★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

真夏の夜の悪夢

2010-08-18 23:46:14 | 思想
3年ぐらいまえから、近代文学における宗教的なものの役割について考えている。私は作品論者だから、こういう史的構造にかんする研究は苦手だが、結構面白いテーマである。

グローバリズムがもたらしたものはいろいろあるんだろうが、本格的な宗教戦争の雰囲気なのだと、私は思う。われわれはこれから、日本のあちらこちらで、キリスト教的な正統的なものと異教的なものの対立とその解消、というか「消滅」を見ることになるのではないか。日本は何故かは分からないが様々な宗教が弾圧されたにもかかわらず、それが変化しつつ保存されてしまった国だったように思われる。ようするに芥川の「神々の微笑」状態である。しかし、これからそういうことが可能なのかはわからない。

私がそんなことを考え始めたのは、オウム事件のころだが、それ以降の、9・11もホリエモン逮捕も、基本的におんなじような出来事だったように思うのだ。いずれも異教的なものへの弾圧である。ただ、それが結果的に弾圧にも保存にもならずに、かえって異教的なものの繁茂に流れるのである。正統的なものとの対立が鮮明になるどころか、我々は異教的な欲望にながれつつある。それは「神々の微笑」ではなく、神々の単なる戦争である。

あいかわらず、制度への反抗を自意識の劇として愉しんでいる連中は、自分が宗教的であることがわかっておらぬ。「動物化するポストモダン」の作者が、どう考えていたのかはしらないが、我々は簡単には動物にならない。そのかわりに宗教化は不可避である。

……というより、そういう異教的な世界が煮えたぎってしまう世界は、たぶん不幸だが、――我々が真に変化なるものを望むのなら不可欠だ、と私は思うだけだ。グローバル化はどうみてもサスペンスの始まりであり真の地獄の始まりである。

「わたくしのすきな顔」考

2010-08-17 23:27:03 | 大学
そろそろ教員採用試験の一次試験などの結果がでて、結果を教えてくれる学生諸君が現れる季節である。

当たり前であるが、結果によっては、この暑い中、とってもよい顔になって報告してくれるひともいる。おそらく真夏の昼の夢であろうが、いつもより×人に見えたりする。そのひとの気分で、人間は顔がよくなったり悪くなったりするのだろう。美人を職業とする人のつくられた写真や動画ばかり見ていると、我々はそういうことをつい忘れるのではなかろうか。

しかし、成功した人間が必ずしもよい顔をしているとは限らない。努力して結果がついてくることが常態化しプライドを保つだけのために人を馬鹿にすることも含めて戦略的に振る舞うようになると、その人が何か成功を収めても悪い顔であることが多い気がする。大学をふくめた学校の教員などには、こういう顔が多く、やりきれない。そんな「悪い顔」と「よい顔」の区別が出来なくなってしまっているのは、複製技術文化の発展のせいなのか、何なのか。――むろん、かく言うのは社交辞令である。

とはいえ、私は、どちらかといえば、後悔して落ち込んでいる人の顔の方が好きなような気もする。

要するに、素朴な顔はよいが、職分精神に溢れた純粋な顔はあんまりよくないということではなかろうか。もちろん、我々近代人はどちらの顔も持っている訳で、それを認めるだけだったらまあいいのだが、これを二者択一のように考え、どちらかの仮面をかぶろうとする人が殆どなのである。――いや、そうでもないかもしれない。金儲けを自然の欲求と捉えている人が結構いるからな……、そういう人は子どもっぽい素朴な仮面をかぶりつつ純粋なかんじを保っている。対して、一種のカルヴィニズムといっていいのか、大人っぽい禁欲的な職分精神というか奉仕精神の純粋な仮面をかぶりつつ素朴な顔をしているタイプもいる。いずれにせよ、昔ながらの資本主義的人間のありさまであるな……。

文学者の私としては、芥川ではないが、上のような日常的な仮面合戦ではなく、「刹那の感動」に賭けるしかないのだ。

仮設のトイレに駆け込み訴え

2010-08-16 19:00:27 | 文学
宿舎の入り口あたりにカプセルホテル出現……

違います。仮設トイレです。

明日の朝から二日間トイレ使用禁止になって、ここに駆け込まなければいけません。

駆け込みといえば、これであるな……

申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇です。はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居所を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二月おそく生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。

[…]

はい、旦那さま。私は嘘ばかり申し上げました。私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがい無い。あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。


以上は、太宰治の大傑作「駆込み訴え」の冒頭と末尾である。よく考えると、ユダとしては、イエスへの愛憎に関して[…]の部分で出すものを出したので、すっきりしたという感じであろうな。この小説は所謂トイレ小説だったのだ。

