獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その61)

2024-09-07 01:32:38 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
■第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第7章 政界

(つづきです)

当然、GHQにもこうした党内、政府内の話題は入っていく。ことごとくGHQに盾突いた石橋がもっと影響力のある地位について、これ以上反抗されてはたまらない。そういう雰囲気がGHQ内部にも生まれてきた。
突然、湛山に「公職追放」の覚書がきたのは、5月8日のことであった。
「何故だ? なぜ私が追放なのだ?」
湛山には理由が分からなかった。選挙前に「湛山追放」の噂が流された時に、湛山は吉田から内閣総理大臣の名前で「衆議院議員立候補者石橋湛山、右の者の公職資格は言論報道機関関係者たる事実を除いては、全部審査済みであることを確認する」という証明書を受けている。
「私の戦時中の何が問題だというのか」
湛山の両目からは血涙が出るのではないかと思うほどの憤りがあった。
湛山は追放覚書に対する抗議書を起草した。吉田とは9日、14日、17日と三度にわたって会談したが、吉田は湛山に公職追放を了解するよう求めたのであった。
「吉田さん、あなたの内閣の大蔵大臣が謂れのない公職追放にされようとしているんですよ。それでいいんですか」
「石橋さん、GHQの指令じゃあ仕方ないじゃあないですか。まあ、狂犬に噛まれたと思ってしばらく辛抱してください」
湛山はこの瞬間、絶句した。これが、自分の仲間なのか。これが。しかし、怒りは飲み込んで黙って部屋を出た。吉田はすべてを知っていて自分には黙っていたのだ。会談で湛山にはそれが手に取るように分かった。
埋み火のような怒りが湛山の心の底に残った。
だが、吉田は湛山の追放を画策したわけではなかった。GHQから湛山追放の情報が入った時には、それなりにGHQに抵抗もしたが、駄目だと分かった時に、吉田は黙り込むことにしたのだった。事前に、不快感を湛山に与えなくてもいい。それが吉田の本心であった。が、そんなことは湛山は知らない。
公職追放の該当者は七項目の基準に従って決められた。A項は「戦争犯罪人」、B項は「職業陸海軍職員」、C項は「極端な国家主義的団体、暴力主義的団体または秘密愛国団体の有力分子」というようにあり、G項が「その他の軍国主義者および極端な国家主義者」であった。
湛山はこのG項に該当していると指摘されたのであった。日本人からなる中央公職適否審査委員会のメンバーは「『東洋経済新報』は最後まで自由主義の立場を貫いた、日本では稀有な雑誌であり、この『東洋経済新報』まで追放の枠に入れるとなると、日本の新聞・雑誌はすべて追放の対象にしなければならない」として、GHQに抵抗したが、湛山は追放されることになった。
追放直前に湛山は、大蔵省担当の記者たちに辞任の挨拶をして、
「諸君に読書を奨めたい。毎日1ページでもいい。それも原書で読めば1年に365ページの原書を仕上げることになるんだ。例えば、どうだろうか、ケインズなんかを読んでみたら」
記者たちは、湛山の言葉を聞きながら思った。もうこの人も政治家として世に出ることはないだろう。ましてや大野伴睦の言うような「石橋政権」なんて夢のまた夢。
湛山は蔵相を辞めたが、その一方で「人事を尽くすべきだ。とにかく、汚名を着せられたままでいたくはない」として、GHQへの抗議書を書き、GHQの幹部に面会した。最後にはマッカーサー元帥にも書簡を提出するほどであった。
しかし、湛山の追放決定はどうにもならなかった。
「父さん。今まで忙しすぎたんだよ。汚名はいつか晴れる時がくる。それまで少し休もうよ。きっと、それが父さんの運命だよ。馬車馬みたいに働きすぎたんだよ。母さんだってもしかしたら追放でほっとしているかもしれないよ」
久しぶりに、湛山の心の中で声がした。
「和彦かい? お父さんもそう思うことにした。じたばたしても始まらない」
「そうだよ。ほら、昔読んだ本に書いてあったじゃない? ええと何だっけ、中国のプラグマティズム……」
「ああ、陽明学だな」
「そう、その王陽明の言葉。……冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え。激さず、騒がず、競わず、従わず。以て大事を成すべし」
湛山の耳には和彦の声で、王陽明の言葉が響いていた。
この日から4年間の追放生活が始まる。湛山、63歳であった。

(つづく)


解説

ことごとくGHQに盾突いた石橋がもっと影響力のある地位について、これ以上反抗されてはたまらない。そういう雰囲気がGHQ内部にも生まれてきた。
突然、湛山に「公職追放」の覚書がきたのは、5月8日のことであった。

こうして湛山は、濡れ衣を着せられ、公職から追放されたのです。おかしな話です。

 

獅子風蓮