跡を発見したシュリーマンは古典ギリシャ語に魅せられホメロスをすっかり暗唱した。なぜ、ギリシャ語がそのように魔力を持つかといえば、パンテオンと同様、文章の構造の自由度が高く、細かいニュアンスまで表現できるからだ。結局、インドヨーロッパ語族の屈折語としての長所を存分に活かすことで、初めて微妙なニュアンスまで正確に伝えることができるのだ。それとほぼ同じ程度の高品質言語が日本語であるのだ。
そもそも、言語というのは、耳から聴いて理解できるものでなければならなかったはずだが、中国語(漢文)の場合、残念ながらそうはならなかった。中国語の単音節では表現に限度があるので、四声という方法で、なんとか音韻体系に依存して限度を広げようとしたが、結局行き詰ってしまった。それで仕方なく、言語が本来備えるべき「音韻だけで理解できる」という縛りを破って、非常手段として、聴覚と視覚とのペア―によってのみ理解できる言語体系を作った。
その視覚的補助手段として持ち出した漢字は、当初は、象形文字(ideograph)として始まったはずだが、これも漢字が数百を越えることから限界がでてきたので、第二の非常手段として、形声文字(phono-semantic compound characters)を開発した。これにより、表意文字としての漢字の制限が事実上なくなってしまった。つまり、漢字は一般的に意符と音符から成り立つ。意符(semantic component)は通常、部首(radical)と呼ばれ、意味を表わす。音符は発音を表し、通常は意味を持たず、発音記号のような機能をもつ。
このようないわば苦し紛れの末に捻りだした逆転技が見事に決まった。元来、意味と発音の間に全く脈略のない字を新たに作ったので、それらの漢字(たいていは形声文字)は丸暗記するしかない。それも、100文字程度では収まらず、数千文字にもなる。漢代では官僚になるには最低でも 9000文字を書けなければならなかった。(『漢書』《芸文志》「太史試学童、能諷書九千字以上、乃得為史」)これらの文字は、部首で意味の大体の方向性は分かるものの、細かい意味は丸暗記となる。その時、発音(音符)はほとんど助けにならない。この結果、あるレベル以上の文脈を話すことができるには、これらの難しい文字を覚えないといけないということになる。本来なら、そのような面倒なことがないように、耳からだけでも意味が分かるように言語仕様を修正すべきであったが、中国人はそれをしなかった(あるいは、できなかった)。
現代風にいうと、プログラミングが出来て、 IT機器を自由に使いこなせないと官僚になれないというようなものだ。現在でもバリバリにプログラミングを組んで仕事をこなすことのできる人は人口の1割か、せいぜい2割程度であろう。それが出来なければ全くお呼びではなかったのだ。このような乗り越えるのが非常に困難なリテラシーデバイドを意図的に作り、維持してきたのが中国語であった。この点から考えると日本人の方がはるかに漢字を自分たちの言語に近づけていると言える。それは、訓読みと豊富な助詞や助動詞のおかげといえる。
結局、漢字書き下し文ではなく、漢文をそのまま読めるようになって、私は初めてそこまで漢文が醸し出していた「荘厳+幽玄」の幻想的なイメージではなく粗末な低品質言語のむき出し構造がよくわかるようになった。
(続く。。。)