最近増えている自意識過剰の連中は、自分の存在を無視されるのが怖くて「~じゃないですか~~」とかすぐ同意を求めてくるが、上のユダみたいにちゃんと一人相撲を演じ尽くせよ。同意させ自分の発言の尻ぬぐいさせてトイレのあとの小学生みたいににやにやするより、自分で尻を拭きつつ人を愉しませることをさっさと覚えるべし。ひどいのになると、人に尻ぬぐいをさせてるわりには「自分は必要があればいつも拭きに行きます」と言っているやつがいるのだ。「いま、会いに行きます」とかいう話があったな。「いま、拭きに行きます」という題名に変えたらよかった。

吐き気とヴァレリー

2010-08-15 23:17:47 | 思想
朝から吐き気がしてたので、ちょっと3時間ぐらい横になってたらなおった。

ヴァレリーの「ゲエテ頌」読んでて思ったのは、最初にある「大統領閣下 紳士淑女諸君」という呼びかけが、本文のどこら辺までおよんでいるかということだ。ヴァレリーって案外、本質的にロビイストなのかもしれない。

研究らしきものをはじめて20年近くになるが、何もかもどんどんわけが分からなくなっていく。

私に関係ある県、すべて終了のお知らせ

2010-08-14 19:31:46 | ニュース
松本工(長野) 1 - 14 九州学院(熊本)

中京大中京(愛知) 6 - 21 早稲田実業(西東京)

日川(山梨)2 - 7 西日本短大付(福岡)

水城(茨城) 5 - 10 東海大相模(神奈川)

英明(香川) 4 - 8 八戸工大一(青森)



続報です。はい、全部負けました。さっき、ワープロ打ちながら、中京大中京が一挙に12点とられて、応援団涙目のシーンを見てしまいました。人生いろいろです。もっとひどいことがあるでしょう。

ドッジボールで変な汗でました

2010-08-13 23:05:08 | 大学
今日は学生とのスポーツ大会で、ドッジボールとかしました。変な汗が出ました。

ウィキペディアをみるとこう書いてあった。

「子供の顔くらいの大きさのボール(多くはバレーボールなど)を使い、敵にボールをぶつけるスポーツまたはゲーム。」

私は疲れていたので、「子どもの顔を使い、敵にぶつけるスポーツ」と略してしまいました。

楕円の代わりに葉っぱが見える

2010-08-12 18:34:42 | 文学
ティコのウラニエンボルクの天文臺は、ヴィヨンのマンの監獄であり、前者が星のきらめく大空のみえる快適な部屋の中で、後者が日の光りも射さない地下牢の壁にとりかこまれて、めいめいの思ひに耽つてゐたとき、──おそらく、打開の方策も盡きはててしまつた自分の前途に絶望し、まつたく意氣沮喪してゐたとき、突然、楕圓發見の榮光が、二人をつつんだのである。ひとりは晴れわたつた空に、ひとりは温氣を含んだ壁に、──すなはち、かれらの前に立ちふさがり、絶えずじりじりとかれらを壓迫しづづけてゐるもののなかに、不意に二つの焦點のある、かれらの魂の形をみいだしたのだ。

花田清輝「楕圓幻想」のよく知られた劇的な一節。
かっこよすぎるティコ・ブラーエとフランソワ・ヴィヨン。

私がティコ的なのか、ヴィヨン的なのかはわからないが、とりあえず、私に見えるのは、執念のように枯れない植物だけ……

Utadaさんが下界に降りる

2010-08-11 21:26:56 | 音楽
昨日、「ある職業に向いていようといまいと、もうあきらめて死ぬまで馬車馬のように人のために尽くす他はあるまい。」と言ってしまったのだが、そんなことを思えるなら誰も苦労はせんわぼけっ!と思われるだろうが、私もそう思う。

私が言っているのは Sollen の話であって、乱世に神が必要なのは、神がみずからの破廉恥さを脇に置き、とつぜんいい子ぶって理不尽な命令をしてくるからであろう。そうじゃないと人間界は収まりがつかないのだろう。神がほんとうの理不尽さを発揮することもあるんですけどね……。

Utadaの「Kremlin Dusk」っていい曲だね。よく聴いたら、ポーの大鴉が歌われているじゃないか。このインテリめっ。彼女は歌手活動を暫しやめて人間活動に専念するそうであるが、ツァラトストラみたく下界におりるつもりであろう。神が死んだ世界を人々に説くつもりである。いままでの曲も充分下界じみていたような気がするのであるが……

どうせわれわれはままならぬ

2010-08-10 23:50:18 | 大学
昨日、学生は様々な査定に疲れていてかわいそうとか書いてしまったのだが、おそらく夏ばてや原稿やらで弱っていたためであろう。というのは、私は教育学部の教員の中でも、学生の能力を査定しようとする執念に於いては、おそらく上から数えた方がはやい人間であるからだ。

