3年ぐらいまえから、近代文学における宗教的なものの役割について考えている。私は作品論者だから、こういう史的構造にかんする研究は苦手だが、結構面白いテーマである。
グローバリズムがもたらしたものはいろいろあるんだろうが、本格的な宗教戦争の雰囲気なのだと、私は思う。われわれはこれから、日本のあちらこちらで、キリスト教的な正統的なものと異教的なものの対立とその解消、というか「消滅」を見ることになるのではないか。日本は何故かは分からないが様々な宗教が弾圧されたにもかかわらず、それが変化しつつ保存されてしまった国だったように思われる。ようするに芥川の「神々の微笑」状態である。しかし、これからそういうことが可能なのかはわからない。
私がそんなことを考え始めたのは、オウム事件のころだが、それ以降の、9・11もホリエモン逮捕も、基本的におんなじような出来事だったように思うのだ。いずれも異教的なものへの弾圧である。ただ、それが結果的に弾圧にも保存にもならずに、かえって異教的なものの繁茂に流れるのである。正統的なものとの対立が鮮明になるどころか、我々は異教的な欲望にながれつつある。それは「神々の微笑」ではなく、神々の単なる戦争である。
あいかわらず、制度への反抗を自意識の劇として愉しんでいる連中は、自分が宗教的であることがわかっておらぬ。「動物化するポストモダン」の作者が、どう考えていたのかはしらないが、我々は簡単には動物にならない。そのかわりに宗教化は不可避である。
……というより、そういう異教的な世界が煮えたぎってしまう世界は、たぶん不幸だが、――我々が真に変化なるものを望むのなら不可欠だ、と私は思うだけだ。グローバル化はどうみてもサスペンスの始まりであり真の地獄の始まりである。
グローバリズムがもたらしたものはいろいろあるんだろうが、本格的な宗教戦争の雰囲気なのだと、私は思う。われわれはこれから、日本のあちらこちらで、キリスト教的な正統的なものと異教的なものの対立とその解消、というか「消滅」を見ることになるのではないか。日本は何故かは分からないが様々な宗教が弾圧されたにもかかわらず、それが変化しつつ保存されてしまった国だったように思われる。ようするに芥川の「神々の微笑」状態である。しかし、これからそういうことが可能なのかはわからない。
私がそんなことを考え始めたのは、オウム事件のころだが、それ以降の、9・11もホリエモン逮捕も、基本的におんなじような出来事だったように思うのだ。いずれも異教的なものへの弾圧である。ただ、それが結果的に弾圧にも保存にもならずに、かえって異教的なものの繁茂に流れるのである。正統的なものとの対立が鮮明になるどころか、我々は異教的な欲望にながれつつある。それは「神々の微笑」ではなく、神々の単なる戦争である。
あいかわらず、制度への反抗を自意識の劇として愉しんでいる連中は、自分が宗教的であることがわかっておらぬ。「動物化するポストモダン」の作者が、どう考えていたのかはしらないが、我々は簡単には動物にならない。そのかわりに宗教化は不可避である。
……というより、そういう異教的な世界が煮えたぎってしまう世界は、たぶん不幸だが、――我々が真に変化なるものを望むのなら不可欠だ、と私は思うだけだ。グローバル化はどうみてもサスペンスの始まりであり真の地獄の始まりである。