獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その67)

2024-09-13 01:54:13 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
■第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第7章 政界

(つづきです)

しかし、湛山はただ通産大臣の椅子に座っていただけではなかった。
「日本と中国の経済関係を緊密にしなければならないのは、これからの日本の方針として避けることは出来ないはずだ」
湛山は、日中の経済が妨げられているのは世界の東西冷戦にあると見ていた。
「とにかく、アメリカなどとの協調を破らない範囲で、経済交流、文化交流を回復することに努めようと思う。貿易協定などは結べるのではないかな」
湛山は、経済・文化交流の拡大からやがては国交正常化の道を歩もうと考えていた。
だが、アメリカはダレス国務長官を中心にした冷戦外交を展開中で、中国と日本の貿易拡大にもアメリカからの圧力があった。政府内部でも、アメリカの意向を尊重しようという空気があって、湛山の苦労は大変なものであった。
戦後の日中貿易は民間貿易協定に基づいて進められ、この年(昭和30年)1月には第三次日中民間貿易協定締結交渉のために中国貿易使節団が来日した。日本側は「日中貿易促進議員連盟」といって超党派の議員の団体が交渉窓口になった。ところが中国側が、この協定への日本政府の保証を強く求めたことから交渉が難航した。
湛山は通産大臣としてよりも、連盟の中心議員の一人として鳩山首相を根気強く説得した。その結果、4月になって何とか鳩山から「協定に対して支持と協力を与える」という発言を引き出した。
「首相、その言葉を覚書にしたためて中国側に渡しますよ」
「覚書だということを明確にしてくれるなら、渡してもいいよ」
こんなやり取りがあって、やっとこれが日中民間貿易協定として成立したのであった。
この協定を境にして日中貿易は大きく伸びた。30年度には貿易総額で1億ドルを超えて、輸出は29年度に比べて1.5倍、輸入は2倍に増加した。
「大阪と東京の二大都市で中国見本市が開かれた見返りに、来年は上海と北京で日本の商品展覧会が開催されることになったよ」
湛山は、そうした事が決定する度に湛一に電話で嬉しそうに報告した。
「お父さん、ヒラの大臣でもやる時にはやるんですね」
「ああ、給料泥棒なんて言われたくないからな」
二人は電話口で笑い合った。
湛山はさらに、過当競争を防止して、日本の業界を代表して中国との交渉に当たるための「日中輸出入組合」を設立しようと考えた。そしてこの年の11月には通産大臣の、ということは湛山自身の認可を得て、その組織が発足したのである。
同じ頃、鳩山首相は日ソ国交回復を目指していた。党内には反対論もあったが、湛山は積極的に鳩山を支持した。

(つづく)


解説

しかし、湛山はただ通産大臣の椅子に座っていただけではなかった。

湛山は、日中貿易の拡大のため努力を惜しまなかったのです。


獅子風蓮