なにしろ、他の授業では「秀」しかとったことのないような学生(うちの学部はそもそも評定が甘すぎるのだ……)を演習で「あ、こりゃ本質的にはあかん」と判断し、「可」をつけるようなのがわたくしである。私の尊敬するある教員などは、一発のテストで「不可」をつけたりするが、非常にやさしい。「また来年もがんばってね」と言ってるんだからな。私の場合はもっとひどい。「あなたの能力は現時点でこんな感じです。」と言っているのであるから。

国語研究室の学生も、もうかなりの数みてきたが、そのなかの教職志望の学生で「ああ、この学生は教員に向いてるなあ、ぜひがんばってほしいなあ」と思った学生は一人もいない。「頼むから教員になるのはやめてくれ」と思った学生が殆どである。現場に出ればなんとかなるよ現時点ではだめでも、という意見がよくあるが、あんまりそうは思わない。たぶん、そう言う人間がだいたい「なんとかな」っていないからである。そりゃ本当は何とかなっているのであろう。人間が地球を汚しても地球が文句を言わないのと同じように。当然わたくしの授業も査定もうまくはいっていない。

――私の理想はここには書けないくらい高いので、こんな感じになってしまうのであるが、かくいう私自身も、教員にも研究者にも向いてないと思うのだ。ただ、学生諸君と私が少し違うのは、私が神か何かから与えられた使命を帯びていると思いこんでいるいうことだけであろう。

使命を帯びていない学生諸君はどうすればよろしいのか?

根本的に、仕事というのは、てめえのためにやるものではなく、人のためにやるものである。自分のためにやっているつもりでも、結果的には人のためにしかなっていないような気がする。だから、ある職業に向いていようといまいと、もうあきらめて死ぬまで馬車馬のように人のために尽くす他はあるまい。

毎年学生を見ていて思うのだが、自分がよく評価されたいために、今やるべきことに優先順序をつけたがる学生は、きまって評価されない。安心して結構、学生が必死にがんばろうとも、私が心底学生を褒めることはありえない。私にそんな権利はないからである。がんばらなかった学生ももちろん褒めない。かっこをつけるのをやめること、これが一番難しく必要なことである。われわれは自分で思うほど器用に世の中渡っていけるほど能力が高くないのだから。どうせわれわれはままならぬ。

私の言っていることが矛盾しているように思うそこの方、あなた教員には向いていないであろう。教員に向いていない私が言っているのだから確かである。

可能性

2010-08-09 20:53:53 | 大学
今日はオープンキャンパスにかり出されて、高校生の相手をする国語研究室の諸君を見守る。私の大学生の頃より、学生諸君はプレゼンテーションが上手である。自分はへたくそと思って悩んでる人でも今の私より上手い。附属学校の教育実習担当の先生よ、しゃべり方や体の動き方であまり彼らをいじめるな。少なくとも私より上手いんだから――。そもそもまだ大学生なのに、教壇に立って飄々としている奴の方が、何か感覚的におかしなものがあるのは明らかではないか。

今の教育現場に問題があるとしても、少なくとも教育実習生にその顕れを見出してはならない。彼らは学校による様々な査定に根本的に疲れている。人生に少しでも自由が存在することを感じてもらわないと、かわいそうである。しかし、学生に様々な可能性があるとは思わない。可能性がすぐ消滅することにかけては、学生も大人も全く同様である。

6時を過ぎると……夕立がやってきた。外をみると、四つの未確認飛行物体が×川大学に飛来しているのがみえた。

私に関わった県は順当に負けている

2010-08-08 17:53:50 | 日記
高校野球の季節である。それにしても甲子園に客が入らなくなった印象である。

松本工(長野) 1 - 14 九州学院(熊本)

中京大中京(愛知) - 南陽工(山口)

日川(山梨) - 西日本短大付(福岡)

水城(茨城) - 東海大相模(神奈川)

英明(香川) 4 - 8 八戸工大一(青森)

以上は、私が住んだことのある県(左側)の成績である。順当に負けてきてるかもしれな……。ちなみに私は茨城の常連、常総学院で教えていたことがあるのだが、今年は負けたのか……って、そういや水城でも教えたことあるぞ……。まあ似たような高校だったね……。実際、影響関係があると話を聞いたことがある。というより、大学受験で実績を出そうとするところは似たような感じになるのである。わたくしは、そのやりかたに対して全面的に反対ではない。

ちなみに私の出身校ですか……。

木曽青峰 1 - 3 小諸商(長野大会2回戦)

2回戦まで行ったのか、万歳!私のいた頃なんて、当時の吹奏楽部部長(渡×史×)に「おまえら、1回戦勝ったら応援に行ってやってもいい」とかほざかれるほどだったからな。ほんとにひどいですね……その吹奏楽部部長は。このような人種が増えたので、客が減ったんだろう。

