獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その63)

2024-09-09 01:17:28 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
■第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第7章 政界

(つづきです)

昭和27年(1952)8月28日、吉田首相は突然の抜き打ち解散に出た。
吉田は平河町の自由党本部に選挙対策本部を設けた。これに対して、鳩山派はステーションホテルに選挙事務所を持った。分裂選挙になった。
こうした状況を受けて9月12日、日比谷公会堂で鳩山派の演説会が開かれた。病いの癒えた鳩山、石橋、三木、大野らが次々に登壇して、吉田批判、内閣批判を打った。
「我々は財政経済政策では石橋氏の積極政策に全幅の信頼を置きます」
鳩山の内閣批判は、湛山の経済手腕に及び、最後にこう結んだ。
「私が激職に耐え、政治が担当できると思う人は是非、拍手で応えてください」
脳溢血から復帰した鳩山のこの言葉に、会場は拍手で満ちた。
鳩山派の選挙資金は財界に顔の利く湛山が中心になって集めた。石田も湛山に言われるままに走り回って資金集めをした。事実上の選挙対策委員長の立場にいた河野は、その金を使ったが、どちらかといえば河野の息のかかった候補に多めに選挙資金を出した。そんなことで湛山、石田らと河野との間に微妙な対立が生じた。だが、それどころではないことが起きた。
10月1日の投票日の前日、突然に湛山は河野一郎とともに自由党を除名された。「反党的な言動」をその理由にした吉田派の陰謀工作であった。
「二人を除名することで、他の党員たちへの見せしめにしようという腹だ。汚いやり方じゃあないか」
「自分が総裁の椅子にしがみついて約束を反古にしたままで、鳩山さんを除名できないからな。石橋、河野を一罰百戒にしたわけさ」
鳩山派は、憤りを顕わにした。
だが、選挙結果は、大量当選という吉田派の思惑が大きく外れ、自由党240(解除組79)、改進党85(解除組32)、右派社会党57(解除組12)、左派社会党54(解除組3)、労農党4、協同党2、諸派5(解除組2)、無所属19(解除組11)などであった。共産党はゼロ。自由党は過半数を占めたものの、解散前に比べて45議席の減少である。与野党の差は僅かに6議席でしかなかった。自由党の中から鳩山派が改進党や社会党と連携したら吉田は嫌でも首班指名に失敗する事態である。
湛山も静岡二区から立候補して当選し、再び議席を得た。
「こうなったら連立しかないだろうな。その場合、吉田では連立は出来ない。鳩山首班で連立。これしかないよ」
湛山は、河野と相談して方針を固めた。さらに湛山を中心にして鳩山派の声明を起草した。
「自由党民主化四原則」である。
一、他党との協力による政局安定
一、独裁専制を排し本来の自由原則に則り、人事を刷新する
一、秘密独善の外交を一掃し自由諸国と協調、平和に貢献する
一、石橋、河野氏の除名は党一本化を妨げている
この声明の後も、自由党内では両派の妥協工作が行なわれた。が、鳩山が吉田との会談に乗ってしまった。会談後の議員総会で鳩山は、
「私の声明に対して吉田君は、その意見を了承した。そこで明日の首班指名には喜んで吉田君に投票する」
と挨拶してしまった。これには鳩山派の面々も口をあんぐりしてしまった。
「やられた!」
石田たちは早々に集合した。その結果、「民主化四原則」の実現を申し合わせて、その場で「自由党民主化同盟」(民同)を結成した。
それで第四次吉田内閣は誕生し、結果として、鳩山との約束はまた反古にされた。
吉田は鳩山が求めていた人物の入閣も拒否した。それどころか政務次官、常任委員長のポストさえも鳩山派には渡さなかった。
政界は闇も同然だ、と湛山は思った。常識とか公正とか、正義とか正論が不在の場所ではないか、とも思った。心の中の和彦にそう語りかけた。和彦が、笑顔で頷いている。
「父さん、ゆったり構えて。必ず向こうが失敗するよ。ほら、富士川の遭難と一緒」
そのチャンスがやってきたのは本会議であった。確かにそれは吉田派の失策といえた。
中小企業が苦しんでいることへの対策を質問した右派社会党議員に答えた通産大臣の池田勇人が、ドッジラインという転換期を引用して、
「このような時期、中小企業倒産や5人や10人の自殺者が出るのも止むを得ない」
と失言し、これが野党による不信任案提出にまで発展した。三木や石田たち民同派(自由党反吉田派)の議員たちは「不信任案を成立させるために、本会議を欠席する」と申し合わせた。
「本来は野党に同調して不信任案に賛成したいが、そうもいかない。だから欠席という手段で吉田内閣に対抗する。吉田が自ら播いた種だから仕方あるまい」
自由党のごたごたが、結局は通産相解任になった。民同派の25人が欠席したために、不信任案は賛成208、反対201で7票差の成立となったのである。
このごたごたが続くと補正予算までおかしくなることを悟った吉田は、周囲の取りなしもあって慌てて民同派との会談をセットし、この席上で湛山と河野の除名を取り消した。
いつもの羽織袴姿で会談に臨んだ三木武吉は、予算問題を絡めながら、まず湛山と河野の除名取り消しを切り出した。そこで吉田との応酬があって、最後には吉田が折れたのだった。
「過去のことは水に流そう」
とさらりと言い放った吉田であったが、湛山はその後の自由党議員総会で、
「いまだに理解できない理由で除名となったが、今後は党の一本化に努力したい」
と挨拶した。ところが、翌28年(1953)の1月、関西財界人との懇談会に出席した湛山が、今度は記者団と飲んでいて失言した。
「吉田首相は民主政治のガンであり、今国会中に内閣不信任案を成立させるか、予算案を潰すかで、必ずこの内閣を打倒する」
普通ならオフレコ発言のはずが、紙面に出てしまった。石田は苦情を述べた。すると、
「確かに言い過ぎた。飲みながらの話だったのでな、つい心を許してしまったよ。まさか、あのまま記事になるとはな」
湛山は平然として答えた。石田は処分を心配したが、自由党はそれどころではなかったのである。
第15回国会で予算審議中の2月28日、社会党の西村栄一の質問に対する答弁で吉田首相が、鼻先で嘲笑うような態度を取った。アメリカやイギリスの高官や首相の発言を引用する吉田に、西村は腹を立てた。
「私はあなたの意見を聞きたいのであって、外国の人の意見を聞いているのではない。国際情勢についてあなたが日本国総理としてどれほどの見解を抱いているのか、それをお聞きしたいんだが」
吉田は、国際情勢などは、おまえよりも自分のほうがずっと上だ、キャリアも中身もおまえとは違うぞ、という意識が先に立っていたから、反発した。
「無礼なことを言うな」
「何が無礼なことか」
西村が応酬すると、吉田はついとんでもない言葉を口走ってしまった。
「バカヤロー」

(つづく)


解説

吉田はついとんでもない言葉を口走ってしまった。
「バカヤロー」

でました、ついに「バカヤロー解散」ですね。

 

 

獅子風蓮