この世の終わりのための教育実習

2010-08-07 18:57:57 | 音楽
マルティヌーを聴くと、私は、戦争が終わって不気味に静まりかえった世界を、思い浮かべる。シェーンベルクを聴いたときもそんな感じがする。たぶん中学生のころ、平和教育かなんかで広島の原爆の写真とかを見ていたときに、彼らの曲をラジオではじめて聴いた記憶がある。たぶん、そのせいである。

マルティヌーの交響曲第6番の冒頭は、明らかに、死体が折り重なった戦場の描写であるようだ。「リジツェへの追悼」とか「野外のミサ」といった戦争と直接関係がある曲よりもそう聞こえる。

シェーンベルクの室内交響曲第2番の最後は、原爆のキノコ雲が立ち昇った様子の描写に聞こえる。ホロコーストを歌った「ワルシャワの生き残り」よりも私には強烈である。

ちなみに、ウエルズの「タイム・マシン」を読むと、プロコフィエフの交響曲第6番が聞こえる。今考えると、この世の終わりの話と、戦争の終わりの曲が妙にマッチしているように感じられる。

私の中学生時代は、こうして終末観に彩られている、ようであった。

そういえば、教育実習のときは、学校も何もかもがいやでいやでたまらなかったが――というのも、学校も教員もサブイボが立つほど嫌いだったことに、実習でようやく気が付いたのである。実習校の帰りに食堂によると、少年ジャンプが置いてあったので、適当に開いて読みながら定食を食べたものだが──、それは、「ドラゴンボール」の最終話あたりであったと記憶する。私は作者の「もう終わりたいよ~」という声を聞いた。終わりたいのは教育実習であった。そんなとき、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」でも聞いておればほんとに昇天できたかもしれないが、このときはそれどころではなかった。というわけで、いま「ドラゴンボール」を開くと、私は教育実習を想い出す。そして何かを終わらせたくなるのである。

結論1:ながら勉強やながら食事はよくない。
結論2:学生の皆さん教育実習がんばって下さいね~
結論3:学校と教員が嫌いでも、教育学部に就職することがある。

ごめんごめん、アイムソーリー、ごめんごめん、アイムソーリー

2010-08-06 13:46:16 | 思想
今日は広島原爆の日である。

アメリカはさっさと謝れよ、という声もあるだろうが、謝ったら負けじゃ戦争は善悪の問題じゃなく駆け引きじゃ少なくとも自由の問題じゃ、とか考えている国に対しては、勝手にやらせて墓穴を掘らせるのがいいのではないかと思う。そろそろこの国は壮大な墓穴を掘る予感がする。

日本も戦後、進め一億火の玉だ、から一億総懺悔に変えて、心から謝ったり怒ったりすることをワスレタために、本質的に何も変わってない人々が安心して勝手に喋り回り、墓穴をほりまくり、結局、60年以上たっても殆ど何も変わっていないことに苦しんでいる。馬鹿以外は。

アメリカもあと200年は、この100年の亡霊に苦しむことになるのだ~。ほんと、日本といっしょに永遠に煉獄で苦しめ。

日本がアニメ見ながらすぐ「ごめんごめん」ということと、アメリカが親指立てながら「パールハーバーのことは死んでも忘れないぜ、アメリカGJ!」ということとは、たぶん似ている。どっちも何か他に目的があって得しようとしてるんだからな。

でも政治の世界じゃ、無理からぬところだろう。謝るべきことが多すぎるから。以前、オバマが広島長崎のことか北朝鮮のことだかを聞かれて「質問が多いねえ~」とかあたふたしていたのを見たことがあったような気がするが、とにかくやることが多すぎるのだ。国民国家は、その論理的必然から人民の依存的体質を増長させてしまっている。国民国家はリヴァイアサンではなく機械でもない。われわれが動かしている不完全な何者かであるにもかかわらず、人格的なものに見ようとする。

というわけで、我々はもはや「アイムソーリー人形」「ごめん人形」などをつくって、いざというときには、自動的に謝るようにしておくのである。これなら国民国家の全体性という難問を措いてもわかりやすい。何か事件が起こったら、何も考えずにスイッチを押せば「アイムソーリー」あるいは「ごめんごめん」と全世界にかわいい人形が謝ってる映像が流れるようにしておくのである。

1、アメリカ、北朝鮮に原爆投下→「アイムソーリー人形」作動

2、日本、ロリコンアニメで白人文化を汚染→「ごめん人形」作動

3、アメリカ、日本の公用語を英語に強制→何故か「ごめん人形」作動

4、秋葉原でアメリカ人が幼女を誘拐→「アイムソーリー人形」、「ごめん人形」同時に作動

5、渡邊史郎、×川大学で書類作成のミス→「ごめん人形」作動

6、渡邊史郎、押し入れに入ったまま一週間出てこず→「ごめん人形」作動